過去と現在が交わる神殿
フランスでは新型コロナウイルスの影響により昨年10月29日から美術館が一斉閉鎖されていたが、半年以上経った今年5月19日に解除となった。それに伴い延期されていた「ブルス・ドゥ・コメルス」の開館日がついにやってきた。
パリで美術館を開くことが夢だったフランソワ・ピノーに同市からのオファーが舞い込んだのは2015年。ピノーがヴェネチアにつくった美術館「プンタ・デラ・ドガーナ」に続き、パリの改装も安藤忠雄に依頼した。当時、体調に懸念のあった安藤の負担を減らそうと、在パリの建築事務所NeM、歴史的建造物の修繕を専門とする遺産建築家らもチームに参加。2017年に着工後、地上4階建の内部に10の展示室(1〜3階)、多目的ホールやスタジオ(地下1階)、カフェレストラン(4階)などを約3年かけて完成させた。
古代建築に着想を得た神殿のような建物の中に入ると、その外周に沿ってフロアが円環し、現代美術を展示する壁や空間が新設されている。中央に向かって開かれた扉を進むと、自然光が注ぐ巨大な吹き抜け空間に、直径29メートル×高さ9メートルの円筒型の鉄筋コンクリートの構造が現れる。
鑑賞経路や光の道筋が、歴史的建造物とその中央に挿入された円筒とをつなぎ、それぞれの空間に宿るアートの異なる時代性や多様なコンセプトのあいだをつなぐ機能をしている。円筒の周囲にぐるりとのびる階段を上がると、現代美術館でおなじみのマウリツィオ・カテランのクスッと笑わせられる作品も目に入ってくる。
「開かれること」
「アートと関係することで得られるもののひとつは、それによって視点が開かれることにある」──実業家として成功しながら、可能な限りの時間をアートコレクターとしてアーティストと交流し、作品と向かい合うと言うピノー。50年のあいだに集めた作品は現在、1万点にもおよぶ。開幕展では、閉鎖や不動の時代にこそすべての人に向かって開く美術館のあり方を再考し、「自由への渇望」「不当への抵抗」「他者の受容」あるいは「死生観」などへの示唆に富むアーティスト32名の作品約200点を選定した。
ウルス・フィッシャー
先の象徴的な鉄筋コンクリートの祭壇に展示されるのは、スイス生まれでロサンゼルスとニューヨークを拠点に活動するウルス・フィッシャーの彫刻作品。コレクションの歴史に強く関わるフィッシャーは、2012年にパラッツォ・グラッシで単館展を開催した最初のアーティスト。今回、この天窓の下に広がる空間に合わせて、2011年の代表作《無題》を再構成。中央の大理石模様の巨大な記念碑は、後期ルネサンスのイタリア彫刻家ジャンボローニャの作品を蝋燭で模した「虚栄心」だとし、会期中に次第に溶解されていく。物事を固定化することへの拒否=創造的破壊として、私たちは時間の経過とともにかたちを失っていく彫刻を見るという行為に仕向けられる。
デイヴィッド・ハモンズ
続く地上階の展示室では、ピノー・コレクションが継続的に集めてきたアフリカ系アメリカ人アーティスト、デイヴィッド・ハモンズの作品30点がまとまったかたちで初公開されている。ハモンズは人種差別の傷を動機に、1970年代から屋外で見つけた廃材などを利用してドローイングや彫刻、インスタレーションを制作する。1989年にはローマのアメリカン・アカデミーに滞在しアルテ・ポーヴェラの影響も認められるが、制度や美術市場から距離を置いているため、ヨーロッパではほとんど重要なかたちで紹介されてこなかった。
会場には裂け目を入れて色を変えた星条旗《Oh say can you see》(2017)や、壊れた自転車と折れた標識でできたコート掛け《Central Park West》(1990)などが並ぶ。これらの作品は、その場所にたまたま生まれただけで、損耗し烙印でも押されたような存在に見える。同時に、疎外されるために見えにくく強制された沈黙ゆえに届かない声を聞こうとするようにも見える。《Minimum Seculity》(2007)では、ブルス・ドゥ・コメルスの一室に貼られた19世紀後半の世界との貿易の歴史を示す地図の前に、鉄製のケージ、石、鍵の束などが置かれた。その時代がちょうど西洋の植民地拡大の真っ只中にあったことを不気味に思い出させる。
現代アーティストによる写真作品
2階では、これまで未発表だったピノー所有の写真作品も初めて紹介されている。同展では、1970年から90年代に「演出」「連続性」「引用」「アプロプリエーション」などを実践しながら、現代社会における固定されたイメージの役割への批判的なアプローチを行った6人のアーティストによる写真作品を紹介。
ミシェル・ジュルニアック、シンディ・シャーマン、マーサ・ウィルソンはそれぞれの作品で、変装、服装倒錯、自己演出を表現したり、性別や年齢などによる社会的役割の定義を乱そうとしたりした。ルイーズ・ローラー、シェリー・レヴィーン、リチャード・プリンスの探求は、シミュレーショニズムの延長線上で、社会に氾濫するイメージの文脈を組み替え、価値を変えたり、もしくは批判対象となることを反復・増幅させた作品で問題を浮き彫りにさせるものだ。これらは、一巡してアートの創作行為における著作権や主体性の解釈を急進的に拡張させた。
表された人物たち
3階では全フロアで、人物の姿を共通項とした絵画と彫刻作品が展開されている。性別、世代、背景にある文化などが異なるアーティストを混合させながら、新しい世代に向けても開かれたコレクションであることがわかる。
作品のなかにいる人物たちは、多くの場合匿名でありながら、鑑賞者はそこに普遍的な共感を獲得していく。ミリアム・カーン、シンイー・チェン、トーマス・シュッテ、クレア・タブレらは、「ジェンダー」「権力」「アイデンティティ」にまつわる実在の人物や寓意的な人物を設定し、実存的な疑問を可視化する。ケリー・ジェームズ・マーシャル、リネット・ヤドム・ボアキエ、アントニオ・オベは、黒人のアイデンティティと記憶を検証しつつ、彼/彼女らを美術史のなかの風景に挿入させている。ピーター・ドイグとフロリアン・クリューワーは、夢か架空の世界のような風景のなかに、ときに不穏なビジョンを展開する。比較的どれも静寂に満ちた作品で、複数の物語を想起することも可能だ。
現代アートをより多くの人に開放したい
自由を奪われた理由を内省する時間が与えられたあと、ふたたび世界へ向かい人々と交流したいと思うことにためらいがある人は少なくないと思う。この新しい美術館の開幕も、新型コロナ以前のようにはいかないが、混雑せずにゆっくりとアートに再会できたという喜びと励まされたような感覚があった。以前、大学の恩師が美術館を世界への窓に喩えていたことも思い出した。
最後に、いくつかのピノーのステートメントの抄訳を試みて結びとしたい。
「アートは謙虚の学校である。なぜなら光も影の部分も含めて世界は美しく、世界の人々との交流には終わりがないことを、アートは教えてくれるからだ」。
「リスクをとること、他の人が教えてくれるものを受け取ることができるように自己限定を避けること、閉じこまり不動となることへの誘惑に抗うこと(…)これが新しい美術館の大きな挑戦である」。