副田一穂 年間月評第1回 「江戸の生きもの図鑑―みつめる科学の眼―」展 本草学者の苦悩、あるいは別の写真史
副題の「科学の眼」を象徴するかのように展示された1台のカフ型顕微鏡から始まる本展は、江戸時代の人々が、周囲の物質的世界をどのように観察し、またそこから得られた知識をどのように図示してきたのかを問う。ここで言われている科学の眼とは、立体的な陰影のつけ方や質感の再現といった描写の写実性の度合いを指しているわけではない。当時利用可能だったメディアや技術の枠組みのなかで、「取捨選択された情報」(本展チラシより)をひとつのイメージへとまとめあげているものこそが、科学の眼なのである。本草学(東洋薬学)の研究グループ「嘗百社 」を主宰していた尾張藩士・水谷豊文による『物品識名 』(1809)や、その門下生で日本近代植物学の先駆をなす伊藤圭介による『泰西本草名疏 』(1829)が、日本産の動植物の和名(地方名を含む)と漢名、そして国際的に通用する学名(ラテン語)との照合を目的とした書物であったように、当時の本草学者の最大の関心は、中国、次いで西洋からもたらされた最新の分類学的成果を、可能な限り実際の日本の動植物と突き合わせることにあった。このような実践を補助するために、イメージには実物の入手がなんらかの理由で適わない場合の代替物としての機能が求められた。それは、必ずしも再現的な描写とイコールではない。
嘗百社は全国の本草学結社の中でも特に印葉図(植物の拓本)を好んで用いており、同社員らが編纂した『真影本草』(1857)の書名が示すように、それを「真影図」と呼んだ。美麗な博物図譜の手の込んだ再現的描写からは大きくかけ離れた、単色で地味なこれらのイメージは、対象と支持体の物理的な接触を通じた転写であると同時に、学者が対象を実見したことの証拠としても機能する。この二重の接触の記憶が立証するイメージと対象との忠実さこそが、実物の代替に足る十分な能力を当のイメージに付与しているのである。本草学者たちの魅力的な実践の中に時折現れる「真影」や「写真」といった用語は、例えば写真の特性としてずいぶん後になってから「発見」された対象との指インデックス標的関係を先取りするかたちで、現在の写真という言葉の起源について再考を促すだろう。つまり、写真という語の中国的起源と、カメラ・オブスクラ=写真鏡という定訳との結びつきによって、写真の内実が線遠近法的な表象に基づく対象との類似的関係のみに限定されてしまうことに対する、本草学者たちからの異議申し立てとして(前述の伊藤圭介と交流の深い蘭学者・宇田川榕庵 はカメラ・オブスクラに「真影を現せしむる器」と回りくどい訳を充てることで、その指標的関係を強調している)。
本展の掉尾を飾るのは、築地に置かれた尾張藩蔵屋敷の生き物を描いたとされる『築地名苑真景 ・草木虫魚写生図巻 』である。江戸湾から眺めた屋敷の図を巻頭に置き、屋敷から望む江戸湾の図を巻末に描くこの絵巻をひもときながら、顕微鏡の狭い筒をくぐり抜けてきた私たちの眼は、いつしか屋敷の広大な庭園を端から端までくまなく探索して回る本草学者の眼と重なり合っている。