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空間との会話と、作家の変化。中村佑子評 「内藤礼 うつしあう創造」展

金沢21世紀美術館で開催された内藤礼の個展は、大小様々な展示室や光庭、通路といった空間と呼応するように構成された。コロナ禍のただなかに開催された本展における作家の変化について、ドキュメンタリー映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(2015)を監督した中村佑子が論じる。

文=中村佑子

《母型》(2020)、《ひと》(2020)、《ひと》(2020)の展示風景撮影=畠山直哉

本展が「肯定」するもの

 展示室を回りながら、この空間に身をひたして、展示のかたちを思い描いていった内藤さんの姿が、何度かまぶたの裏をよぎった。

 内藤礼という作家は、展覧会を依頼されると、数週間その場所にたたずんで、まるで自己の身体や感覚を実験台のようにその場にさらし、時を過ごす人だと、私は知っている。空間と呼吸して受けとったことに対してどう応答するか、そこに作家の創造の端緒があるのだろう。ただ、だからといって、これまで展示を見ていても、作家の姿は脳裏に浮かばなかった。

 ほかにも、いたるところに作家の内なる変化を感じた。新作の小さな彫刻作品《ひと》は、カッターで削り取った輪郭が以前よりもリジッドに、刃の動作の線がより明確で、背景から《ひと》が浮き出てくるようだった。

精霊 2020 リボン、ポール 756.3×1238 ×1238cm(サイズ可変)
撮影=畠山直哉

 「光庭2」にはリボンの作品《精霊》がある。これまで1本のリボンが風にそよいでいることが多かったが、今回は2本が交差していることによって、風が吹くたびに複雑な動きが生まれる。リボンが1本だと風や光といった自然物の発見という意味を感じさせるが、クロスするリボンは、いびつな姿形になったりそれが解けたりと、人と人が関わることのストラグル、人間の生の多層な広がりを意識させられた。

世界に秘密を送り返す 2020 鏡 撮影=畠山直哉

 さらに、いくつかの定番の作品のサイズが、みな小さくなっている。鏡の作品《世界に秘密を送り返す》は目の前に立つと、私の一部、例えば目だけをうつす大きさしかなく、自分を見つめるしかない。それなのに鏡が何メートルもの高所にある場合は、私の預かりしらない、手の届かない場所で孤独に空をうつしている。それを間近でたしかめることはできない。

color beginning 2020 キャンバスにアクリル絵具
撮影=畠山直哉

 近年内藤が継続的に生み出している、色のはじまりを描いた絵画作品《color beginning》もサイズが小さく、それだけ、よりいっそう目をこらさなければ色のはじまりは見えてこず、鑑賞者が発見するまでの、能動的な心の動きを強く意識する。

 そこで、展覧会タイトルに「創造」の文字が入っていることを思い出し、合点がいった。どの作品にも、以前より作者の手の跡のようなものを感じるのだ。よく「“私”をなくさなければ」と話していた内藤さんは、作家の手の跡が残ることを避け、匿名性であることを創造の目的としていたところがあったと思う。

 匿名性というのは例えば「飾る」ということを考えるとわかる。内藤の展示を見ると「飾る」という言葉の意味を思い出す。人は、亡くした人の写真の前に、生前その人が好きだったものを並べ、飾る。飼っていた虫が死んだとき、土に埋め、そこに野花のブーケをつくりたむけ、小さな木を墓碑として立てる。そうした古代から人間が、変わらず行ってきた普遍的な行為の延長として、内藤さんは創造というものをとらえていた。だからこそ作者の表現を感じさせる痕跡を残さず、仏師が仏を彫るように、誰のものでもあるようなかたちで、作品を提示してきたのだろう。

 あるいはなぜジャムのビンや、リバティプリントなど、誰でも手に入る素材を使うのか。美術家だけが特別な存在なのではない。誰のなかにも、ものをつくる行為はある。どこでも手に入る素材や道具を使うことで、世界にあらかじめ存在するものを肯定したい、人々が日常的に行っている行為を肯定したい。作家のそんな思いが表れていたのだと思う。

 しかし、今回は「個」の線を避けなかった。作家をして匿名性を脱せさせたものとはなんだったのだろうか。

「おそらく時期がきたんだと思うんです。『創造』というものに向き合う時期が」(*1)。

 そうインタビューに応えている作家の心理を想像してみるよりは、ひとつヒントになると思うのは、内藤と空間との相性だ。​

「内藤礼 うつしあう創造」展示風景(2020) 撮影=畠山直哉

​ 妹島和世と西沢立衛のSANAAが設計した金沢21世紀美術館は、全体が円形で、そのなかにいくつもの小部屋があり、真ん中にはガラス張りの中庭がある。それ自身が、金沢の大気や気配と呼吸し合うような空間だ。入口があって出口があり、はじまりがあって終わりがあるような、一方向の流れのなかに人を誘うようにはなっていない。どこから入ってもいいし、どこから抜けてもいい。中は迷路のようで、それ自身が水滴の集まりのような、あるいは細胞が漂うように並んでいる姿を想像させ、有機的な空間が立ち現れている。

 1つ前の個展「明るい地上には あなたの姿が見える」は磯崎新設計の水戸芸術館現代美術ギャラリーが舞台だった。磯崎のつくった展示室もまた、容易に解読できる「はじめと終わり」がある空間ではないが、それでも1つの入り口からめぐりめぐって同じ場所に戻る、ひとつながりの流れがあった。磯崎独特の闇の啓示があり、それが光とコントラストを成していた。そんな展示空間に内藤は、前半は光のあふれる「地上」、後半の暗い展示室を「地下」の世界とし、《ひと》やビーズの作品、鏡、休むための椅子など、金沢の本展と出されている要素は変わらないが、人が生まれ、死んでゆく物語が喚起されていた。この世界には途中で病に倒れ早く死ぬ者もいれば、遺される者もいる。生きとし生ける者の、世界でのいとなみを、大河のような深くゆったりとした吐息のような力で、我々の前に提示していた。はじめに展示されていたビーズの作品に、地下の世界を彷徨ったあと戻ってきたとき、心身が震えたほどだった。建築家が立ち現せた光と闇、そして空間への応答である美術との、ひとつの幸福な昇華のかたちだった。

 今回は、そうした強いひとつながりの流れは、空間自体が拒否している。有機的に環境と呼吸するような空間ということは、外に開かれ、自己内部で実を結ぶような統一的な力は、優しくほどかれている。ささやかな小部屋が並ぶ、この空間への往還として、より作品のサイズが小さくなり、あいまいな人と人との関係性を肯定するような表現があるのだとしたら、そこに作者の手の跡が残ったことにも納得がいった。作家は、作家である自分自身をも肯定したのではないかと。

母型(2020)、《無題》(2020)、《ひと》(2011-20)の展示風景
撮影=畠山直哉

 そして、作家自身はそう言われるのを嫌がるだろうが、もうひとつはやはり、コロナ禍のただなかで、世界の問題がよりあいまいに、複雑になったあとの表現ということなのだろう。

 雑誌の女性たちの写真が一度くしゃくしゃに丸められ、喜びとも苦しみともつかぬ表情を見せる《顔(よころびのほうが大きかったです)》という作品がある。今回も、前半にかなりの数の《顔(よころびのほうが大きかったです)》が並んでいた。女の人の顔を下から見ると苦しんでいるように見えるし、横から見ると解放され安堵しているように見える。女性たちの様々な感情を想起するこの作品群が、今回私は特別に響いた。「いつ作品になるかわからないけど」と、内藤さんの部屋でまだ未発表のこの作品を見せてもらったことがある。そのときは「こんな具象的なものも扱うのか」と驚いたけれど、作家がまだ30代だったころ、雑誌で目にした写真から偶然生まれた作品だという。その頃から、十数年のときを経て、寝かせていた作品だった。

右から《恩寵》《顔(よころびのほうが大きかったです)》《color beginning》(すべて2020)の展示風景 

 展示室のラストに、ひとり道化師のような女性の写真があった。マスカラがとれたような、くまのはった目をして、泣き笑いの表情を浮かべている。そこに、意外なほどカラフルな、水色、黄色、濃い紅色の絵具を紙に落としたような《color beginning》が飾ってある。《color beginning》はいままで白から紅や水色という、まさに白から色が生まれてくる瞬間をとらえる作品群だったが、ここにかけられてあったのは、より色が明確な同作だ。コロナ禍のなか描いたという。なぜか展示室のなかで「それでもかまわない」という声が聞こえてきた。作家の手がたどった線が作品に残ろうとも、泣き笑いに見えようとも、2本のリボンが絡みあおうとかまわない。我々はそういうあいまいで複雑で、難しい世界を生きているのだ。 

color beginning 2020 キャンバスにアクリル絵具
撮影=畠山直哉

 昼すぎに美術館を出て、必要にかられてもう一度夕暮れのなかで美術館に戻った。閉館ギリギリまで、無数の小さなガラスビーズが円形の展示室に吊り下げられている作品《母型》のなかでたたずんでいた。すると、小さく開けられた壁の窓から見える、街路の緑や通りをゆく人々が、だんだんと夕闇に沈むのがわかる。その光の変化に従って、徐々に見えている数の7~8倍の量があるというビーズの、目に見える個体が変わってくる。 

 夕暮れの影が、透明な白いビーズ球の輪郭に、よくうつしこまれる。死んだらたましいは浮くのだろうか、沈むのだろうか。いま時代が激動しているのが、美術館の中にいても感じられる。「人々」という大きな生の集合の意味も変化している。個のストラグルはより強くなり、他者へ意識を開くことの意味も変わりつつある。夕暮れの寂しさのほうが似合う展示室で、生や世界に対する感触が、よりあいまいになって自分を満たしていくのを感じていた。

「内藤礼 うつしあう創造」展示風景(2020) 撮影=畠山直哉

*1──CINRA.NET「内藤礼×茂木健一郎  認識できないものがある世界、そこにいる幸福」https://www.cinra.net/interview/202007-naitomogi_myhrt

編集部

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