東京・京橋のアーティゾン美術館で「空間と作品」が開幕した。会期は10月14日まで。本展はクロード・モネ、ポール・セザンヌ、藤田嗣治、岸田劉生、琳派から抽象画にいたるまで、石橋財団の潤沢なコレクションを紹介するものだが、通常のコレクション展とはまた異なる「空間」という視点から構成されている。
展示は6階、5階、4階とフロアごとにテーマが分けられている。まずは6階から見ていこう。
本展の冒頭を飾るのは、円空仏だ。現代においては美術館に飾られ、木造彫刻の文脈にも接続するこれらの仏像も、本来は村落などにおける素朴な信仰の対象であった。このように、現在美術館で観賞される作品も、かつては異なる文脈を持つ空間に置かれ、違う位相で享受されていたものも多い。本展は、いまいちどかつての空間の力学のなかに置くことで、その新たな魅力を探っていくものとなっている。
パブロ・ピカソ《腕を組んですわるサルタンバンク》(1923)は、1980年に石橋財団コレクションに加わるまで、多くの所有者の手をわたり愛しまれてきた。ピアニストのウラジーミル・ホロヴィッツもそのひとりであり、ニューヨークの自邸では、居間に飾られていた。本作がホロヴィッツに何を与えたのか、来場者も椅子に座って眺めながら考えることができる。
円山応挙《竹に狗子波に鴨図襖》(18世紀)は、建物の一部である襖絵として、会場内につくられた畳の小上がりで展示されている。竹の下で遊ぶ子犬と、波間に降り立つ鴨をやわらかな筆致で描いた本作が、部屋をいかなる空間に仕立て上げていたのか、その一端を体験することができる。
そして6階会場の後半では、美術館側から「お気に入りの場所」の提案として、コレクション作品を家具や調度品と組み合わせ、リビングや食卓、書斎を模した空間で作品を楽しむことができる。
例えばザオ・ウーキーのリトグラフを唐代の壺やイランのテペ・シアルクの鉢などを置いたセンターテーブルと組み合わせたり、山口長男や三岸節子の作品を壁にかけたダイニングをつくりあげたりと、ホワイトキューブとは異なる、生活のなかで作品と親しむ空間が提案されている。
5階会場は、作品のバックグラウンドにある物語を共有する空間が用意されている。例えば冒頭では、自画像をはじめとした青木繁の作品7点を展示している。これらの作品は梅野満雄、坂本繁二郎、高島宇期、蒲原有明といった、青木の制作に影響を及ぼしてきた友人たちが所有していたものだ。青木亡き後に遺作展を開き、画集を刊行したこれら友人たちの追悼と継承の思いが結実したことは、この空間にこれらの作品が集まっていることからもわかる。
ほかにも前田青邨《風神雷神》(1949頃)と、前田が所有していた伝 俵屋宗達《伊勢物語図色紙 彦星》(17世紀)を併置したり、海老原喜之助の素描と、海老原が所有していたピカソのブロンズを併置したりと、作家の所有していた作品をともに見せることで影響関係を伺わせる展示が並ぶ。
そして4階会場では、作品にもっとも近い空間であるともいえる「額」に着目する。額は画家本人が選びこともあれば、所有していた者が選ぶこともある。いずれにせよ、作品との関係性をどのようにとらえているのか、額装する者の考え方が現れている存在といえる。
例えばトマス・ゲインズバラ《婦人像》(制作年不詳)はイギリス18世紀中頃の豪奢で繊細な彫りの額に飾られており、時代の文化を反映したものだといえる。いっぽうでクロード・モネ《睡蓮の池》(1907)は、ルイ16世様式ながらも非常にシンプルな造形をしており、絵画が調度品を超えた独立性を獲得しようとする、20世紀の時代精神が現れているともいえる。
石橋財団コレクションを象徴する作品のひとつであり、多くの人が知る作品である青木繁《海の幸》(1904)も、その額を改めてみると魚や波をあしらったユニークなものであることに気がつく。
また、ニューヨークのギャラリスト、エディス・グレガー・ハルバートが設えたという、国吉康雄《夢》(1922)のせり出すようなカーブが目を引く額や、額をつけないことにこだわりのあった野見山暁治の《あしたの場所》(2008)など、作品をめぐる様々な思惑が現れた額を楽しむことができる。
なお、本展の会場では作品の説明を最小限に止められているが、アーティゾン美術館のフリーWi-Fiに接続してQRコードを読み込むことで、より深い解説を見ることができる。また、同館の公式アプリでは無料の音声ガイドも聴くことが可能となっている。とくに、様々な視点から作品の新たな見方を提案する本展においては、本アプリがより楽しみを広げることになるだろう。
国内随一の質を誇る石橋財団コレクションに、「空間」という観点から新たな見方を与える本展。同館に足繁く通ってきた人は新たな発見を、同館を初めて訪れる人には絵画の見方のおもしろさを、あらためて提示する展覧会だ。