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クリムトとウィーン分離派。「新しい芸術」を目指した「戦い」の軌跡をたどる

グスタフ・クリムトが「分離派」を結成した1897年。それはクリムトが「クリムト」となる道の始まりだった。絢爛たる「黄金様式」や私生活における女性たちとのエピソードから、クリムトには華やかなイメージがある。しかし、「自分ならではの様式」を求めていく道は、同時に保守的なウィーン美術界との「戦い」の道でもあった。本稿では、クリムトのキャリアのうち「ウィーン分離派」時代に焦点を当て、「クリムト展」そして「ウィーン・モダン」展の展示作品とともに、彼の「戦い」の軌跡をたどる。

文=verde

グスタフ・クリムト ベートーヴェン・フリーズ(部分) 1984(原寸大複製/オリジナルは1901-02) 216×3438cm ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館 © Belvedere, Vienna ※「クリムト展」出展作品

ウィーン分離派結成まで──クリムトとウィーン大学天井画事件

 19世紀後半のヨーロッパ、とくにフランスでは印象派やポスト印象派など、新たな美術の潮流が生まれ、画家たちが「伝統」を離れて独自の道を歩み始めていた。しかし、保守的な団体クンストラー・ハウスが支配的なウィーン美術界では、未だに数百年前からの「伝統」が重んじられており、20代のクリムトもこの風潮に従うひとりだった。伝統的な技法で神話などの主題を描き出した装飾画は高く評価され、26歳のときには皇帝から勲章を授与されている。

 そのいっぽうで、クリムトは決まりきった主題をオーソドックスな技法で描くことに飽き足らず、自分ならではの「新しい表現」を求めるようになっていた。そんななか、1894年にウィーン大学講堂の天井画の仕事が舞い込む。そして2年後に提出した下絵が激しい議論を巻き起こす。クライアントから与えられた「医学」「法学」「哲学」というテーマを、伝統的な寓意表現ではなく、独自の解釈によって描き出したからだ。

焼失したグスタフ・クリムト《医学》(1899-1907) 出典=ウィキメディア・コモンズ
(Gustav Klimt, Public domain, via Wikimedia Commons)

 とくに《医学》(1899-1907)の左上に浮遊する女性の裸体など、露骨な性の表現は、大学関係者たちにとって、真面目な学問の場にふさわしいものとは思えなかった(その後もクリムトは制作に取り組み、作品を公開したものの、そのたびに激しい議論を引き起こしたため、最終的には契約そのものを破棄している)。

 この一件を通じて、クリムトは「新しい表現」を認めないウィーン美術界の閉鎖性をはっきり感じ取る。下絵提出の翌年、クリムトは同じく保守派に反発する若手芸術家たちとともにクンストラー・ハウスを脱退。新たなグループ「ウィーン分離派」を形成した。

グスタフ・クリムト 第1回ウィーン分離派展ポスター(検閲後) 1898 カラーリトグラフ 97x70cm ウィーン・ミュージアム蔵 ©Wien Museum / Foto Peter Kainz ※「クリムト展(東京展)」および「ウィーン・モダン展」出展作品

 参加メンバーは絵画だけではなく、彫刻、工芸、建築と多様なジャンルにわたり、作風もバラバラだったが、伝統からの「分離」と、「新しい芸術表現を目指す」という目的において共通していた。 そして1898年に完成した専用の展示施設「ゼセッション(分離派)館」の入り口には、モットーとして次の言葉が掲げられた。

 「時代にはその時代の芸術を、芸術には自由を」。

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