「第2章 千葉時代」は、27歳にして父も亡くし、30歳で親戚を頼りに移住した千葉市千葉寺町での活動を追うセクション。農作業や内職をしながらも周囲の支えもあり絵を描くことを続けることができた一村は、千葉の風景を描いた絵画やデザイン的な仕事、季節ものの掛け軸などといった、丁寧な作品を数々生み出していった。とくに色紙絵は、展覧会という発表の機会がなかった一村にとって、気軽なフォーマットという以上に重要な意味があったという。それゆえか、比較的小さな画面の作品でも、その描き込みには目を見張るものがある。
一村は昭和10年代から戦後まで、江戸時代の文人画に学び、山水画の原理を習得していった。会場には、富岡鉄斎の作品を写し、原本にはない要素を描き加えた《楼閣山水図》(昭和10年代)など複数の軸物が並ぶ。
1947年に画号を「柳一村」と改めた一村は、川端龍子主宰の青龍社展で初入選を果たす。このときの入選作《白い花》(1947)は、結果的に一村にとって公募展入選の唯一の作品となった。本章のハイライトとも言える。一村は翌年の青龍社展出品時に「田中一村」と名乗りはじめ、新たな人生を歩み始めた。
なおこの章では、奄美行きの援助の意味も込めて依頼された襖絵一式も展覧。その力強さに圧倒されることだろう。
また同章最後には、1955年6月に九州・四国・紀州を巡る旅に出た一村が、支援者らに贈った風景画の色紙がずらりと並ぶ。