彷徨いを引き受けた写真家
「私は人間が好きだ」などと言ってしまうところに、石川真生のとりとめのなさがある。彼女は、「醜くも美しい」人間臭さに惹かれ(同様の理由で「人間が嫌いだ」とも言えるはずであるが)、幾度となく一途な「恋」にのめり込んできた。その対象への熱中は、つねに写真とともにあった。それらをヒューマニスティックな一言に括ってしまうのは、あまりに短絡的に思えるが、石川真生の仕事を総覧させる本展の試みは、この言葉の真意を少なからず紐解いていたようにも思う。そこでは、占領と本土復帰という状況に裏打ちされながらも、あらゆる政治的思想に先立って脊髄反射的に突き抜けていった石川による「沖縄に関係する人」への具体的な注視が、──一方向的な眼差しによって理想化され、物語としてパッケージ化される「沖縄」に照射する逆光の光源たる眼差しとして──見出されるのである。
沖縄県立博物館・美術館で開催された「石川真生展 醜くも美しい人の一生、私は人間が好きだ。」(*1)は、石川真生の作品を網羅的に一挙に公開するものであった。展示替えを挟み、総点数およそ500点がヴィンテージ・プリントの状態を尊重するかたちで展示された。写真家・比嘉豊光との共著にしてデビュー作の記念碑的写真集『熱き日々 in キャンプハンセン!!』(1982)に代表される「アカバナー」シリーズや、新聞に長期連載された「戦世−オキナワ47年目の夏」(*2)、癌の手術によって人工肛門となった際の衝撃的なセルフポートレイトや同じく癌で闘病中の母を写した「私の家族」、あるいは現在進行形で制作と発表が続けられている「大琉球写真絵巻」(*3)に至るまで、ひとりの写真家によるものとは思えないほどの多様な、言ってしまえば食べ合わせの悪い作品群が会場にひしめき合っていた(*4)。そこに、写真家として企図されたなんらかの道筋やその全体像なるものは見出し難い。
1971年、沖縄返還協定の批准を目前に、沖縄全土では「11・10ゼネスト」が決行され、集結したデモ隊と機動隊の激しい衝突が相次いでいた。その最中、直撃した火炎瓶によって火だるまになり焼死した機動隊員の姿を、当時写真部に所属していた高校3年生の石川真生は目撃することになる。彼女は恐怖に慄きながらも「この『燃える島、沖縄』を、何かで表現したいと心から思った。そして私が出した結論が、写真という表現手段だった」(*5)とのちに回想している。ここだけを切り取れば、激動の沖縄において写真家を志すドラマティックな意思表明のようにみえるが、石川写真における最大の魅力の根源はおそらく、次のような発言にこそ見出されよう。
私には、写真と同じくらい大事なものがある。それが恋愛。正直に言うと、全軍労の四八時間ストを支援しに行ったのも、写真家を目指すきっかけになった一一月一〇日のゼネストに参加したのも、もちろん沖縄人としての怒りはあったけれど、ヤマト出身のある新左翼の学生と恋愛にのめりこんでいたからだった(*6)。
これは、自伝『沖縄ソウル』(2002)からの引用である。そのなかで彼女は、個々の作品の誕生経緯を恋愛遍歴と併せて語っているのだが、それは、構成上の演出でもなければ、写真家としての思想をはぐらかすための赤裸々秘話でもない。沖縄を撮ろうと改めて決意した1975年、「沖縄=米軍基地=米兵だから」(*7)という理由から米兵を撮るためにコザ市の外人バーで働きはじめた件においても、当時付き合っていた黒人兵たちの名前が幾度も登場する。彼女の写真は、そのほとんどが恋愛と友情のなかで始まり、その内部で炸裂したものであった(*8)。また、コザから金武(きん)町の外人バーに職場を移す頃、彼女の関心にはある変化がもたらされていた。
恋愛を謳歌しながら、ときには翻弄されながら、米兵たちの写真は撮り続けていたんだけど、私の関心が少しずつ、米兵から私と同じように外人バーで働いている女性たちに移ってきたの。(中略)自分の欲望に正直な分、自分たちのほうが人生を楽しんでいるとも言えるじゃないって、蔑みの視線を優越の視線でひっくり返して、金武の女の子たちは、自由に伸び伸びと生きていた(*9)。
石川は、沖縄を撮るために米兵に向かい、そこから「蔑みの視線」を悠々とかわす「金武の女の子」たちに魅了されていったのだ。しかも、ここでいう「金武の女の子」とは、沖縄の基地に配属になった軍属の恋人を追いかけてやってきた「ヤマト」出身の女性を含んでおり、石川の沖縄を撮るための眼差しは、米兵へ、そして沖縄人女性とヤマトの女性のコミュニティへと次第に横滑りしていったのである。外人バーでの1年半に及ぶ生活の記録をまとめた『熱き日々 in キャンプハンセン!!』にかつての恩師、東松照明が寄せたあまりに有名なテキストを引いておく。
彼女は写真家であるとともに金武の女である、(中略)真生の写真には真生が二重うつしに映っている。他者でもあると同時に自身でもあるといった複雑な関係と奇妙な位置。(中略)ミイラ取りがミイラになる直前の危うさのなかで見た人生の裸形がここに投げ出されてある。(中略)彼女の写真は、すべて、ありのままだ。焦らず、気張らず、淡々と日常の生活にカメラをなじませ、呼吸のリズムで写真をとる(*10)。
ここで東松は、「ミイラ取りがミイラになる直前の危うさ」という表現で石川の方法論に迫っているが、彼女が取りえたものはもっと複雑で倒錯していたように思われる。なぜなら、彼女は写真家である以前に、また、金武の女である以前に、沖縄人であるからだ。そもそも石川は、沖縄人でありながら、「沖縄を撮る」ために米兵に向かい、気づけば沖縄とヤマトのコミュニティであるところの「金武の女」になっていたのである。
また、石川は、「沖縄人と沖縄に関係する人しか撮らない」(*11)とも言う。沖縄人=私に「関係する人しか撮らない」と言い換えてもよいだろう。事実、かつてコザの外人バーで出会った元海兵隊員のマイロン・カーの帰米の知らせを受けてフィラデルフィアを訪ねており、彼とその家族を撮影した「Life in Philly」(1986)や、11年ぶりに訪れた金武のバーで、従業員がアメリカ人との結婚を夢見て来日したフィリピン人女性に総替わりしていることを知り、そこで働くマリーンとジョビーの里帰りに合わせてフィリピンに同行した「フィリピン人ダンサー」(1988〜89)等の作品が示すように、もっとも身近であったはずの沖縄からは遠い海外にも足を伸ばしているのだ。
それは、たとえ沖縄人に「私」が代入可能だとしても、しかし、沖縄は、私ではあり得ないことを示している。つまり、「沖縄人と沖縄に関係する人しか撮らない」ということが、必ずしも「沖縄=米軍基地=米兵」という単純図式に則って沖縄を撮ることにはならず、石川は、[私との関係で形成される共同性(私たち)]とは区別される[幻想の共同体としての私たち沖縄]との落差とジレンマを次第に肌で感じ取っていたはずである。そのような、開かれつつも閉じた「私たち」が孕む重層性への疑問と、そのメビウスの輪が抱えうる差異と同化の拒絶の生理的感覚の顕れこそが、石川写真の本質にほかならないのだ。
石川は、「具体的な話はするけど、全体論は語らない。マスコミは森全体を見ているけど、私は一本一本の木を大切にする。(中略)一本一本の木が集まって森になるんだってことを忘れてはいけないよ」(*12)と述べるが、しかし、彼女は一本一本の木に集中するあまり、まだ見ぬ森のなかにいる。森とは「沖縄」にほかならない。まだ見ぬ沖縄の片鱗は、沖縄=米軍基地=米兵から始まり、沖縄人女性がいて、ヤマトの女性がいて、沖縄芝居があって、フィリピン人のダンサーがいて、酔っ払いの漁師がいて、自衛隊があって、米軍基地があって、母がいて……というようにとりとめもなく、ぶつ切りの状態として投げ出されてある。そして、彼女が見た木とは、ひとつの森に属すべく単数のそれではなかったはずであり、その木は、森から森へ、あるいはどちらの森をも物語る木であった。アメリカやフィリピンへの訪問は、沖縄の周縁への眼差しでもなければ、それによる沖縄の中心化をも意味しない。彼女は、不確定領域の森のなかをただ彷徨うことを積極的に引き受けたのである。その彷徨いの痕跡にどうしようもなくこびりつく沖縄をひとつずつ振り返るために。
「人間が好きだ」の一言は、近づけば遠のいてゆく沖縄に対する一種の混乱を端的に示している。本展において、全体として食べ合わせの悪い感覚が如実に現れていたことは、つまり、石川が一本一本の木に注目したことで立ち現れた命名不可能な「森」を現前させてしまったことを意味していた。本展が成しえた最大の功績はそこに尽きる。これは歴史化でもなければ、当事者による「沖縄」の再消費でもない。なぜならば、それは「まだ見ぬ沖縄」だからである。醜くも美しくもあることに自由なはずの人間の、無条件の本来性の獲得に向けて、石川はここに、括弧付きの「沖縄」を散骨する。
*1──本展は、当初予定されていた開催期間(3月5日〜6月6日)のうち緊急事態宣言(5月23日〜6月20日)に伴う休館を経て、宣言明けの6月20日から27日までの会期延長が決定していたが、緊急事態宣言の延長に伴い再開されることなく閉幕となった。
*2──『沖縄タイムス』で1991年11月12日夕刊から92年8月8日夕刊までの全115回にわたり連載された「語らなうちなー『戦さ』47年目の風景」にて石川が写真を担当したもの。以下、本展図録掲載の石川真生展担当学芸員・亀海史明氏による「石川真生の写真について」から引く。「〈戦世〉は、旧日本軍と沖縄戦にゆかりのある場所や人物に取材したシリーズであり、沖縄県内の戦跡のほか、インドネシア、シンガポール、韓国、台湾にも渡航し、取材を行っている」。
*3── 全会期にわたって展示されたパート7を除き、パート1からパート6は、随時展示の差し替えが行われた。ただし、パート6は、緊急事態宣言発出に伴う休館により、その後オンライン配信にて作家による作品紹介というかたちでのみ公開された。新作のパート8については、那覇市民ギャラリー(8月17日〜22日)での展示が決定している。
*4──作品の取りまとめが手放し状態にみえた。そこに一連性をもたせたいのか、あるいは差別化を図りたいのかが判別つきづらいキュレーションの狙いとその揺らぎに問題があったように思え、石川写真の散逸性とその意味が消化不良のまま展示が構成されたようであった。時系列にとらわれず物語を意識したという構成とヴィンテージ・プリント(個々のフォーマット)の強調はなんら共鳴しておらず、観者にその解釈を委ねすぎていた。公立といえど、キュレーターはもっと作家に対して無責任に協調すべきではないか。
*5──石川真生『沖縄ソウル』太田出版、2002年、p.21。
*6──前掲書、p.34。
*7──前掲書、p.70。石川は、「そろそろ本格的に沖縄の写真を撮りたいと思いはじめ」外人バーで働くことを決意したという。
*8──それは「港町エレジー」にしても同様である。1983年、石川が那覇の安謝新港にて「あーまん」という居酒屋を始めた頃、そこに通う港湾労働者の男と恋仲になり同棲が始まった。男は、漁師や浮浪者の溜まり場となっていた廃墟同然の小屋に出入りしており、彼らとの交流の記録が写真集『港町エレジー』(1990)に結実する。石川は、「ウチナーグチしかしゃべらない、原始沖縄の男たちの世界」において気性の荒い男たちを「呼吸のリズム」で写しとっていった。石川は、ここでの経験について「金武の女たちへの憧れとも似ているよ。私は彼女、彼らの世界には完全には入れない」(前掲書、p.144)と述べているが、海兵隊を追いかけて沖縄へきたヤマトの女性たちや、ダンサーとして働くフィリピン人の女性たちや、あるいは借金を背負い「いつ喧嘩に巻き込まれて死ぬかもわからない」(前掲書、p.143)「港町エレジー」に登場する漁師らも同様に、彼女/彼らは、自分が置かれた場所に生じる軋轢や不安に敏感であり、その世界には「完全には入れない」人物たちではなかったか。その意味でも彼女の以上のような発言は、完璧なまでの場の共有の現れ、つまりミイラ化の過程としてとらえてよいのだろう。
*9──前掲書、pp.75〜76。
*10──石川真生・比嘉豊光『熱き日々inキャンプハンセン!!』(あ〜まん出版、1982、p.153)。石川は、沖縄の本土復帰直前の1972年3月に父親との決裂から家出し、上京。73年4月から「WORKSHOP写真学校」の東松教室に通いプリントの作法等を習うが、同年7月の夏休みを利用して帰沖し、そのまま東京に戻ることはなかった。
*11──笹川記念会館で開催された「2019年日本写真協会賞」にて作家賞を受賞した際のスピーチにて。
*12──前掲書、p.170。