古巣の上野へ
──高橋館長は昨年8月に三菱一号館美術館(以降、一号館)館長の職を退任されたばかりです。今回の東京都美術館(以降、都美館)館長就任には驚きました。
一号館を退任して以降、もう40年も美術館の世界でやってきたので少しは休もうかと1年間を過ごしていたのですが、これがコロナ禍も加わって、身体・精神ともになかなか苦痛でした(笑)。そして、少年時代の滞欧経験に始まる様々な記憶が次第に甦り、結論的にやはり「美術館」というものへの自分の愛着を再確認する結果となりました。
コロナ禍がなければ、長期間渡欧しようかとも考えていました。じつはパリのある複合文化施設から招へいの依頼もあったので、そこでサブカルから伝統芸能まで扱うのも面白いかと思ったのですが、やはり残り少ない人生、本来の原点に戻って、オーソドックスな「美術館」の熟成の仕事に捧げようという気になった次第です。それが偶然、都美館からのオファーに重なるタイミングだったのでしょう。国立美術館も企業美術館も経験してきたので、公立美術館の仕事に挑戦してみようと。私は東京藝術大学出身で、国立西洋美術館(以降、西洋美術館)でも働いていたので、上野は半世紀を過ごしたいわば古巣。上野という場所に対する思い入れもありました。
──「上野は古巣」ということですが、館長は都美館をどのような美術館だと認識していらっしゃいますか?
学生時代は岡田信一郎設計のかつての都美館で公募展の作品を運ぶアルバイトなどもしたので、懐かしいです。前川國男設計の新しい都美館になった頃には、西洋美術館から、立派な施設と組織だと横目で羨ましく見ていましたね。もちろん学芸員同士の交流はあったのですが、いざ今回中に入ってみると(当たり前ですが)、外から見えるのとは違う。ある意味とても新鮮ですね(笑)。
西洋美術館は研究機関的な役割を強く持っていたし、豊富な収蔵品がベースの美術館です。他方で一号館はまちづくりの中の文化施設という意味合いが強かった。
都美館は実業家の佐藤慶太郎(1868〜1940)から、当時の金額で100万円(現在の40億円相当)の寄付を受け、日本初の公立美術館として開館した美術館です。私も佐藤慶太郎の名前はもちろん知っていましたが、どういった思想でこの館の立ち上げに寄与したのか、詳細までは把握していませんでした。佐藤は西洋美術館の礎となった松方幸次郎(1866〜1950)とほぼ同時代人で、松方みたいに海外を渡り歩いた経験はありませんが、非常に優れたインターナショナルな感覚を持っていた。2026年に都美館は100周年を迎えますが、この文化的社会貢献の意思に溢れた佐藤慶太郎という人のことを、もっともっと知ってもらいたいと思っています。
キュレーターの独自色をもっと
──都美館はメディア共催展(ブロックバスター)と公募団体展の2本柱でプログラムが構成されている美術館です。コロナ禍によってブロックバスター展が予約制になり、これまでのように多くの動員をすることが難しくなっていますね。
世界中どこの美術館も、それぞれの立場で厳しいと思っているでしょう。コロナ前のような大きな展覧会が現実的に難しいことはほぼ明らかだと思います。個人コレクションなどを発掘し、定期的に見せることも考えていかなければいけない。企画設定にしても、大きなテーマをもってくるのではなく、各キュレーターの関心に基づき、海外美術館の担当者たちと協力しておもしろいものをつくるという方向になるべきだと思います。
いわゆる商業的な、80年代以降に日本で広がった大型展ではないものを志向していくことは必要不可欠ですね。商業主義的な展覧会は以前より多くの経費が必要になっているうえ、そればかりを繰り返していると消耗していく。私としては都美館のキュレーターたちの個性を生かし、都美館独自の色を濃くしていきたいですね。
──いっぽうの公募団体展についてはいかがでしょうか? 団体では高齢化が進み、こちらもこれまで同様とはいかない気がします。
公募団体が戦前からの日本の近代美術をつくりあげてきたことは間違いないです。例えば、私が若い頃に習った美術の先生たちはほぼ例外なく公募展に出品していました。明らかに日本の美術界を構成する大きな要素のひとつだと思います。でも他方でおっしゃるように高齢化しており、若返りは課題です。若い人たちのやり方を入れていく必要があると思いますが、具体的な方法は検討を重ねなければいけませんね。
都美館はリニューアル後、「新鋭美術家展」(5年前に「上野アーティストプロジェクト」に変更)も行っています。公募団体からキュレーションされた作家をピックアップするとても良い取り組みだと思いますが、もっと存在感をアピールしていきたいと思っています。開催中の「Everyday Life : わたしは生まれなおしている」は、スーザン・ソンタグの言葉からとったタイトルが付いていますが、6人の女性作家にフォーカスした魅力的な企画展ですよ。
──都美館は他の美術館と異なり、コレクションは野外彫刻と書が中心というユニークさがあります。これの活用、あるいは他の都立美術館との連携などは考えられるのでしょうか?
コレクション企画はもっとアピールしていきたいですね。 都立の美術館・博物館は東京都歴史文化財団が運営していますが、美術館同士の横連携を活かしたプログラムが少ない。でもまた、それぞれが独立しているからこそ、今後の可能性は大きいとも言えます。モデルケースとしては、例えば、パリ市内14の美術館のコレクションを管理する公共団体「Paris Musées(パリ・ミュゼ)」が考えられるかもしれません。Paris Muséesは専門領域をもつ各館がとても有機的に連携して動いている。国立の各美術館とも良いライバル関係です。
人とのつながりこそ重要
──先ほども言及されましたが、都美館は2026年に開館100周年を迎えます。それに向けて、どのように美術館を動かしてくのでしょうか。
都美館が藝大とやっている「とびらプロジェクト」や様々なエデュケーションプログラムは好評なので、こういったことはさらに広げていきたいですね。他方で、研究的なところももっと深掘りしていきたい。研究センター的な面ももう少し取り込んでいけば、より多角的な美術館になると思っています。
都美館はこれまで特別展と公募展の二輪で走ってきたが、これを三輪四輪にしていくのがこれから必要なのかもしれませんね。100周年はひとつの目安なので、そこに向けて、そしてその先にどう新たなプログラムを設定していくかが大切だと思います。都美館は日本初の公立美術館であり、これほどの歴史がある美術館は我が国にはほかにありません。だからこそ、積極的に新しい試みに取り組んでいきたいと考えています。
──都立だからこそ、都民のための美術館としていかに開いていくかが重要ですね。
都民に開いていくということは必須ですね。日本の美術館は西洋に比べて後発だったがゆえに、一般の人たちがアクセスするところとしては敷居が高い存在だった。しかし、生活目線で美術にアクセスできるスペースというのは絶対に必要なのです。都美館は佐藤慶太郎の時代以来、その血脈は持っていると思うので、それをどんどん広げていけたらと思います。
そしてなおかつ、都美館を東京を代表する美術館として、国際レベルで引けを取らない場所にしたい。つまり、ローカルな地域性と高い国際性を同時に具現できるようなオープンな存在ですよね。私が培ってきた海外とのコネクションを活用するのはもちろんとして、若い人たちが海外と交流できるような環境をつくっていければ嬉しいです。バブル経済崩壊後の1990年代後半以降、日本の美術館は内向きになって、海外研修等も少なくなってしまいました。また、美術館・展覧会の将来を考えると、海外に人を出すことと平行して、国内外の研修生を受け入れたりすることも必要ではないかとも思います。人とのつながりや仕事・作品に対する“愛情”と“共感”こそが物事を動かす。この歳になって、そう確信を持つようになりました。