本展全体を通して浮かび上がるのは、横尾忠則の制作が単一のジャンルや文脈に回収されるものではなく、矛盾や飛躍を孕んだまま拡張し続けてきたという事実だ。用語を手がかりに作品を読み進める体験は、理解を助けるための「解説」である以上に、横尾の世界へと迷い込むための入口として機能している。辞書を引く行為のように、どこからでもアクセスでき、どこへでも逸脱していく。その自由さこそが、横尾忠則の創作の核心であることを本展は示している。
本展では、同名の展覧会カタログにもぜひ目を通したい。山本は「辞書をつくることから始まり、それを簡略化して展示に落とし込んだ。展覧会と図録の主従関係が逆転している」と語る。カタログでは各項目が展示室のキャプション以上に詳細に記されており、鑑賞体験を大きく補完してくれるだろう。

なお最後に本展に寄せられた横尾忠則のメッセージを記しておきたい。
なんと面白い展覧会を企画したものだろうと、思わず拍手をしてしまいました。『大横尾辞苑」はこのままで伝記になっているので、もしぼくが自伝を書くことになれば、きっと参考にするでしょう。
でも、ここまで事細かく内面外面を暴かれると、実は困るのです。秘密がなくなってしまうではないですか。作家は秘密の収集家みたいなところがあって、いかに多くの秘密を有するかが、その作家を神秘化し、謎の存在になるのです。まるで明智小五郎に秘密を暴かれ、「どうだマイッタカ!」といわれているようで、怪人二十面相としましては、営業妨害されたような気分です。
でも、そう簡単に化けの皮は剥がれませんよ。学芸員は「してやったり」とほくそ笑んでいるかも知れませんが、『大辞苑』は私の表面を撫でているに過ぎません。まるでAIのように、知性と感性を分析することで、この世のすべてを解明したつもりになっていますが、残念ながら、もうひとつの隠蔽された世界=霊性の世界があることには気づいていないようです。
とはいえ、この『大辞苑』は、とても役に立つものではあります。辞書は考えたり、探したりといった面倒くさいことを、すべて代行してくれるからです。僕としては、この『大辞苑』が、単なる便利な本を超えて、僕のための預言者や占い師になってくれることに期待しています。
ややこしいことをいって混乱させてしまったかも知れませんが、僕のことばなど無視して、この『大横尾辞苑』を手にしながら、ぜひ辞書の森を歩くように展覧会の奥へ、奥へと迷い込んでください。その時あなたは、もうひとつの世界である霊性を手に入れられることでしょう。 横尾忠則



















