2021年1月、巡回展「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」が愛知県美術館でスタートした。来年の上海での展示を含め、この1年間、横尾忠則はスポットライトを浴びる。
自己と自己の芸術についての「語り」は、横尾の芸術の重要な要素だ。彼が自己をどのように認識するのかを解明するため、筆者と取材チームは60年代以降の資料を読み直し、3ヶ月にわたるインタビューを行った。海外中国語版の自伝の刊行10周年を機に、横尾の自我やエネルギーの源、想像力を振り返ってみたい。
日記コラージュのように人生を送る
日記を開いたとき、横尾は自分が何を書いたのかをほとんど覚えていないようだった。70年代以来、いままでの日記をまとめて出版した彼の本はすでに10冊以上。自伝のディテールがなぜそこまで生き生きと見えるのかが気になったので、「横尾先生は日記を書く習慣があるんでしょうか?」という疑問が口をついてでた。積み重なった封筒、印刷物、サイン入りの本、ラッピングペーパーの下から、病中の彼は『横尾忠則日記人生 1982-1995』というタイトルの本を取り出した。
「日記はね、1970年からずっと書き続けているのよ。もう49年」。
人目を引く性格の持ち主なんだろうか、横尾は。私は彼が病気にかかっていることをぼんやり覚えていて、どう反応すればいいのかがわからないなか、彼は本を開き、面白いページを探し始めた。この本は、スケッチブックのような大きさの日記原稿をスキャンしてほぼ原寸大で印刷されている。手書き文章、おみくじ、名刺、新聞の切り抜き、ツーショット写真、スケッチなど、「エンサイクロペディア」のように、ページごとに何が出てくるのかわからない。
鮮やかで眩しいポスターデザイン、絵やコラージュだけではなく、まさかのこの情報大爆発のスタイルは彼の日常生活までも現している。
「例えば......これは何年だろう、写真ばっかり。会った人全部を撮ったんです。有名な人、一般の人、とにかく会った人を撮る」。
サイズが大きかったせいか、ベージュのベレーと「BEAVER ROOTS」の白い大文字が付いた燃えるような赤いパーカーを被った横尾はほっそり見えた。疲れで目の下がゆるんではいるが、声は澄んでいる。生まれてから何千回ものインタビューを経験してきた彼は、草間彌生とは違う。草間はスタンダードな答えを用意して、人前で自分という役を演じる。いっぽう、横尾は聞き手が質問を切り出す前に、無限の言葉を散弾銃のように聞き手に撃ちまくる。UFOを日記に表したことで、取材チームの私たちが騒いでいるうちに、横尾は何気なく各ページの年月日を示してくれた。
「この日記は10年間のまとめだ。このページは1992年でしょ、このページは1985年でしょ。5月31日、6月1日......日は連続しているけど、書いた年はランダムだね。この10年間で面白いページを選んで本をつくったんです」。
日記を書くという行為は写真のようにそのときの瞬間を切り取ることだ。記録は日々蓄積されて、自分のビッグ・データを残す。後に振り返るとき、時系列で巻き戻し、眠っていた涙や勇気を呼び起すことができ、このような自分があったんだと再発見する。しかし、この日記では人生の一瞬一瞬がバラバラにされ、新しいリアリティが生み出されている。横尾がこの世界をどう体験したのかが、常識を超えた「日記」で示されていることに気付いた。横尾忠則が無意識に掴んだ瞬間、26億1748万秒という時間の砂は彼の指の隙間を惜しみなく流れてしまった。いま囁いている音がどの瞬間なのかを彼は知らない。
これが私たちの初対面だった。
つねに違う“私”を探り続ける
チャイムを押した瞬間、横尾がドアを開けて出てきたことは予想外だった。
「先生、こちらの椅子を移動してはいかがでしょうか」「撮影の装備を設置するため、 サイドテーブルとイーゼルをどこに置くのがいいでしょうか」と、礼儀正しくスタジオのスタッフと現場のセッティングを確認していたとき、横尾は本棚を背景にするアイデアを出した。ようやく撮影位置に座った横尾は、「足は撮らないわけ?」と言った。彼は鮮やかなスリッパを履いているので、カメラに納めたくないと思ったのだろう。恥ずかしそうな顔を見て、みんなが笑った。
「子供の頃から一人っ子だからさ。兄弟もいないし。第三者というのは担任や学校のなかの友達だけ。社会に出ると言っても、郷里の田舎から神戸に行くくらい。僕にとって、神戸は大都会なんですよね。都会の人たちとは、共通の意識がない。自分は田舎っぺだという感じがものすごく強くて恥ずかしいんですよね」。
1960年に上京した後、横尾は自分の関西弁にコンプレックスを抱えることとなった。「東京に出てきたとき東京の言葉が喋れなかったんだよね。意味はわかるけれども、イントネーションは全然違うんだ。東京の方はどちらかと言うとロジカルで、観念的で、難しい。関西の方は難しいことを言わない。お笑い系で、吉本興業みたいのがだいたい関西の言葉」。たとえ日本デザインセンターに入ってたくさんの先輩に囲まれても、彼はまだ自分をアピールすることができなかった。
「僕はね、昔からアピールってということほとんどしてないわけ。だからね、アピールすること自体が、僕にとっては非常に難しいというか、『クズになる』わけですよね。『自分は、自分は』っていうのは、あまり子供の頃からなかったんですよ。さっき言ったように一人っ子で、親がふたりとも老人だったからということもあって、外へ行くよりも、家のなかで絵を描いてることが多かったからね。アピールの仕方がわからなかったような気がするわけ。わからないまま大人になっちゃった。東京に行って、先輩も、同じ年齢の連中も、みんなは私より才能がある人に見えたんだよね。自分の能力は彼らよりもどこかちょっと低いところにいると思ってたから、どの人と会っても色んな影響を受けた。でも、こういう風になってみたいっていう、人と比較するとか、競争するって、その意識はものすごく低いね」。
横尾は大人になったら、必ずこのような人になりたいということを考えていなかった。ひたすら絵を描くことが好きで、アカデミックな美術教育を受けたことがなかった。偶然に新聞社経由で広告業界に入り、青年時代一気に文芸とポップカルチャーの頂点に立ったことは、横尾にとって、見知らぬ世界に触れる体験だった。1970年に出版された彼の自伝的なエッセイ集のなかで、彼は最初の一行で自分の思いについてこう述べている。
「私はつねにデザインというものを体で考えてきた。それには理由があった。まず、デザインのために生活があったのではない。生活のためにたまたまデザインがあったに過ぎない。いわば、生活するためにはデザインでなければならないという理由はどこにもなかった。私がデザイナーになったのも単なる偶然からである」。
時代の不確実性に人生を委ねることを楽しみにしている彼にとって、時代の空気によって自分の創作が変わることは当然だ。彼の創作の立場はその時代とともにつくること、ときには運を天に任せることだ。
「必ずしも自分が好きだと思わない。いまの自分が嫌いではないけれども、もっと違う、見たことのない自分が僕のなかに待機してると思うんですよ。待ってる。いつ出してくれるんだって。だから、そういう意味ではどんどん変化していって、僕が知らない“私”というものを見てみたいという考えは非常に強いですね。自分に固執したり、自分の考えを優先するっていうことじゃなくて、むしろ未体験なものを通じて自分のキャパシティを大きくしていきながら、かつての古い自分を捨てていく。そういうことに興味があるんですよね」。
創作のスタイルから、アイデンティティや人に見せるイメージまで、83歳のいまになっても、横尾はまだ「違う私」になることを望んでいる。数十年以来、横尾は色々な場面で似たようなことを語っている。恥ずかしさ、コンプレックス、創作の探究以外で、彼がしつこくいまとは違う“私”を探す理由は、もしかして人々が知っている「横尾忠則」はいまここにいる“私”とは違うからなのだろうか。
「グラフィックデザイナーは20年やったんです。画家は35年くらい。画家の方が長いくてグラフィックの期間は短いんですね。ヨーロッパとアメリカで一気に出てしまったのでグラフィック(としての僕)は非常にポピュラーになってしまったけれども、僕のなかでは一応終わりました」。
「横尾忠則とは何者か」
「横尾忠則とは何者か」という課題を模索するうちに、横尾と私の同僚のふたりが国立国会図書館でJALにデザインしたコーポレート・アイデンティティのプロポーザルを見つけた。1961年のものだ。KLMオランダ航空がオランダ人デザイナーによって全面的にコーポレート・アイデンティティを導入したのは63年だ。時期を考えれば、当時日本デザインセンターにいたデザイナーの挑戦は世界のパイオニアと互角だった。
しかし、そのデザイン案にすこし目を通すと、横尾がモダニズムデザインに興味がない理由がすぐにわかった。後に彼が東京ADC賞をもらったとしても、彼自身は田中一光らモダンジャズを聴き、文学や芸術史を引用し、デザイン哲学を述べるアカデミックな、知識人的なデザイナーとは違う世界にいると感じたことだろう。田舎出身の彼にとって、彼の原風景は自然、お母さんが詣る神仏、郷里の呉服屋の紋様、マンガ、少年冒険小説、野球、映画の名優、流行の歌謡、忍者と剣豪だったようだ。
「いつ自分が一人前になったと感じましたか?」と彼に聞くと、「まだないよ。いまだって、そんなのないですね」。そう間髪いれず答えた。横尾は他人に影響を与えることに興味がない。美大で学生に教えたこともあったが、面白いとは思わなかった。
「僕は目標や目的みたいなものはむしろ持たないタイプですよね。『大義名分』を持たない、何もない状態は一番いいんですよ。禅が教えてくれた経験かもわかんないね。禅はね、もともと何もないんですよ。何も欲しなくていいって。その場その場で必要なものは必要な時期に与えられるという考え方ですね」。
禅を学ぶ動機を聞くと、横尾が堪えきれずクスクス笑い出した。「あのね、外国行くでしょう。ニューヨークに何回も行くと、友たちができたり、いろんな知識人と会うわけですよね。僕は日本人だから、みんなは禅の話を僕にぶつけてくるわけ。聞いてると、僕より禅のことをよく知っている。でも僕は禅をそんなに勉強してないからわかんないわけ。禅を学ぶことで彼らとコミュニケーションできるんじゃないかって思って帰ってきて、一年間お寺で禅をやったんですよね。やってるときは、『足が痛い』『腰が痛い』『眠い』とかそんなことばっかりだったけれども、2年、5年、10年、20年経ってくると、そのときに経験した禅が自分の体のなかに仮の『禅の経験のスペース』をつくってくれてる。いまになって非常に役に立ってるんですよね。『あんまりものを考えない』影響が来てますね。それはいいことだと思います」。
「『ものを考えなさい』って言う人は非常に多いけど、僕は『ものを考えない』ことの重要さみたいなものを禅を通して色々経験した。直感みたいなもの、それから体を通して体験した感覚みたいなものは、言葉やコンセプト、つまり考えることよりももっと大きくて重要だと思うわけ。『それはなんだ』って言われても、言葉では説明できない。だから言葉で説明できないものほど僕にとって非常に重要で、一番いいのは何も喋らなくなる、何も聞かなくなるという状態になったときですよ」。
横尾にとって人生は即興演奏なんだろうか。いっぽうで彼はいつも「横尾忠則とは何者か」と自分に問いかけている。戦後の復興とともに彼自身が高度成長という高い波に乗ってきたからだろうか。人があふれる東京に慣れて、自分は周りの連中とは何かが違うことを感じていた。もしかしたらその部外者のような気持ちのおかけで、彼は子供心を忘れなかったかもしれない。
創作を通じて、無意識の自分をかたちにする。ポップ・アーティストとして美術の世界に入ったアンディ・ウォーホルが、以前のイラストレーター時代のウォーホルを葬り去ったことに横尾は気が付いた。
「アメリカなんかはね、ヨーロッパもそうだね、グラフィックの世界とアートの世界は線が引かれてしまうんです。人間の交流もない。日本の場合は、その境界線は非常に曖昧でグラデーションになっちゃった」。
彼の自伝や50年間の様々なインタビューを見てみると、横尾がそれぞれのステージ で、サイケデリック、前衛、超古代文明など、異なるキーワードに悩んでいたことに気づく。面白い発見だ。彼はよく自分の思考の軸を定義し、自問自答した。10年、20年経てば、たとえ同じ質問に応じても、そのときの状態で考えが変わるのはむしろ当たり前のこと。生きている限り、人は変わっていくものだ。世界のトレンドに流されたくないために、横尾はまるで自分と約束するかのように、「それぞれのいま」で 「当時の私」をまとめて宣言を出す。こうやって色々な“私”をつくってきた。
「僕は自分の全部を出し切ったとは思ってない。まだまだ未知の部分が自分のなかにあると思ってるんです。いろんなところに行ったり、いろんなものに触れることによって、その知らない自分がそこで出てくるんでしょ。だから、そうしたときに、『え、これが自分なの』って驚くこともあるわけ。だから自分らしい自分を見ても驚かないし、自分のなかにある、まったく知らない自分を見たときに驚きたい。そういうときに、『自分って一体なんなんだろ』って思う。『そんなものは最初からあるのかないのか』って考えたら、みんなはあると思うんだけど、本当はないのかもしれない。そうしたら、『あれをやっちゃうのはいけない、これをやればいい』じゃなくて、何をやってもいいってことになってきますよね。相対的にものを考えなくなりますよね。好き嫌いがなくなっていくわけだから」。
これまで横尾は自然のままに人生に従うことについて語ってきたが、「このような自己の探求がある意味欲望の一種ではないでしょうか」と彼に尋ねた。
「それはね、いい質問だと思う」。なんと褒められてしまった。
相手に想いを持つと、相手も必ず想いを持つ
向こうの世界にあるのは恐怖なのか、希望なのか、幸せなのか。何十年もかけて、横尾は精神世界を模索して、自己を探求してきた。この年齢になると、彼は「我」を「無くす」術を心得ているようだ。若い頃、彼は文章を書くことが不得意だった。人の前で話すのも恥ずかしいと思っていた。しかし、まるで自らを試すかのように、彼はいつも自分を見知らぬ環境においてみた。色々な業界を経験し、たくさんの有名人とも付き合ったが、心の壁を開かないと自分のなかに潜んでいる力を起こすことはできないようだ。
「彼らがやっている仕事に興味を持って、それをつくった人間に興味を持 つ。そうすると会ってみたいと思うでしょ。向こうも知らないうちに僕に興味を持ってくるから会ったときにすぐに友達になる。いま僕はよく若い人たちに言うんだけどね、本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴くのはいいけれども、その人にね、できれば会いなさい。会って、1分でもいい、話さなくてもいい。そうしたら、その瞬間にそこからその人が持ってる全人生、あるいは創作の情報がドーンと自分の体のなかに全部入ってくる。自分のなかでクローズしてるのはだめよ。オープンにしてると、全部入ってくる。三島由紀夫と会ってから、三島の本を読まなくなっちゃった。死んじゃってから読む。本人の方が面白いから。寺山修司でも彼の本を読んだことがない。本人と交流するでしょう。彼の全人生──詩もあるし、演劇もあるし、いろんなものがある──全部が伝わってくるわけ。言葉を超えて、伝わってくる」。
だから横尾は超自然の力を求めているのか。彼の話を聞くと、納得できた。彼はエネルギーを吸収できるような人と接したが故に素早く成長した。様々なベテランとともに日本デザインセンターで働いた機会は貴重だ。もし横尾がその時期を経験しなかったら、彼はそんなにも早くモダンニズム・デザインを疑わなかったかもしれない。
「スペインでダリに会ったとき、奥さんのガラともあって、4時間も彼の家にいたのよ。僕いきなり立って、横尾だって自己紹介しても彼は知らない。あの人は他の人の作品をあまり見ないからさ。でも僕が興味を持っていたら向こうもどういうわけか興味を持ってきてね。会話だけじゃなくて、その存在から受けるインパクトが大事なんです。ダリって嫌だなと思ったら、嫌だって感じが全部、いいなと思えばいいっていう感じが全部自分の肉体を通して学ぶ。知識っていうのか、芸術観っていうか、それが大きいから、ぼくがみんなにできれば会いなさい言うんだけどね。みんな臆病になって会わずに済ませたいと思う。会いに行っても会ってくるかどうかわからないしさ」。
「いま、60年代のようにたくさんの素晴らしい巨匠と出会うことは珍しくなったのではないですか」と、横尾に聞いた。彼はそう思わないという。
「いまは情報化社会で、会おうと思えば会えるけれども、何かを持って帰ることってはしない。会うことは会うけれどもスマホで写真を撮ってそれで終わり。それだと会ったことにならないよね。だから、なにがなんでも会わないといけないという必然性を若い人に勧めているんです。その必然性があればいいけれども。プライベートな環境じゃなくても、そこを瞬間的にプライベートに変えることができると思うわけ。オフィシャルな場所で会っても、その人は瞬間的にそこに自分のプライベートな空間をつくって、その人の考え方とか、感じ方がわかることって、その人を自分のものにすることだから」。
これは特異な能力ではないだろう。コミュニケーションスキルのレベルが高すぎる。
「こちらが相手に想いを持つと、相手も必ず想いを持つ。そういう法則があるんですよ」。
たとえ科学や理性でも証明されない「もうひとつの真実」についても、横尾は真心で付き合っているのだろう。彼はあらゆる宇宙の出来事からエネルギーを受け入れることができる ので、創作パワーは歳に関係なくどんどん湧いてくるのだろう。
「作品を完成させたとき、失敗したと思うことはあるのでしょうか」と彼に聞いた。
「もう失敗の連続ですよ。失敗をしないとだめなの。失敗か成功かってわからないので、とにかく強引に線を入れるでしょ。その次に何か入れようと思ったらこの線は邪魔になるわけ。入れなければよかった。そうしたら素早く消したり変えたりしながら、気がついたら絵になってる。だから、こういうものをつくりたいっていうのはあまりないですよ、僕の場合は。他のアーティストみんなはありますよ。こういうものを描きたいとか。僕の場合はそれはない。どうなってもいいじゃないですか」。
「できあがると興味がなくなるわけ」。彼はウインクをしながら答えた。