「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」では、5歳で東京へ移り、彫刻師の父から書画を学び「米邨」の号を受け制作された作品《紅葉にるりかけす/雀》(1915)が初めに紹介される。一村の制作活動は数え年8歳(満6〜7歳)から始まっており、同作の筆跡から「神童」と称された理由がわかるだろう。また15歳で描いた《白梅図》(1924)も見事であり、その大胆な筆跡は抽象画のようでもある。
一村は現役で東京美術学校に入学を果たすも、わずか2ヶ月で退学。しかし一村は中国近代の文人画家による吉祥的画題の書画に影響を受けながら南画家として身を立てていった。1章では、大学退学の時期に描いた新出・初公開の《蘭竹争清図》(1926)をはじめ、若き日の力作がずらりと並ぶ。
20代になると家族の不幸で苦労をしたり、自身の画風が支援者の賛同を得られなくなったことで「南画と訣別」した、画業の空白期間があると考えられてきた一村。しかし、1章で展示されている《椿図屏風》(1931)といった作品や資料から、その期間も新たな画風へ挑戦するための制作活動が意欲的に行われていたことがわかったという。一村の新たな動きを象徴する同作の周囲には、ここ10年の間に発見された作品が並んでおり、これらをあわせて見ることで一村の試行錯誤の過程をたどることができるだろう。