倉俣史朗は「もの派」だった? 学芸員・野田尚稔が語る「倉俣史朗のデザイン―記憶のなかの小宇宙」

美術館の学芸員(キュレーター)が、自身の手がけた展覧会について語る「Curator's Voice」。第18回は、世田谷美術館で開催中の企画展「倉俣史朗のデザイン―記憶のなかの小宇宙」をピックアップする。倉俣史朗は「もの派」だった? 《ミス・ブランチ》はどうして生まれたのだろうか。展覧会企画者ならではの考察と、そこから見える疑問について、学芸員・野田尚稔が語る。

文=野田尚稔(世田谷美術館 学芸員)

展示風景より、倉俣史朗《硝子の椅子》(1976)

世田谷区在住であったデザイナー、倉俣史朗との出会い

 世田谷美術館は、世田谷区が設立し、1986年に開館した。当時の区立の美術館としては建物の規模がやや大きいものの、国立や都立とはその活動の方針が異なり、もう少し地域に根を張った展覧会を開催してきている。1990年代前半の日本全体の景気が良い頃の派手な展覧会を記憶している方も多いとは思われるが、そのいっぽうで、世田谷区に在住する作家に継続して目を配ってきた。

 私は学生時代に戦後美術を学んでおり、デザインにとくに強い関心を持っていたわけではなかったのだが、2003年に世田谷美術館に勤め、区内在住のデザイナーについて調べる機会が生まれるようになった。思い返せば、世田谷以前に職場としていた美術館でも美術とデザインの境界を跨ぐかのような展覧会を担当しており、時代的にも学んできたものと重なっているので、まったく未知の領域だったとは言えないかもしれない。そして、地域限定とはいえ茫洋とした部分もある作業のなかで、心に留まる何人かのデザイナー、建築家と出会うことができた。

 倉俣史朗というデザイナーの名前や作品の図版はそれまでも目にしていたが、意識して見るようになったのは、世田谷区に住んでいたことを知ったからだ。だからといってすぐに展覧会をする/しないを考えるわけではない。なんとなくどんな人だったのかと想像するなかで、ある日思い立って美術館から自転車に乗って家の前まで行き、外観だけ眺めて帰ってきたこともある。ゆっくりと資料を手に取り見ていくうちに、私なりの倉俣史朗像のようなものが浮かぶようになっていった。

 2009年にようやく倉俣史朗展の企画書を書き、酒井忠康館長に見せて話をしたのだが、「いま、倉俣史朗展をしても、君の倉俣史朗展にはならないだろう」という、徳の高い僧侶の説教のようなお言葉をいただいて、企画書を下げざるを得なかった。いま思えば、酒井館長の言う通りで、その英断には感謝しかない。2009年の時点の私が勢いだけで倉俣史朗展を担当したとしても、企画の内容の精度は低かっただろうし、展覧会の持つ社会的な意味もいまとは大きく異なっていたはずだ。

 その後11年に、21_21 DESIGN SIGHTで「倉俣史朗とエットレ・ソットサス」が、13年に埼玉県立近代美術館で「浮遊するデザイン──倉俣史朗とともに」が開催され、私のなかでは世田谷での倉俣展開催は、かなり奥深く沈んだままとなっていた。そうして時間が経っていったのだが、18年の暮れに酒井館長に企画の話をする機会があり、いまだ倉俣史朗に関心があることを伝えると、どういうわけか「やっても良い」となった。その代わり、単館ではなく巡回展に仕立てることが条件として告げられた。巡回に関しては、以前より旧知の富山県美術館の学芸員の稲塚展子さんと、「いつか倉俣展を一緒に」と話していたので、すぐ連絡をし、富山県美術館内の調整を始めてもらうことに。富山展開催の可能性が確実になってくると、今度は酒井館長が、古くからの友人で、当時、京都国立近代美術館の館長を務められていた柳原正樹さんに連絡をしてくださり、京都での開催が決定。宮川智美さんが担当してくれることとなった。ここからクラマタデザイン事務所の全面的な協力を得つつ、3館で話し合いながら具体的な展覧会の準備が始まる。

倉俣史朗は「もの派」だった?