3県にまたがる「GO FOR KOGEI 2021」は、ふたつの特別展で構成されている。勝興寺(富山県高岡市)、那谷寺(石川県小松市)、大瀧神社・岡太神社(福井県越前市)で開催される特別展I「工芸的な美しさの行方 工芸、現代アート、アール・ブリュット」と、石川県金沢市のskloとNoeticaを会場とする特別展Ⅱ「工芸×Design 13人のディレクターが描く工芸のある暮らし」だ。
前者は工芸を中心としつつ、現代美術やアール・ブリュットの作家たち20組が参加するもので、工芸を技法だけでなく、素材との関わりという視点からとらえなおす試みだ。また後者はプロダクトの視点から工芸をとらえる展示となっており、原研哉をはじめとする13人の「ディレクター」と、地元の工房、アーティストがコラボレーションを果たした。ともにキュレーションを担当したのは、東京藝術大学名誉教授で練馬区立美術館館長の秋元雄史。本展をめぐったふたりの研究者、金沢美術工芸大学の菊池裕子と山本浩貴に、その意義を読み解いてもらった。
美術、工芸、デザインのバウンダリーを破壊する
──まずは、特別展I「工芸的な美しさの行方 工芸、現代アート、アール・ブリュット」についてお話を伺いたいと思います。大瀧瀧神社・岡太神社の展示から訪れたそうですが、印象をお聞かせください。
菊池 この神社は紙の女神を祀っているという珍しい神社です。和紙が非常に重要な要素だということで、境内のすべての灯籠の窓の部分に和紙を張った九代岩野市兵衛さんのインスタレーションはインパクトがありました。丁寧に調査し、土地の要素をいろいろ考えた作家としては、牟田陽日さんを評価したいです。白山信仰と祈りのテーマを現代のコロナの情勢にうまく噛み合わせていて、また神仏混淆なのでここにはドロドロした土着な神社の信仰がありつつ、十一面観音もある。クッションが敷き詰められた空間には誘い込まれる感じがあって、気に誘われてコントロールされる感じが出ていたし、馬の頭と絵馬があり、馬の奉納の話にもうまくつながっていました。
山本 岩野さんの紙作品はシンプルなギミックですが、あれだけの量の広がりがあると特異な強度が生まれますよね。桑田卓郎さんの作品は徹底して異物として存在していて、自然と正面から対峙していくある種のエキセントリックな美学が感じられました。金重有邦さんの作品は逆に、周囲の風景と一体化することを志向するアプローチが対照的でした。牟田さんの作品に関しても異物感はありますが、菊池先生がおっしゃる通り、この神社のコンテクストに対するコミットメントが一番強く感じられました。ビジュアルとコンセプトの両面から精度の高いアプローチをしていたので、イベント全体でも印象的な作品のひとつでした。
菊池 牟田さんの表現は場と対話していて、桑田さんの表現は拒絶するような感じというのは私も賛成です。牟田さんは地域のお祭りにも参加していたり、地域にすごくコミットしています。「KUTANism」(「九谷焼を見る/知る/体感する」をテーマに秋元雄史が監修する芸術祭)にも参加して、新たに九谷焼を定義しようと酒器などをつくっていますが、レイヤーを重ねてサーフェス(表面)をつくろうと試みています。
表面や装飾にこだわるのは頭脳を使わないメカニカルな作業と考えられがちですが、じつはそうではなく、表面に惹きつけるものを表現し、そこから中へと引っ張っていく強さを実現するのは難しい。今回の作品もクッションの触覚的な強さが重要ですし、一番下の層から突起している馬の頭がコンセプチュアルな方向へと引っ張っていくところが上手だと思います。
山本 屋外の芸術祭は必然的にサイトスペシフィックになりますが、サイトスペシフィシティにおいてもいろんな要素、強度、レイヤーがありますよね。場所の特質だけでなく歴史性、周囲の人々、コミュニティもその重要な要素なので、そこまで洞察が行き届いているという点では牟田さんの表現は強度があると思います。
──大瀧神社・岡太神社だけを見ても、「GO FOR KOGEI 2021」の特殊性が感じられますね。
山本 まず北陸3県のあれだけの広さに展開する芸術祭は珍しいし、移動距離も長くて不便な面もありますが、近代的な価値観を見直すためには、利便性とは逆を行くフォーマットがコンセプトと合っていると思いました。
菊池 イベント構成を見ただけでも、秋元さんの意図がよく見えてきます。北陸の工芸といえば、ユネスコ創造都市の指定を受けた金沢の印象が強いですが、実際にはそうではありません。加賀百万石の金沢を中心とせず、「北陸」まで広げた方がフラットに地域の工芸をとらえることができます。
また、2012年に秋元さんが金沢21世紀美術館で開催した「工芸未来派」展がとても重要です。これがニューヨークのMuseum of Art and Designにも’Japanese Kogei /Future Forward' として2015-16年に巡回していて、批評の視点がしっかりある工芸の展覧会が海外に出た初めての例だと思います。工芸が現代アート同様グローバルな批評の場に開かれることが重要なので、「対美術」という観念でなく、また国や地方の伝統などでひとつに縛ることもなくとらえる意図が見えます。そして、この後の展示の話にもなってきますが、美術、工芸、デザインのバウンダリー(境界)を壊すことも目指した構成になっていますね。
山本 「GO FOR KOGEI 2021」の重要なテーマのひとつとして、近代がつくり出してきた様々なバウンダリーを疑い、融解することを目指していますよね。県境や国境も越える、自然と人為の境界も融解する。金沢から福井県越前市の大瀧神社・岡太神社に移動したことで、場の強さも感じましたし、作家たちが建築と自然物が融合した環境にどうエンゲージしているかという観点から共感できる作品にも出会えました。
──次に向かわれた那谷寺の印象はいかがでしたか。
山本 場所に対して異物としてアプローチするとか、溶け込んでいくかという観点で見ると、まず沖潤子さんの作品は異物として強度がありました。その対極が田中信行さん。漆が持つ物質性もありますが、コンクリートの空間のひんやりした印象と融合していました。かたちも空間に圧迫感なく存在しました。アール・ブリュットも工芸も現代アートもバウンダリーなしにまとめるという意図はよく伝わってきましたが、場所へのエンゲージメントという意味でいうと、先の大瀧神社・岡太神社のほうが強かった印象です。
菊池 那谷寺は本殿や巨岩などのスケールがあまりに大きい場所だから、展示の印象が薄れてしまうのは仕方ないかもしれません(笑)。とはいえ、とても好きな作家が出展していました。澤田真一さんです。2013年にヴェネチアビエンナーレで初めて見て、それから同年にロンドンのウェルカムコレクションで行われ ‘Souzou’という日本のアウトサイダーアートを紹介する展覧会で強いインパクトを受けてからずっと追いかけてきたんですが、彼の作品の強烈な表面の持つ魔力や、オブセッションが感じられる局所に惹かれているのですが、それが座敷ボッコのように自然に置かれていた。インスタレーションとしてすごく良かったですね。
山本 澤田さんの作品は、ある種のオブセッションと結び付けられることが多いと思いますが、田中信行さんや佐々木類さん、神代良明さんのような対照的な作品と並べられていたことが面白いですね。いっぽうの沖さんは、アール・ブリュットの文脈で語られることはほぼないけど、ある種のオブセッション、強さにおいて澤田さんの作品との共鳴が見えた。ジャンルを越境したときに見えてくる対称性や類似性は興味深かったです。
菊池 沖さんの作品は心にグサッとくるものがありました。刺繍と女性というジェンダーの問題が重なり合い、次から次に重ねられる刺繍の重たい何か、叫びのようなものが感じられました。それと田中さんの漆の作品も、表面と触覚の問題を考えさせます。漆のレイヤーが出す奇妙に誘い込むような深さ。支持体がなくても重ねることで支持体になる漆の物質性は、もっと批評の的となり言語化され研究されていいのではないかと思いますね。
──素材の表面と触覚の関係や、表面と空間の関係に注目されているんですね。
菊池 素材をバランスよく展示に入れていますよね。さらには、ホワイトキューブから外に出たことで自然と人為の境界線への意識が見えましたし、アール・ブリュットが入ってきたことで、ロー(生)なるものとエンジニアリングのバウンダリーを壊す面白さも感じられました。
──おふたりが特別展Iの最後に訪れたのが、富山県の勝興寺です。
山本 四代 田辺竹雲斎さんの竹のインスタレーションから建物に入り、nui projectや須藤玲子さんの扇のインスタレーションなど、あのひとつの場所を作家たちみんなでひとつのものにトランスフォームしていくつながりのようなもの強く感じました。空間にエンゲージするという意味では、中村卓夫さんが印象的でしたね。勝興寺の屏風に竹が描かれていましたが、陶器と金属製の単管を組み合わせて竹に見立て、空間に張り巡らせていた中村さんのインスタレーションは、場所の歴史や特性を読み解きながら、産業化によって生まれた鉄のパーツも取り入れることでテクノロジーとの向き合い方も提示していた。過度な産業化の問題点と向き合うことは、必ずしも近代を批判して前近代に戻れということではなく、産業化によって生まれたテクノロジーと融合する可能性も示していると感じました。
菊池 竹雲斎さんの竹の作品は目を引きますが、世界的には台湾のワン・ウェンチー(王文志)や、柳を使ってインスタレーションを手がけるパトリック・ドハティという作家など、籠などの小型な実用品との連想の強い自然素材を使いながら巨大なサイズ感で圧倒し固定概念を壊すような表現はひとつの流れとしてもう20年ほど世界でありますね。先ほどの触覚の話と通じますが、紙の原料である楮を用いた八田豊さんの作品は、目で見るよりも触りたくなる作品でした。紐状にした楮を貼り付けてサーフェスをつくったあの作品は、工芸を触ることでハプティックな体験ができる良い例のひとつだと感じたので、触れられなかったのは残念でした。八田さんは50代で視力を失われたそうなので、触覚が制作のプロセスとして重要なはずですよね。
中田真裕さんの漆の作品も良かったです。「蒟醤(きんま)」という讃岐漆器の技法で、東南アジアや中国の影響を受けた漆器のひとつなんですが、彫られた底のほうから浮かび上がってくるサーフェスが強烈な装飾的効果を生み、おおらかな表現からは、日本が東南アジアの文化とつながっていて黒や朱に縛られない多色の明るい漆の表現の可能性があることを強く印象づけています。
山本 八田さんが一番特徴的かもしれませんが、田中乃理子さんの刺繍や青木千絵さんの漆など、触感が際立って出ている作品があの会場では印象的でした。近代の美術が、見る主体としての鑑賞者と見られる客体としての作品という二項対立に立脚する視覚(性)を中心に展開してきて、それがアートと工芸を分離させたこととも相関があると思いますが、ある意味で周縁化されてきた触覚が強さを持つ表現を見直そうという意図もあったのではないかと感じました。手仕事も含め、触ることが持つ工芸の魅力を見直す一面がありましたね。
言語化することで高まるプロダクトの付加価値
──特別展II「工芸×Design 13人のディレクターが描く工芸のある暮らし」はいかがでしたか。
菊池 まずNoeticaの展示では、ある素材を専門で扱う人と、その素材の表現とは異なるバックグラウンドを持つ人が向き合って、素材に対峙し、制作のプロセスがどう変わっていくのかがよく見えました。ひとつは、谷口製土所さんと原研哉さんの展示。会場で原さんとお会いしたんですが、世界の人類が好きなかたちの茶碗があって、それをつくりたいとおっしゃっていたんですね。中国の宋代の茶碗とか、李朝時代のかたち、ルーシー・リーとなっていくのだと。その分析がすごく面白いと思って、谷口製土所はこれから絵付けするための原型をつくる工房ですから、その二者のものづくりが融合するのは非常に魅力的です。白という、人類がずっと探求してきたものを改めて見つめ直すアイデアも伝わってきて、大理石を薄くスライスしたような陶土の美しさが印象深かったです。
もうひとつが、九谷焼の模様の転写シールを使ってseccaが中量生産のラグジュアリーなプロダクトをつくろうとしているプロジェクトですね。山近スクリーンが制作する転写シールでいろいろな方法を試し、そのプロセスが見えましたし、できあがった九谷焼もシールの上にラスター釉が煌めき上品に豪華に出ていて素敵だと思いました。
山本 僕はまず、商品化を見据えたプロジェクトという点で、自由に芸術作品をつくるよりも難しい制約を抱えているのだろうと思いました。アイデアをどうやってかたちにするか、コンセプトの面白さとプロセスへのエンゲージメントというふたつの観点で見ると、コンセプトの面白さではseccaの九谷焼と、医師の稲葉俊郎さんがシマタニ昇龍工房の磬子(けいす=銅や青銅でつくられ鉢状の仏教で用いる鳴物の一種)の医療的な使い方を提案するプロジェクトですね。プロセスへのエンゲージメントでいうと、映画監督の森義隆さんと富山ガラス工房で、プロセスが日記帳に書かれていて面白かったですね。中田英寿さんのすき焼き鍋や、森岡督行さんと長田製紙所のプロジェクトも、リクエストとフィードバックがどういう風にものづくりに反映されたのか想像できて興味深かったです。そういう意味で、seccaはコンセプトの面白さとプロセスへのエンゲージメントを両立していましたね。
──映像や文字をうまく使い、協業のプロセスやコンセプトを見せる展示の工夫もあったと思います。
菊池 言語化することは重要です。工芸をやっている人は喋る人が少ないし、書かない。できたものを使って感じてほしいと。しかし、それではわからない。漆だって何十回も重ねて塗られた層をつくっていますが、それによってどういうエフェクトが出るのかを話してくれればもっと伝わってきますし、そうやって付加価値を高めることは大切です。デザイナーはプレゼンテーションが非常に上手なので、工芸家にとってもいい試みだと思いましたね。
山本 言葉にできない美しさや魅力があることも理解できますが、そういう美しさや魅力も言葉で説明できるものが根底にある上で生まれていると僕は思っているので、その部分を言語化して伝えていく必要はあると思います。「GO FOR KOGEI」ではその言語化に成功している部分も多いので、広く魅力を伝えられる仕掛けになっていたと感じました。
菊池 “Ornament is crime(装飾は罪だ)”といったアドルフ・ロースの影響で、モダニズム美術や建築が排除してきたものが、装飾美術や工芸という下位に追いやられたものの中心概念になってしまい、技法、装飾、用、伝統などという用語で短絡的に工芸を語ってしまう傾向が広まってしまいましたが、最近は、注目すべき現代的な工芸論が出てきています。装飾や表面には原初的なものから複雑な現代性までのつながりを持ちうるものがあると再評価されています。美術に対する装飾美術としてではなく、装飾と表面の研究を行う工芸論も注目していきたいですね。
──最後に、「GO FOR KOGEI」を北陸で行ったことの意義と、今後への期待をお聞かせください。
山本 あまりに地域性を強調すると排他的なリージョナリズムに陥ってしまいますが、北陸で県を跨いで存在する産業のつながりを見せたことはとても興味深かったです。今後は、中心と周縁化された場所という二項対立だけで見るのではなく、周縁化された複数の場所をつないでいくアプローチがあるのではないかという展望を感じました。周縁を緩やかに結んでいくアプローチは、日本国内だけではなく、世界中で適用できるのではないかと思います。そのひとつの試みを北陸から発信したことには非常に意義があると思っています。
菊池 「裏日本」と呼ばれる北陸ですが、北前船が航行していた時代は日本海側の商業が活発でしたし、朝鮮半島や中国との行き来に際してもこちらが表玄関でした。考え方や価値観を固定してしまわないためにも、北陸を表の文化としてとらえる見方であったり、金沢を頂点とするヒエラルキーではなく北陸の工芸のネットワークを把握することは大事です。今後はさらにグローバルなコンテクストで、工芸をもっと開いて健康的な状態にできるのではないかと思っています。