言葉がつむぎ出す緩慢な時間
美術家の内藤礼が初の言葉のみによる作品集を発表した。これまで文芸誌や展覧会カタログに寄稿してきた文章を中心に、未発表私記や書き下ろしも加えた断章群である。一つひとつの文章は長くはなく、詩や散文の形式に近いが、読み進めていくうちに、これはやはりまぎれもない「美術家による言葉の作品」なのだと気づかされる。日々の制作や思索のなかで手繰り寄せられたヴィジョンは、内藤のインスタレーションと同様に緩慢に流れる時間をはらんでおり、それらは時に人智を超えた領域や、生と死が交錯して「わたし」が消滅する境地にまで届こうとする。観想的なヴィジョンと外界の事象との交感。それは例えば、田舎道を車で走り続けていたある日、自然の緑に無数の生命を感じ、どこにいても「あなた」を感じるという認識に至ったエピソードにも看取することができる。しかし、それらが神秘主義的な思想に飛躍する類の体験ではないことを忘れてはならない。内藤は美術家としての立場を崩さない他方で、作品が生まれる過程、とりわけ「つくる」という行為が陥りがちな自己欺瞞に対し、つねに反省的な姿勢を保ち続けてきた。そこでは作品をコントロールし支配下に置こうとする「強い主体」は慎重に退けられている。「世界は持続している。私ぬきであろうと」(15頁)、「この世界に人の力を加えることがものをつくるという意味だと言うのなら、私はつくらない」(26頁)、「わたしと作品は互いに永久の外部」(147頁)、「作品は生まれようとする過程でわたしを超えでる」(150頁)。
このようなかまえは、内藤が「私」という一人称を、平仮名による「わたし」へと次第に移行させてゆく過程と関係があるかもしれない。というのも、平仮名による「わたし」は、あらゆる事象をやわらかく受けとめる無垢なうつわを連想させるところがあり、内藤のスタンスを端的に示す一語であるように思われるからだ。本書のなかで「わたし」はどこまでも透明である。
内藤が追求し続けている「地上に存在していることはそれ自体祝福であるのか」という問いは、明示されずとも、おのずと本書のなかで答えが出されているのではないか。雪原を思わせるページの余白、漢字と平仮名の配分がもたらす文体のテンポ、ページの裏側に透ける文字の影といった要素も含め、「作品」としての本書をじっくりと体感してほしい。
(『美術手帖』2020年6月号「BOOK」より)