2019.9.30

パフォーマンスの舞台は「商店街」。都市の祝祭をデザインする「セノ派」インタビュー

「セノグラフィー(scenography=舞台美術)」を語源とする「セノ派」は、フェスティバル/トーキョー19(F/T19)のために結成されたコレクティブ。舞台美術家の杉山至、坂本遼、佐々木文美、中村友美からなる「セノ派」は、F/T19のオープニング・プログラムとして都内の複数の商店街を活用し、パフォーマンス「移動祝祭商店街」を発表する。10月5日、6日のパフォーマンス本番を控えた4名に、その内容とセノグラフィーに対する思いを聞いた。

聞き手・構成=宮田文久 撮影=池ノ谷侑花(ゆかい)

セノ派(左から中村友美、坂本遼、佐々木文美、杉山至)
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──「移動祝祭商店街」は、豊島区内商店街(池袋本町エリア、大塚エリア、南長崎エリア)を山車が練り歩く「第1部 みちゆき」と、大塚駅前の広場・トランパル大塚に集う「第2部 まちまち」という構成になっていますが、どんなパフォーマンスなのでしょうか。

坂本 僕は南長崎、とくに「ニコニコ商店街」というところをメインに担当しています。試みようとしているのは、ベッドのような山車をつくって、街に“眠っている”ものを乗せてみる、ということですね。そして夢の中の世界を、パフォーマーの方々などと一緒に表現してみる、ということをやってみようと思っています。僕はもともと、この商店街のことを何も知らない人間です。そうした“まれびと”のような人間が入っていって、街がどんなふうに見えるのか。イタロ・カルヴィーノの小説『見えない都市』では、マルコ・ポーロがまるで『東方見聞録』のように見聞きしてきた都市のことを語りますが、そうしたマルコ・ポーロのような“まれびと”にとって見えてくる街、というコンセプトがありますね。

坂本遼。「第1部 みちゆき」の舞台となる「ニコニコ商店街」にあるガラス店にて

中村 私の担当は、このインタビューが行われている池袋本町エリアで、コンテナのような山車を架空の配送業者に見立てて、街を“出前”しようと思っています。本番までに街からいろんなものを探して、そうした断片を貨物として乗っけて、出発していけたらな、と。この近辺は川越街道といった道路も通っていたり、大きな商品センターがあったりして、物流が激しいというイメージを持っていたんです。(取材場所の前をトラックが通り過ぎる)まさにこんな感じです(笑)。

 それで当初は“外”との物流として考えていたんですが、地元の電気屋さんと話していたら、「自分は電気を“出前”している」とおっしゃっていたのが印象的で。ほかにも食べ物にかぎらず、銭湯で使われている道具の部品ひとつに至るまで、街の内側でも出前=流通がある。そのなかに、時間指定でやってくる配送業者のように、街の生活リズムとちょっと違う存在として、出会い、つながれればいいな、と思っているところです。

中村友美。「第1部 みちゆき」でパフォーマンスを行う池袋本町エリアにて

──ご担当エリアそれぞれに、衣装や音楽、デザインなどをご担当される方が加わったり、北尾亘(Baobab)さんのようなダンサーがパフォーマーとして参加されたり、ということですが、佐々木さんご担当の大塚エリアはいかがですか?

佐々木 つくろうとしているのは商店街のゲートなんですが、動かしてくれるのは私が活動の中心にしている快快のメンバーや、その周辺の人たちです。「サンモール大塚」と書かれているゲートが実際に商店街にあるのですが、それより少し小さいゲートをバルーンでつくります。それをみんなで持って練り歩いたときに、商店街が“裏返る”というか、延長されていくようなイメージを抱いています。赤瀬川原平の《宇宙の缶詰》(1964/94 *1)のような……。その光景をみんなで見て想像して、経験を共有するといいますか。そこでやってみたいことがあるんです。

 大塚という街はいろんな国や宗教の人が住み、共存していて、「まさにダイバーシティだ、すごい!」と思っています。ただ、例えば銭湯のサウナでは、それぞれのコミュニティが交わっているわけではけっしてない、という場面も見かけたんですね。ゲートはまさに「仕切り」ですが、そうした仕切りをなくすんじゃなくて、遊ぶ。自分たちの周りにある囲いを使って、認識しながら動く。なんでしょう、「仕切りのヨガ」みたいな感じです(笑)。

佐々木文美。「第1部 みちゆき」の舞台「サンモール大塚」内にある、佐々木が滞在制作をしたスペースにて

──なるほど(笑)。そもそも「セノ派」とは何かということも含めて、どのような思いのもとに今回の企画が立ち上がったのでしょうか。

杉山 僕はずっとセノグラフィーということを言い続けてきたんですが、それが意味するのは、舞台美術だとは言われているけれども、もともとは都市の祝祭デザインのような様々な領域を手がける仕事である、ということなんです。セノ(sceno)=シーン(scene)はけっしてステージ(舞台)という意味ではなくて、人と環境がどうか関わるかといったことを含めた風景や場という意味があります。セノグラフィーという言葉は古代ギリシャで生まれ、その精神を復興させようとしたルネサンスのときに、再発見されていった。彼らセノグラフィーの担い手は、メディチ家のパレードを設計するなどしていたんですよ。

杉山至が過去に手がけたセノグラフィー。名取事務所『ああ、それなのに、それなのに』(下北沢B1、2018) 作=別役実

 今回、F/Tのディレクター・長島確さんから、東京や、都市と祝祭というものを再定義してみたい、オープニングも大きなカンパニーを呼ぶのではなく、もっとヴァナキュラーな地域性をクローズアップするかたちでやってみたい、というお話をいただきました。そこから商店街というテーマにたどり着き、さらにセノグラフィー本来の“はみ出した”ものを実験的に表現している新たな世代の3人にお声がけしたんです。

──セノグラフィーの担い手同士のコレクティブに加えて、今回は街と対話するのが特徴的ですが、普段演出家を相手にするのと、街を相手にするのでは、何が違いますか?

佐々木 う~ん……アイデアを押し付けられない。

一同 (笑)​

左から杉山至、坂本遼

​杉山 すごく正直だね……(笑)。なるほど、街は押し付けてはこない?

佐々木 はい、逆にこちらから拾うというか。もちろん、そうしたタイプの演出家さんも多いですけど。

坂本 たしかに、豊島区はそういうタイプの街だな、という感じはしました。もっと毒々しい世界というか、押し付けてくる街っていっぱいあると思うんですが、ここは自分から拾いにいかないと、あまり何かを言ってこないというか。

中村 一つひとつ、片っ端からドアをノックしていくような感触があります。4つのドアがあったら、ひとつくらい顔を出してくださるかな、という感じで、そこからいろんなものを回収していく。すると道の反対側から違うドアが開いて、また別の出会いがあって……。街が演出家になると、出会い方が変わりますね。

佐々木 一見すると無駄な時間が、かなり重要になってくるなあと思っています。街のなかで「どうしよっか」とボーっとしている時間というか。実際の演出家の人を相手にすると、何かアイデアを出さなきゃいけないわけですが、街が相手だと、ただ対峙している時間がすごく貴重。丁寧な出会い方をしている感じがしますね。

坂本遼(共同デザイン=福島奈央花)が過去に手がけたセノグラフィー。Uubumuntu Arts Festival(KigaliGenocide Memorial、ルワンダ、2017)

杉山 もともと僕たちは、ファインアートの作家さんなどとは大きく違うんですよね。何か、これをすごくやりたいというような作家性はとても弱い(笑)。僕らは演出家を含めたいろんな環境と化学反応する触媒みたいなものです。今回はその演出家が街だから、街が言いたいことに対して反応していく。

坂本 自分の持っている信念や作家性に振り切らない、というのは、とくに今回の企画のコンセプトにはすごく合っていますよね。そのバランスも、じつはかなり難しいんですけど(笑)。街の演出家はおとなしいので、何かこちらからも提案してあげなきゃいけないし……。そこがクリエイションの肝だな、と思ってやっています。​

佐々木文美が過去に手がけたセノグラフィー。快快『ルイ・ルイ』(神奈川芸術劇場、2019) 撮影=加藤和也

──難しさという話が出ましたが、アートが地域に入っていくと一言で言っても、倫理的な困難はありますよね。最近では地方の芸術祭で、地域の「時報」を変えたら住民から反発があった例もあります。

坂本 僕が担当している商店街は、「トキワ荘」をすごく大事にしているところなんです。でも、僕の今回の企画はそれと全然関係なくて……(苦笑)。岸政彦さんの『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015)のように、そこには誰も知らない物語がとてもたくさんあって、それを想像することに価値があると思っているんです。地域の皆さんがアピールしたいものとは違うところを見る……それってもしかしたらちょっと残念がられてしまうかもしれないけど、かといって僕は商店街の観光大使でもない。街のなかにある、みんなが目を向けていない価値を取り出せたらいいな、と思っているんですが……。

杉山 坂本君の取り組みが面白いのは、相手を傷つけることなく、「眠っている」という表現で意味合いを変えてくることですよね。まるで「お宝が眠っている」ように、街のなかで静かに、でもすごく大事にされているものがあるんじゃないか――そう問いかけると、きっと街は応え始めてくれる気がしています。

佐々木 私も当日までずっと葛藤するはずです。個人的な縁もゆかりもない商店街で私がやることの意味……それをはっきり見出すことは、じつは無理なんじゃないかとも思う。人を幸せにするとか、人の未来を変えるということも難しい。でも、よい作品にできたとしたら、この世界の中で2人くらいはその思いを受け取ってくれるかもしれない、という思いはつねにあるんです。だから、まずはこの場所をリスペクトして、そのうえで「自分が一番幸せになる」道を選びたいんです。マーク・トウェインの著書『人間とは何か』(岩波文庫、1973)を読んでいると、結局人間ができる唯一のことは、自分を幸せにすることだけだというようなことが書いてあるんですね。それがいまのところ、私にできることだと思うんです。もしこの企画が終わった後に幸せだったら、私はまた大塚に来ると思う。それさえできれば、何かを達成した、ということでいいのかもしれない、って。

中村友美が過去に手がけたセノグラフィー。範宙遊泳『うまれてないからまだしねない』(本多劇場、東京、2019) 撮影=鈴木竜一朗

中村 私もあえて、「架空」の配送というテーマを選んだところがあります。そう簡単にわかりあえないことこそが前提であって、そこで「これは架空だから」という設定があるから、お互いの折り合いがついて、関わり合っていける気がするんですね。つくられた「架空」というものを、ネガティブではなくて、ポジティブなものとしてとらえる。きっと、「祭り」ってそういうものなんじゃないかな、ということも思っています。

──当日、地域の住民の方々や、外から見にやってきた観客たちと、どんなコミュニケーションが生まれそうでしょうか。

坂本 見世物で終わらない、ということは考えています。100パーセントの市民参加じゃないけど、観客の方も山車を引っ張ろうと思えば引っ張ってもらえるような。たんに見ている人もいれば、「これって何?」と聞いてくる人もいて、興味があれば一緒に引っ張ってもらう。そうした関わり方を人によって選べて、人それぞれに“距離感のレイヤー”があるものになればいいな、と思っています。あと、稽古をしていると、お祭りってやっぱりすごいフィジカルなんだなと実感します(笑)。すごく肉体的で、人間的なことだから、そっちに“持っていかれる”のも大事かな、って。

中村 地域のお祭りの様子を見ていても、移動ってすごく大変だと感じます。道路を封鎖しても、人の通りは絶えないし、ゆるい坂もあるし。大変そうに見えたら、見ている方にも手伝ってもらえたらすごく嬉しいですね。

佐々木 私のバルーンのゲートはグラグラしているから、そのままだと動かないかも……。完全に参加型だから、ぜひ手伝ってほしいです!(笑)​。

杉山至。「第2部 まちまち」の舞台となる「トランパル大塚」にて

──こうした立ち位置の違いも、コレクティブならではですね。

杉山 「セノ派」の今回のメンバーも、たまたまですし、今後もっと増えてもいいんです。ひとりの作家ではなくて、様々な人が関わっていく。街を見る視線や、出会い方もそれぞれにあるはずで、そのことを大切にしてくれる人であれば、一緒にできるなと思っています。その最初の試みなんですね。

坂本 いろんなものが混じりあっていて、でも完全に混じりあっていない状態が、都市っぽいよね、という話を、長島さんともしたんですよね。僕の印象としては、子供が遊ぶボールブールとか、お祭りの屋台で出るスーパーボールすくい、ヨーヨーすくいみたいな感じです。ずっと混ざっているのに、絶対に均一化はしない。でも共存している。そんなイメージが、そのまま都市にも通じる気がするんです。

メインビジュアル

*1──缶詰の缶の内側にラベルを貼り、ハンダで缶を密封。そのことで缶の中に缶の外側=宇宙を閉じ込めたというコンセプトの作品。