2022.12.9

【DIALOGUE for ART Vol.11】自己の内側を掘り進むか、外側へどこまでも伸びていくのか

「OIL by 美術手帖」がお送りする、アーティストの対談企画。今回は、自身の内なるストーリーに忠実に画面を紡いでいく、やましたあつこと、絵画のみならずその空間までを生み出そうとする内海聖史が登場。ふたりはこの秋、千葉県成田市にあるARTSTAY maison FUWARIで同時に個展を開催した。その縁に導かれて、この対談が実現することに。それぞれ自らの表現とどう向き合っているのか、その相違と共有点を探り合った。

取材・構成=山内宏泰 撮影=北沢美樹

ARTSTAY maison FUWARIにて。やましたあつこ(左)と内海聖史(右)
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ふたりの絵画は対極にある

やましたあつこ(以下、やました) 今回、せっかく対談をするなら、世代の異なる人と話したかったんです。良いタイミングで内海さんとの出会いがあって、お声がけできてよかったです。

内海聖史(以下、内海) 同じときに同じ場で展示をしているのに、これまでじっくり話す機会もあまりなかったですね。ARTSTAY maison FUWARIで僕らふたりの作品は、向かい合うようなかたちで配されていて、パッと見るとどちらも優しげな色合いで細かく描き込んであるから似た印象があるかもしれない。でもちょっと腰を据えて見てみればまったく違う絵だとわかるだろうし、それぞれの絵が生み出されるプロセスや動機は真反対と言ってもいいはず。ここを訪れた人が「ひとくちに絵画と言ってもいろいろあるんだな」と感じてもらえたらうれしいですね。

やました たしかに私たちふたりの絵画は、コンセプトや成り立ちがかなり対照的だと思います。

内海 対極にある、と言っていいかもしれない。

やましたあつこ

やました すごく単純化すると、内海さんは絵画と空間の関係を考えていて、私は自分のなかにいる他者との関係を表そうとしているのかな。

内海 外側と内側に分かれているんですよね。外を向いてる僕の展示タイトルは「SCAPE ON WONDER」。すべての絵画は空間を必要とするし、絵画によって空間が生まれると僕は考えています。つまり絵画はつねにインスタレーションの要素を孕んでいる、なので今回も、日本家屋に絵画をどう配して空間を生み出すかを試みました。

 その場に身を置いていると、「絵画って何?」と考えることにもつながっていくかなと思います。絵画ってサイズにしろ、モチーフにしても、これが「典型である」といえるものがない。中心がここだと指し示すことができず、芯をとらえられません。ということは、つくり手がその都度、絵画の枠組みを設定できるわけで、「これも絵画じゃないかな?」「絵画はこうもありえるんじゃないか」と探っていけるのがおもしろい。

内海聖史

 画面に何かを写したり、画面で何かを伝えたりすることは、僕にとってさほど重要なことではないんです。植物などの自然の風景を描いたように見られることが多いですが、それは鑑賞者の経験から色や構造が似たものを選ぶからだと思っています。

 自由に想像できる状態にあることが大切だと思うので、こちらからわざわざ何を描いているかは言いません。そもそも人はモノを見るとき、必ず自分に引きつけて見るものです。自由に観る、観たいように観ることしかできないのだとも思います。

 とはいえ僕も大学3年生あたりまでは、人物など具体的なものや、自分の手に届く範囲のものを描いていたんです。徐々に対象物を描くことを手離していって、いまのような作品に行き着いている。僕がずいぶん前に手離したものを、やましたさんはしっかりつかんで掘り下げているんだなと思えて、すごく興味深いです。

ARTSTAY maison FUWARIの展示風景より、内海聖史《moonwalk》(2015)。日本家屋のなかに大きな絵画作品が出現した
「"DISCOVERY" ART WITH AIRPORT CITY&TOWN SCAPE ON WONDER / 内海聖史」展展示風景(ARTSTAY maison FUWARI、2022)

「邪魔のない幸せ」を探して

やました そうですね、見ているところがまったく違っているのがおもしろい。私の場合は、生い立ちを含めた自分の内側のことから作品をつくっています。私はずっと「邪魔のない幸せ」を絵画にしています。小さい頃から現実というものが重た過ぎて、だからこそ違う世界、私だけの王国を創造して、そこに住む人たちを眺めたり描いたりすることで、背中を押してもらってこの世界で生きてきました。その過程で私の絵画は生まれ出ているんです。

内海 内側の「こことは別の世界」は、昔からずっと変わらずにあるんですか?

 やました はい、私は小学校に上がる前後から激しいイジメを受けていて、精神疾患の症状である円形脱毛症になり、頭髪も眉毛もまつ毛も身体中の毛が抜けてしまった。するとまたその容姿でイジメられるという悪循環で。完治するまでの5年半、つまり小学校時代は丸々病気とともに過ごしていました。家族にもうまく伝えられない、地元は田舎ですし家族からしたらいったい何が起こってるんだという感じで甘えさせてくれたり救ってくれたりする人もいなくて、逃げ場がない。だったら自分でつくるしかないと判断したのか、あるとき頭のなかに別の世界が丸ごと1個、突然生まれました。

 幼少の頃から絵を描くのは好きで、絵を描いていると絵の世界に入り込んでしまう体質もあったので、描くことが別の世界の構築を促してくれた面はあったかもしれないです。

 頭のなかにできたひとつの王国では、私は傍観者の立場ですね。現実で嫌なことがあると王国を訪ねていって、そこに住む人たちの営みを眺めたり、ときには話をしたりする。そういうのが習慣になっていきました。

「Lounge Projent Exhibition 01 やましたあつこ」展展示風景(ARTSTAY maison FUWARI、2022)

 後になって知ったのですが、この仕組みは例として多重人格が生じるときの構造と似ているんです。私は解離性同一性障害というわけではありませんが、多重人格の人は、その年齢に見合わない過度のストレスを受けたとき、それを抱えてくれる人格を自分のなかにつくり出すと言います。また別の耐え難いストレスが出てくるとまた違う人格をつくり、そうやってだんだん増えて多重になっていく。

 このときの人間の心と体の働きには驚かされます。ストレスに対処するために、身体という器はひとつのまま人格をいくつもつくり出してしまうって、すごいことです。私はこれをネガティブにとらえるのではなく、人間の可能性を示すこととして考えたい。人間がふだん使っている脳の能力は10パーセント程度だと言いますが、残りの9割が秘めている可能性は無限だなと感じます。

内海 「内なる世界」の広さと深さを見つけたことが、ごく自然なかたちで描くモチーフとつながっていったわけですね。すごく納得感のある話です。

やました 大学に入学した後は受験のための絵画ではなく、みんなそれぞれ自分の作品を制作していきます。私は自分にとっていちばん近くて切実なものを描きたいと思っていました。最初は現実の世界で私の周りにいる人たちを描いてみたのですが、何か違った。その人たちの抱く感情を私が完全に理解できるわけではないし、周りの人たちは自分という存在を形成している一部ではあるものの、自分そのものではない。

 それで、もう一度ゼロから考え直してみて、自分というものの在り処として思い浮かんだのが、脳内の世界でした。自分のなかにある世界を絵に描いてしまうのは、恥ずかしい気もして最初は少し抵抗がありました。でも描いてみたら、いつもより描くことが楽しく感じられた。それで気持ちが吹っ切れましたし、この世界を描くことになってから、自分のアーティスト活動が本格的に始まったように思います。

やましたあつこ ルシア 2022

 当時は大学在学中でしたが、この頃から公募やコンテストに応募したものがよく選ばれるようになって、展示の機会も増えていきました。自分の内側を見せて、精神的なことを詮索されるのは嫌だと最初は悩むかもしれないと思いましたが、意外とそういうこともなく私の考え方・あなたの考え方、と切り離して受け取っていました。何を言われても「あなたにはそういう見え方をしているんだね」と。

絵画とは建築の従属物

内海 ARTSTAY maison FUWARIで展示している作品は「dendrophilia / 植物性愛」をテーマにしていますね。これはどこから来たんですか。

やました 最近、LGBTQという言葉を耳にする機会が増えましたが、私は以前から恋愛の相手が異性、同性、老人、小児、動物、液体、植物……なんだってありえるだろうと思っていました。交流電流を見つけた天才発明家ニコラ・テスラも、雌鳩をパートナーに暮らしていたそうです。お互いを尊重し合い、愛情を持って対等にリレーションシップをとっているかぎり、第三者に非難されることはないんじゃないか。

 それに、これだけ多様な相手と恋愛の情を持てて、言語を超えたコミュニケーションがとれるなんて、まるで超能力じゃないですか。人間の持つ可能性の大きさを示しているとも言えます。それで植物性愛について深く考えてみたくなって、いろいろ調べていたんです。でもこの分野に関する文献はかなり少なくて。じゃあ実際に植物に囲まれた場所に身を置いてみようかと考え、この成田のレジデンスに入ることにしました。

ふたりの個展会場となったARTSTAY maison FUWARI。空港で知っている成田の景色とはまた違う、里山の景色のなかで大規模な展覧会を開催している

 成田の里山の日本家屋に2ヶ月住み込んで、植物を観察したり触ったりする日々を送りました。朝起きたときに眺めていた風で揺れる森は、大きな生きものか巨大な毛布みたいだなと感じました。そこにすっぽり包まれてみたいという思いを馳せたり、猫や虫は植物とコミュニケーションが取れているんじゃないか?など疑問が浮かび上がったり、いままでの自分にはなかった考えが生まれました。その思いにかたちを与えていったのが今回の絵です。

 私はこのように自分の体験や物語から絵がつくられていきますが、内海さんの絵の描き方はまるで違いますよね。体験が絵に表れることはないのですか?

「"DISCOVERY" ART WITH AIRPORT CITY&TOWN SCAPE ON WONDER / 内海聖史」展展示風景。《coriolis》(2022)

内海 以前はそのように体験から描くようなこともありました。が、いまではその空間と絵画との関係性以上に自己を投影して描くことはないですね。長い目では、見聞きしたり感じたものが自分のなかを通して、作品に投影されることはあるにしても、僕の場合は時間がかかる。例えばアーティスト・イン・レジデンスで1年間どこかに滞在して、その期間中に土地を反映した作品をつくってくれと言われても難しいです。

 僕としては、その土地を気に入ったか気に入らないか、良い体験があったかどうか、そういうことに左右されたくないという気持ちがあります。僕自身がどう思うかは、あまりたいしたことではない。そもそも自分の感覚をあまり信用してないんです。

 それよりも、与えられたある空間で「絵画」がどんなことができるかを探ってみることに関心があるし、そうやって探究することで作品がかたちを成していく。例えばラスコーの洞窟壁画などはあの空間であの凹凸、などの表情があればこそ生まれてきた表現なわけです。以前はもっと絵画のことを単体で考えたり、「絵画」が紛れもなく在ることを信じたりしていたけれど、いまの僕にとって絵画とは、建築の従属物であるといったとらえ方をしていますね。

やました 外側と絵画をつくっていく建築的な見方ですね。

内海 そう、だから制作されるモノと僕自身とはあまり関係がないのかなと思っています。

内海聖史 色彩の下 2022-07 2022

やました 私は自分の内側をよくよく眺めて、その中で起きていることを描き出しているけれど、自分自身の気持ちに振り回されることはないですね。もうひとつの世界ですから。そこは内海さんと近いのかもしれません。

内海 そうなのですね。自分の慰みのためにつくっているわけではなくて、もっと大きいものをじっと眺めてつくっているのはよくわかります。絵を描くのに命を削ってやっていることは、作品からよく伝わってきます。

 そうやってすべてを懸けてつくっている絵画だからこそ、多くの人に見てほしいし、届いてほしい。そのためのチャンネルはたくさんあったほうがよくて、やましたさんも精力的に創作するし発表の機会もどんどん設けていますね。

やました はい、今後もいろんな場所で発表していきたいですね。

内海 とくに絵画というのは彫刻やインスタレーションのようなものに比べれば、いろんな場面で扱いやすい表現です。それは社会に美術が広がるにあたっての先鋒的な存在なのだと思います。

 様々な機会を得て、気に入ってもらえたり何か引っかかるところがあれば、また次の展示の場などに足を運んでもらって、実物やその空間に触れる機会をつくってもらえることを願っています。

この日、初めてじっくり話したというふたり。表現を通してすぐに意気投合している姿が印象的だった

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