色彩が顕れることをまるで初めてのように感じ、驚き、喜ぶ
──今回の個展を拝見して、一番驚いたのが色彩でした。内藤さんがこれまで手がけられたキャンバスの《color beginning》シリーズは、見えるか見えないかくらいの色が浮かび上がってくることが特徴ですよね。昨年、金沢21世紀美術館で開催された内藤さんの個展「うつしあう創造」で初めて展示された紙の《color beginning》では、キャンバスよりも色が少し鮮やかに見えましたが、今回はさらに色が鮮明になっています。
自分でも驚きながら描いていました。よくあれだけ強い色を(紙に)置いて、自分の心が平気だったなと思います(笑)。
紙の《color beginning》を描き始めたのは、緊急事態宣言で金沢の展覧会が開幕延期になることが決まった4月のことでした。いつかわからないほどずいぶん前、色を確認するために描いた1枚の紙があったのです。その存在が気になっていて、たまに出してみることがあった。去年の春、その紙を見ていて、私が引きつけられているのは、「色彩が形を伴って出てくる」というごく当然のことだと気がついたんです。
私が再び紙に色を置いたのは、コロナのこともあり、「明るく軽やかなものに触れたい」という気持ちがあったからだと思います。色彩が顕れることをまるで初めてのように感じ、驚き、喜ぶ──そういうことが自分に起きていると感じ始めました。
今回の個展で発表した作品は、ベースとしては金沢21世紀美術館で展示した紙による絵画の《color beginning》と同じです。紙に色を置く、そうすると形を伴って色彩が顕れてくる。自分が「何かを描こう」としたら止めるということを含め、いくつかのことが自然に決まっていきました。
絵を連続して数枚描くと、そこにはある種の関係性が生まれます。今回のシリーズもある程度の時間は継続して描こうと決めていたのですが、5〜6点描いたくらいの段階で、「呼吸」という言葉が浮かびました。呼吸には時間軸があり、反復され、継続し、無意識のところでその人を生かしているでしょう? 私が呼吸しているとは言えない。それは生命そのものです。《color beginning》も、起きたら描くと毎日続けていくなかでそういう感覚が生まれてきました。
描かれたものには意味を見い出さないで、純粋に色を置こうとします。本当はできないけれども、意識からできるだけ離れようとすると、無意識のほうが顕れたと感じる瞬間があるのです。意識と無意識のせめぎあいですね。私の思考や感情は本当に私というもののごく一部分であって、私が思っている世界もそう。そこを解放あるいは突破して、無意識にどれだけ触れられるかが大きかった気がします。
内容や意味といった目的に向かって絵を描くのではなく、心と指と顕われが深いところで一つであるように、「生きていることそのもの」であるように、ただそのことを思いました。それは、「人間が絵を描く行為とは何か」「人間とは何か」という問いにつながっています。
ペインティングの《color beginning》はビジョンを持ち、成長しようとしますが、紙の場合は自分が育ててきただろう「私」、「私のもの」と言えるようなものから離れてもよいとしました。普段、人はそれを離さないようにするでしょう? 何かを選ぶということは別の選択肢をないかのようにしているということで、選ばなかったことのほうが多いわけです。今回はそこに入ってみようという気持ちがあった。
──キャンバス絵画の場合は、各作品の下地について細かく正確に記録されていますよね。それに対して、紙の作品はあらかじめ何も決めずにその時々の感覚で描くわけですね。
何も決めません。もちろん無にはなれないけれども、なろうとする。でもいっぽうで心が動かないと手は動かないですよね。意思があるから手が動くわけで、意思を持たずに絵を描くのは本来、成り立たないことです。
色をひとつ置くだけだと、それはまだ「絵ではない」とも言えるのです。10人の作家がいても、タッチひとつだと違いを見つけるのは難しいでしょう。でも2つ、3つとなると、それはもう「私の絵」になっていってしまう。だから今回、私は「絵というものになり始めたら止めよう」と決めていました。私の意識の世界、私が考える絵とは何かという意識の外に触れようとしたのが今回のシリーズです。
──内藤さんの作品をずっと見てきた人ほど、今回の作品には驚くのではと思います。もちろん他の画家の絵画作品に比べればずっと繊細な色彩なのですが、これまで内藤さんが描いてきたかすかな色彩からすると、とても大胆で解放的です。
そうかもしれませんね。
──1点につきどれくらいの時間をかけて描かれたのでしょう?
ひと息だと2〜3時間くらいかな。描き終わったら息が切れていました(笑)。
私を超えたものに触れようとすることは一つの創造
──各タイトルには日付が添えられており、1日に2点描いている日もありますね。会場では《color beginning》( 2021.6.23)と《color beginning》(2021.6.23)、《color beginning》(2021.6.24)と《color beginning》(2021.6.24)のように、2枚1組のセットで展示されています。これにはどういう意味が?
展示自体は時系列になっていますが、実際はこの2倍くらい描きました。そのなかで、展示空間との関係で枚数が自然と決まりました。全体のインスタレーションもひとつの「breath」ということを考えたときに、私にとってはこの呼吸数だった。呼吸(吸う・吐く)ということからも2枚ずつのセットになったという面もありますね。最後の25点目《color beginning》(2021.8.28)が1点なのは、いつかその次を描き、そのとき何が顕れるのか私も知らないということです。時系列を守りながら、ある月日の分量がそこにあると、そこに無意識が見えてくると感じました。そして、ある日描いている私は、半月後、1ヶ月後に生きているかも知らないのに、描いているのです。こんなにも生を信じているのだと驚きます。人は思うよりも希望の中にいると。
──キャンバスの《color beginning》は、鑑賞者が色彩の顕れを感じられるように描かれていますが、紙の方は内藤さん自身が感じた色彩の顕れがとらえられているような気がします。内藤さんの目と手の動きを感じながら、色が顕れることの喜びや驚きを追体験できる。
私のペインティングは、絵は見る人の中で顕れてくるものです。でも紙は生々しい。私が見ているのとほぼ近いものをみんなが見ているのかもしれません。
──「絵を見ること」とは通常、描かれた構図や色彩を、多かれ少なかれ固定されたものとして見る行為だと考えられていますが、内藤さんの作品の場合はそういう態度だと全然絵が見えてこない。すでにできあがったものを対象として見るのではなく、能動的に見て、発見しないといけませんね。それは、絵画に限らず、空間全体を用いた内藤さんの仕事全体に言えることだと思いますが、そのなかで絵画の位置付けとはどのようなものなのでしょうか。
作品の中に絵画空間が生まれ、その空間がこちら側に触れてくることが大事なのです。生の感覚、生気がどこからかこちらに向けて働きかけてくるという意味では、絵画も空間です。
──内藤さんが作品で選ぶ素材の特徴は一貫していて、リボンや水、糸など繊細なものが多く、そこに風や光、水など自然のものが加わることで生気が顕れるような体験が生まれます。《color beginning》の場合も、光や水を含んだ顔料といったご自身のコントロールを超えた部分とのあいだでバランスをとっている。それが内藤さんの創造の本質的な部分ではないでしょうか。
無意識もそうですが、私を超えたものに触れようとすることは一つの創造だと思います。
──紙のサイズは大体同じで、A4よりも少し大きいくらいでしょうか。私たちが普段の生活で見慣れている大きさですよね。
これがいまの私にとってちょうどいい大きさなんです。サイズが大きくなると意識をするし、「絵にしよう」としてしまう。逆に小さいと、私の“もの”にしてしまうかもしれない。そうではなく、ふっと入っていけるサイズ。人間の視界は一定しているので、大きさが変わる意味は大きいんです。たまたまですが、生活で見慣れている大きさというのは、とてもいいと思う。無意識に選んでいたのかもしれませんね。
──シリーズの制作はいったんこれで終わりなのでしょうか?
次に始まりそうな予感がしたのでいったん止めました。続きははまだ描いていません。いつかまた(笑)。