──まずは拝見して一言、とにかく壮大な展覧会になりましたね。
壮大と言えば壮大ですよね。神話の時代から始まり、歴史を追いかけ未来へとつながっていく──ポール・ゴーギャンの言葉に「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というのがありますが、その非常に大きな問いにあえて応えようとしている作品群なので、大きなテーマではあるんです。このテーマを扱うときに大事にしようと思ったのは、基本的にはたったひとりでやるということでした。
僕は大阪の鶴橋に仕事場があるんですけど、今回は5メートル四方くらいのさほど大きくないスペースで、撮影とメイクなどすべてやるという、ある意味、非常に「壮大ではないこと」をやってみました。そういう場所から、世界を問う、宇宙を問うようなことを発信しようと考えたんですね。
──おひとりで制作する、というのはコロナ前とは違いますよね?
コロナの直前まではね、世の中がものすごく巨大なイベントに憧れていた気がするんです。オリンピックがその最たるものですが、表現の世界も巨大なアートフェアや国際展など、「大きければいい」という感じだった。でも僕なんかは──これは問題発言かもしれませんが──コロナから学ぶこともたくさんあったのではないかと見えたりするんです。
──といいますと?
コロナまではインバウンドなんかもあって、みんなが浮かれていましたよね。けど、いままで日本はバブル崩壊やリーマンショックなど、何度も手痛い経験してきているのにそれを忘れている。しっぺ返しがくるぞ、と思ってたんです。そのしっぺ返しがウイルスだとは想像してませんでしたが、そういう状況のなかで僕は作品づくりの原点に戻ってみたいと考えはじめるようになりました。
僕だって(コロナ以前は)作品をつくるとき、自然と大きなチーム編成になっていたんですね。とくに映像作品の制作にはものすごくたくさんの人が関わっていて、そのバックアップがあってひとつの作品ができるようになっていた。でもコロナ禍ではそういうことができないじゃないですか。スタジオは密閉された空間だし、モデルになる自分はマスクができないという状況だから、とてもストレスがたまる。ちっとも楽しくないんですよ。それは良くないなと。そこで思い切った方向転換を試してみました。僕の手法はセルフポートレートなので、「セルフポートレートならメイクも撮影も全部自分でやるべきではないのか」と。自分のさほど大きくないスタジオ、つまり極めて小さな世界で、ひとりで何事かをやろうと考えたんですね。
だからといって、テーマが自分の中に閉じこもって小さくまとまるようなことはいまの状況に対するアプローチとしては面白くないなと思ったんです。だったら小さな単位ではあるが、そこから発信する世界や内容は個人にとどまらないものにしようと。そこで《海の幸》につながったんです。
──この「ジャム・セッション」は、アーティゾン美術館の収蔵品から作品を選んで、それとセッションするというものです。数多くの作品のなかから青木繁の《海の幸》を選んだ理由を教えて下さい。
どの美術館にも、「この美術館でなければ見ることができない」という作品はあるわけです。プラド美術館の《ラス・メニーナス》(ベラスケス)やアムステルダム国立美術館の《夜警》(レンブラント)みたいにね。アーティゾン美術館にも素晴らしい作品はいっぱいありますが、他に類を見ないのは青木繁の作品群ですよ。少なくとも私にとってはそうでした。ここにしかない存在。だからここで「ジャム・セッション」をやるとしたら、自然と《海の幸》が頭の中に出てくるわけです。
それに、《海の幸》は明治時代に日本で描かれた作品ですが、明治以降、近代の美術史の流れにどうもそぐわない感じがする。どこか不思議に見える絵画なんですね。青木繁の師である黒田清輝が主流となって日本の近代美術をつくっていったとすれば、どうもその主流とはズレている感じがする……。にもかかわらず、なぜこれが重要文化財で、ずっと教科書に載っているのかがまったく謎なんです。その謎を、自分なりに解いてみたかった。
《海の幸》は、観る者のイマジネーションを掻き立てる作品なんです。何をやりたかったかわからない。わからないのにみんなすごいとか言う。こんなわからない絵になぜ感心できるのか? 謎の世界がそこにあるんです。それを紐解くことが何か面白い発見になるのではないか、そうに違いない、という根拠のない確信から、今回のプロジェクトは始まりました。
──森村さんは美術史上に残る過去の作品を観察し、分析し、解釈して再現するという流れで作品を制作されていますが、《海の幸》を10作品《M式「海の幸」》に展開したのはなぜですか?
《海の幸》は謎めいているがゆえに、いかようにも解釈できるんですね。よく「絵画は自由に見ていいんだよ」と言われますが、自由な見方を実践的に提示することが自分の表現だと思うので、それをやってみたんです。
──森村さんの自由な見方とは?
一言でいうと、《海の幸》は「時間にまつわる絵画」だと思う。太古から存在する海が絵の背景にあり、その前を人が歩いている。真ん中には若者が二人いて、その前には老人がいます。画面の左右両端はしっかり描けていない状態になっているので、それを「未完成」と解釈するのか、なんらかの意味を見出すかどうかでだいぶ変わってくるんじゃないでしょうか。
そこでまず僕は、《海の幸》を「人間の物語」だと考えました。人間は海から陸へと上がり、自分の足で歩き出す存在となっていく。人間は歳をとるけど、次の世代がまた新しい時間を歩き出していく。なぜ画面の左が描かれていないのかというと、それは青木繁にとっての未来だからです。描き足されるべき世界を描かないというのは、青木繁からの「我々人間はどこに行くのですか?」という問いかけではないでしょうか。しかしながらその問いを、我々人間はちゃんと受け継いでこられたのだろうかという疑問が僕にはすごくあるわけです。だから僕はその続きを自分なりに見つめ直したかった。
《海の幸》の続きを予測し、具体的なかたちにしていくなかで、10の時代区分に分かれていったんですね。「《海の幸》の未完成の続きを描いてみろよ」と青木繁に言われ、「じゃあやってみるよ」と考えながら展開していったのが、《M式「海の幸」》です。
──興味深いのが最後の10作目で、土偶のお面を被った人物が銛(もり)を持っているんですね。その銛の先端をなぞっていくと、1作目につながっているように見えます。
そういうことにしちゃったんです。昨年世の中がコロナという状況になり、時間ができたときに三島由紀夫の『豊饒の海』を読み返したんですが、これが自分のテーマとすごく重なった。非常に複雑な輪廻転生の話で、まさに海がテーマなんです。過去から現在、そして未来へとめぐったときに、行き着くところは元のところなんじゃないかなと。そういう円環を描くような時間の感覚を想定すると、すごく納得がいく感じがしたんです。
《M式「海の幸」》シリーズを展示する展示室は円環状に造作をして、ここに10点の作品を並べてみたんです。すると、最初の作品と最後の作品がうまくつながってくるんですね。青木繁の《海の幸》のさらに前へ、そしてさらに先をと描き足していったら全部つながるなという感覚です。
──銛を持った人間は未来の人間ということですか?
未来の人間像は過去の人間像でもあるということですね。そういうリアリティがあったかな。
──面白いです。本展には、森村さんが青木繁に扮して語る新作の映像作品《ワタシガタリの神話》も出品されています。このなかでモリムラ=アオキ(青木繁に扮した森村さん)はイーゼルに向かって語りかけていますよね。なぜそういう構図になったのでしょう?
最初は色々考えたんですよ。着物を着ているのでコミカルにして、落語のように座布団に座ってお話をするイメージもいいなとか。紫の座布団まで買って(笑)。でもスクリプトを書くなかでなんか違うな……と。シンプルだけれども、ある種の「イメージ」を彷彿とさせる設えが必要だなと思ったんです。だったら自分が青木繁になってみようと。青木繁という画家だったらその前にあるのはイーゼルだろう、と。イーゼルに架けられているのは古い画板で、絵を描く設えになっているんですね。
──森村さん自身が青木繁に扮していながら、語りの最初は「青木さん、あんた……」となっていますよね。
「あんたが青木さんと違うの?」となりますよね(笑)。青木繁は自画像も描いていますが、自画像というのは自分の鏡像をそこに浮き上がらせる行為ですよね。そこで、画板を鏡に置き換えて、そこに映っている自分=青木繁に語りかけるというシーンとして考えたわけです。ただいっぽうで、青木繁=森村が画板という何も描かれてない世界、「美術の象徴」に向かって語りかけているとも言える。シンプルな映像ですが、一体誰が誰に語っているのか、複雑なレイヤーを盛り込むことができたのではと思っています。
──映像を見終わり、本展の最後にあるのは青木繁の妻・福田たねさんに扮したとも見える〈「女」の顔〉のシリーズです。
この展覧会の序章は男性の顔(自画像)で構成されているんですが、そこと最後の福田たねさんをモチーフにした作品はペアになっていて、その間にいろんな物語が挟まっているという構造です。
10点の作品(《M式「海の幸」》)をつくりながら面白いなと思ったのですが、《海の幸》の登場人物はほぼすべて男性で、福田たねさんらしき女性だけがこちらを向いているんですね。目が合う。これはドキッとしますよね。男性たちはその絵画の時間に埋没しているのに、彼女だけが彼女たちにとっての「未来人」である、いまの我々と目が合うわけでしょ。非常にシンプルに言うと、それって素敵だなと思うんです。
《M式「海の幸」》の10点はそれぞれの時代によって登場人物の男女比が変わっていくのですが、あえて「男女」という分け方で言えば、時代が次々に展開しているなかで、男から始まり女で終わるというのは展覧会全体のイメージを表しているなと思うんです。作品をつくるうえで、どうやればピッタリと「ええ感じ」に全部のピースがはまっていくかを考えていくと、自然とそうなっていく。いい収まり方を考えた結果ですね。
──今回の展覧会に続き、来年3月からは京都市京セラ美術館でも個展「森村泰昌:ワタシの迷宮劇場」が開催されます。ともにカタカナの「ワタシ」が使われていますが、これはなぜでしょうか?
僕は行きがかり上......と言ってしまうと、それはちょっと言いすぎかもしれないけれど、ともかく「セルフポートレート」というテーマを背負っているわけです。そこにあるのは「私とはなんなんだろう」という問いですが、プライベートな「私」を始まりにしつつも、それにとどまらない「ワタシ」というものを提示したい。「私」と「ワタシ」は似ているようですが、だいぶ違うんです。プライベートな自分=私を通じて、誰もが持っている「ワタシとは何か」という問いに答えていく。そういう意味における「ワタシ」を見出し、その「ワタシ」に語らせる。だから「私語り」ではなく「ワタシガタリ」でなければならないんです。