李禹煥や菅木志雄、小清水漸、関根伸夫らとともに「もの派」の中核作家として活躍し、その後は独自の絵画表現を追い求めたアーティスト・吉田克朗(1943〜1999)。その回顧展「吉田克朗展 ―ものに、風景に、世界に触れる」が埼玉県立近代美術館で始まった。神奈川県立近代美術館 葉山からの巡回。
本展は、55歳という短い人生を駆け抜けた吉田の全貌に迫る初めての回顧展。同館館長・建畠晢は、本展を「念願の企画展だ。(吉田が)亡くなる前に展覧会をする約束をしていた。素晴らしいアーティストの評価に新しい焦点が当たれば」と語る。
記録写真や未公開の資料を交え、初期作品から、1990年代後半の絵画の大作までをふり返り、吉田克朗の制作の軌跡をたどる本展。会場は、「ものと風景と 1969-1973」「絵画への模索─うつすことから 1964-1981」「海へ/かげろう─イメージの形成をめぐって 1982-1986」「触─世界に触れる 1986-1998」「春に─エピローグ」の5章で構成されており、年代順に吉田の仕事を追うことができる。
吉田は1964年に多摩美術大学に進学し、斎藤義重のもとで指導を受け、同時代の海外の美術動向にも興味を持つようになる。68年に卒業すると、同大学出身者らが関わっていた横浜市の共同アトリエで、関根伸夫、菅木志雄、小清水漸らと作品を制作。関根の代表作である《位相ー大地》(1968)の制作現場にも関わった。翌69年からは、物体を組みあわせ、その特性が自然に表出される作品を集中的に制作。もの派の主要作家として大きな注目を集める存在となった。
現在、もの派は世界的に大きな注目を集めているが、その作品の特徴から、当時の作品の多くは現存していない。そこで本展では、吉田、そしてもの派の動向にとって重要な2作品(紙と石を用いた《Cut-off(Paper Weight)》と、木と石、ロープで構成した《Cut-off(Hnag)》(ともに1969))がThe Estate of Katsuro Yoshida協力のもと再制作され、第1章会場の中央に展示された。吉田の研究者である山本雅美(奈良県立美術館学芸員)は、《Cut-off(Paper Weight)》をこう評している。「本作品は、『新しい芸術とは何か』と問い続けてきた吉田の《位相ー大地》を経てたどり着いた1つの到達点である」(本展公式図録より。
もの派の主要作家だった吉田だが、71年にはもの派の作風から離れ、赤い色彩や筆触といった絵画的な要素を取り入れた作品を発表する。その実践は、《赤・カンヴァス・糸など》(1971-74)、《赤・カンヴァス・電気など》(1971 / 94年再制作)などで見ることができる。
吉田は70年代、版画の制作に加え、転写などの実験的な手法を試みながら絵画表現を模索していた。74年にはイギリスでの文化庁在外研修から帰国。その経験は吉田にとって大きなものだったという。第二章には、帰国後に制作した作品が並ぶ。道路標識を撮影したスライドを壁に投影しその輪郭を紙の上に鉛筆でなぞり、下部に色見本を貼付した「J」シリーズ、風景の一部を抽出した「Work D」シリーズなど、「うつしとる」という行為がその大きな特徴だ。
吉田がうつしとる対象は物体から状況へと広がっていき、1978-79年には「Work 3」「Work 4」シリーズをスタート。前者は紙、後者はキャンバスを支持体にしており、建物の壁に筆や刷毛で線を描き、壁の凹凸や傷などの要素を支持体にうつしとった版画的な作品だ。
80年代前半には、風景や人体を抽象化して描く「海へ」シリーズ、「かげろう」のシリーズを制作。これらのシリーズでは「Work 4」などに見られた線は消え、不安定な形が画面を構成している。これらの不思議な形は、吉田が風景の写真などを断片的に参照しながら大胆に抽象化することで生み出されたものだという。また、アルミ粉を混ぜるなどマチエールへのこだわりにもこの頃から見られる。
「かげろう」はその後、「触」シリーズへとつながっていく。「触」シリーズは、吉田が1986年頃から病に倒れる直前まで取り組んだもの。粉末黒鉛を手指で擦りつけることで描かれたのは、有機的な形象だ。その形象やマチエールは少しづつ変化をしながらも、吉田の制作の根源には、ひたすら「触れる」という身体感覚があったという。
本展最後は、その「触」シリーズから、亡くなる前年に描いた事実上最後の作品「触 “春に”」で締め括られる。
なお、会場には吉田の没後された制作ノートも展示。吉田の制作プランや思考が書き込まれた貴重なものとなっており、じっくり鑑賞してほしい。