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2023.1.25

30年ぶりのエゴン・シーレ展が東京都美術館で開幕。レオポルド美術館から名品が来日

芸術の爛熟期を迎えたウィーンに生き、28年という短い生涯を駆け抜けた夭折の画家エゴン・シーレ。その世界有数のコレクションを誇るレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、ウィーン世紀末美術を揃えた大規模展覧会「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」が東京都美術館で幕を開けた。

展示風景より、エゴン・シーレ《ほおずきの実のある自画像》(1912)
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東京で30年ぶりの回顧展

 世紀末を経て芸術の爛熟期を迎えたウィーンに生き、28年という短い生涯を駆け抜けた夭折の画家エゴン・シーレ(1890〜1918)。そのシーレをめぐるウィーン世紀末美術を展観する大規模展覧会が、東京都美術館の「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才」(1月26日〜4月9日)だ。担当学芸員は小林明子、ゲストキュレーターはディータード・レオポルド。

東京都美術館
展覧会会場エントランス

 エゴン・シーレが生まれたのはウィーンにほど近いトゥルン。15歳のとき、最大の理解者であった父が精神病を患い死去し、その喪失感を埋めるように自己肯定のために多くの絵を描き、最初の自画像集をまとめた。シーレが本格的に美術の門を叩いたのは1906年。弱冠16歳という若さでウィーンの美術アカデミーに入学し、翌年には同じくウィーン世紀末美術を代表する存在であるグスタフ・クリムトと出会い、大きな影響を受けた。

 しかしシーレは1909年、美術アカデミーの旧制度に反発して自主退学し、友人らと「新芸術家集団」を結成する。ミートケ画廊で最初の展覧会を開催した後に集団を離れ、クリムトの装飾的で耽美な作風とは異なる独自の裸体画を模索していった。1915年にはエディット・ハルムスと結婚するも、まもなく徴兵。戦場へと赴いた。戦地から戻ったのちに多数の美術展に出品するも、18年にエディットがスペイン風邪で逝去。シーレもその2年後、28年という若さでこの世を去った。

展示風景より、アントン・ヨーゼフ・トルチカによるシーレの肖像写真(1914)

 本展は、東京ではじつに30年ぶりとなるシーレの回顧展。ウィーンのレオポルド美術館の所蔵作品を中心に、シーレの油彩画やドローイングなど50点が来日した。レオポルド美術館は19世紀後半から20世紀のオーストリア美術約6000点を所蔵しており、なかでもシーレの作品数は220点にものぼる。まさに「シーレの殿堂」だ。

 レオポルド美術館のハンス=ペーター・ウィップリンガー館長は、本展開催に際し、「最大規模のシーレの展覧会。傑作と呼ばれる作品をご覧いただける。今回はシーレのたどった道筋をご覧いただくものとなっている。多くのインスピレーションを得ていただきたい」と呼びかけている。

展示風景より

50点に上るシーレ作品が集結

 展示は「エゴン・シーレ ウィーンが生んだ若きて天才」から「エゴン・シーレ 新たな表現、早すぎる死」まで、年代順の14章で構成。各章にはテーマが設けられており、署名が入っていない未完成の作品《しゃがむ二人の女》(1918)が最後を飾る。

展示風景より、エゴン・シーレ《しゃがむ二人の女》(1918)

 シーレは、そのナイーヴな感受性で己を深く洞察し、ときに暴力的なまでの表現で人間の内面や性を生々しく描いた。特筆すべきは表現性豊かな線描と不安定なフォルム、鮮烈な色彩だ。いくつかの代表作を見ていこう。

 例えば本展のハイライトである《ほおずきの実のある自画像》(1912)。これはシーレが生涯挑み続けた自画像シリーズのなかでも、もっともよく知られたものだろう。頭部を傾け、こちらに向けたその眼差しは挑発的だ。顔面は青白く、血管のように赤や青の絵具が走る。両肩は不揃いで、ほおずきとのバランスが緊張感をもたらしている。担当学芸員の小林は、「眼差しに画家の複雑な心境が表れている。天才画家シーレの才能が凝縮されている作品」と評する。

展示風景より、エゴン・シーレ《ほおずきの実のある自画像》(1912)

 《ほおずきの実のある自画像》の前年に描かれた《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》(1911)も強烈なインパクトを与える作品だ。中央の人物は画家自身を表しており、目を閉じた様子は瞑想にふけっているように見える。いっぽうで背後に立つ人物は蒼白で、死人の顔を意味している。死に抱かれる自画像という構造。シーレが早逝することになる自らの運命を無意識のうちに悟っていたのではないかと、見るものに思わせる。

展示風景より、エゴン・シーレ《自分を見つめる人Ⅱ(死と男)》(1911)

 通常、平和や愛を象徴する母子像も、シーレは違う視点で描いている。《母と子》(1912)は構図こそ伝統的な聖母子像を踏襲したものだが、母親の目と口は閉じられ、赤子は恐怖を目の当たりにしたように目を見開いている。また《母と二人の子ども Ⅱ》(1915)は「ピエタ」の図像を取り入れたものだが、浮遊する赤ん坊の存在が不穏さを掻き立てている。多くの母子像が持つ幸福や愛情といった主題とは一線を画した、死や不安の空気に注目してほしい。

展示風景より、エゴン・シーレ《母と子》(1912)
展示風景より、エゴン・シーレ《母と二人の子ども Ⅱ》(1915)

 クリムトからの影響を受けた作品も見逃せない。《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》(1908)は、正方形のキャンバスの中央に大胆な色彩の花と葉が据えられたもの。このキャンバスの形や、背景に金や銀などを用いる手法はクリムトの影響を受けたもので、絵画の平面性を強調するとともに、装飾性も高められている。

《装飾的な背景の前に置かれた様式化された花》(1908)

 本展にはこうしたペインティングだけでなく、ドローイングも数多く出品されている。16歳でアカデミーに合格したシーレ。鉛筆や水彩で描かれたドローイングは「その才能をより説得力を持って伝えるもの」(小林)だ。

展示風景より、エゴン・シーレ《闘士》(1913)

ウィーン世紀末を生きた画家たちも

 本展を特徴づけるのが、シーレ以外の作家たちも数々展覧されている点だ。クリムトはもちろんのこと、コロマン・モーザー(1868〜1918)、オスカー・ココシュカ(1886〜1980)やリヒャルト・ゲルストル(1883~1908)など、シーレと同時代のウィーンを生きた作家たちを構成に加えることで、その関連性が示されている。

 ココシュカはシーレとともにウィーンの表現主義を代表する画家であり、詩人、版画家、劇作家としても活動した。その大胆な筆致と分厚く塗り重ねられた絵具が特徴だ。自己をナルシスティックに描く自画像は、シーレの自己表現に先んじる作品だとされる。

 シーレと同じウィーン美術アカデミーで学んだゲルストルは、作曲家アルノルト・シェーンベルクの妻と恋愛関係に落ち、失恋のショックから若干25歳で自殺。その後、長きに渡り忘れられた存在だったが、1931年に初めて回顧展が開催され、注目を浴びるようになった。ナルシシズムを感じる自画像は、シーレの自己表現に先んじるものとして位置付けられている。

 また、ウィーン分離派をクリムトとともに創設し、機関紙『ヴェル・サクルム』のデザインを担当していたモーザーは、絵画のみならず家具や工芸品など幅広いジャンルで作品を発表した。

展示風景より、グスタフ・クリムト《シェーンブルン庭園風景》(1916)
展示風景より、コロマン・モーザー《キンセンカ》(1909)
展示風景より、リヒャルト・ゲルストル《半裸の自画像》(1902)

 画家として活動したわずか10年ほどの短い期間のなかで、次々と様式を変えていったエゴン・シーレ。本展は、ウィーン世紀末美術の歴史のなかで、シーレがどのような立ち位置にあったのかを、あらためて知ることができる貴重な機会だ。

展示風景より、エゴン・シーレの自刻像(1917)
出口に向かう途中にあるパネルには印象的なシーレの言葉が