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2022.9.11

DVやジェンダー格差をめぐる飯山由貴の応答。森美術館での展示から見えてきたものとは

森美術館で開催中の「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」で、アーティスト・飯山由貴がドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマにした新作を発表。同作の背景や展示のつくり方、そしてそこから見えてきた構造的な問題などについて、彫刻家/評論家の小田原のどかが飯山に話を聞いた。

聞き手・構成=小田原のどか ポートレイト撮影=浦野航気

飯山由貴
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──森美術館で開催中の「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」で、飯山さんはドメスティック・バイオレンス(以下、DV)を主題とする新作を発表されました。この作品はイギリスの医療研究財団ウエルカムの支援によってつくられたそうですね。

飯山由貴(以下、飯山) はい。今回私が参加したのは、ウエルカム財団の「マインドスケープス」というプロジェクトで、世界の6都市でアーティストと美術館が財団の助成を受け、市民団体などとのコラボレーションを通してメンタルヘルスについての多様な視点をつくることを目的としています。メンタルヘルスに関心を持つアーティストを探していた財団に複数の関係者から私の名前が挙がり、面談を経てサポートが始まりました。幸運な機会でした。

飯山由貴

──飯山さんは、昨年、国際交流基金の助成により制作した作品がオンライン展示の会期直前で展示不可となる理不尽な経験をされており、助成を受ける側の立場の弱さについてはお考えがあると思います(*1)。また今回は支援の対象を決める基準として「メンタルヘルス」という軸があったということで、これらも踏まえて、ウエルカム財団の助成がどのようなものであったのかを教えていただけますか。加えて、「アーティストと美術館と市民団体の三者のコラボレーション」の内実なども伺えればと思います。

飯山 当初は、昨年展示不可とされた映像作品《In-Mates》(2021)を再編集して、これとDVについての新作の2つを展示しようと考えていました。けれど、展示施設の特性を考えると、今回はDVに焦点を当てたほうが相応しいのかもしれないと思ったんです。日本にも様々な美術館がありますが、森美術館はちょっと特別な場所といいますか、観光やレジャーでたくさんの人が訪れますし、親密な関係にある人たちがデートをしている姿を他館より多く見かける気がします。

「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(森美術館、東京)での展示風景より、飯山由貴《影のかたち:親密なパートナーシップ間で起こる力と支配について》(2022)
Courtesy of ウエルカム財団(ロンドン)、WAITINGROOM(東京) 撮影=来田猛 画像提供=森美術館

 それで、去年の夏ぐらいに方向転換をしたんです。担当キュレーターの熊倉晴子さんも、作家のしたいことと美術館の条件と観客の安全性、その3つを考えながらもっとも良い方向を考えていくというスタンスの方でしたし、ウェルカム財団との関係も、定期的なミーティングがあるものの、基本的には資金提供と近況の共有のようなかたちで、作品制作のディレクションは私に一任されている現場でした。

 ウエルカム財団は日本国内で「inVisible(インビジブル)」というNPO法人と契約していますが、今回の制作では「aware(アウェア)」という民間団体に協力をお願いしています。DVのない社会を目指して2002年から活動している団体です。美術館ともっとも協議したのが、私の作品を見ることによって展示室で体調が悪くなるかたがいることを想定して、何を準備しておけるのか、でした。まずDVについての勉強会を館内で行い、観客にどんな反応が起こりうるかということをアウェアのファシリテーターに考えていただいて、それを受けて会場スタッフにどんな案内をしていただくのか、相談しました。具体的には、森美術館の場合は休憩室があるので、もし具合が悪くなったかたがいたら、体にはふれずに声だけでお声がけをして、誘導をするというようなことです。

── DV被害者や支援者の方々のインタビュー映像とともに新作の映像作品《家父長制を食べる》(2022)が上映されていますが、これは飯山さんご自身が被写体ですね。会場には時折飯山さんの痛ましい泣き声が響き渡り、具合が悪くなってしまう人もいれば、痛みの先の癒やしとして受け取る人もいるだろうと思いました。気持ちを整理して投函するスペースがつくられていたり、DV被害に関する非常に充実した配付資料も用意されていましたが、そのような展示のつくり方について心がけたことがあれば教えていただけますか。

小田原のどか

飯山 パートナーシップのなかで何かが変だ、苦しいなと思っている人が、作品を見たとき、「ああ、もしかして」と気がついてしまうことがあると思うんです。「じゃあ、その後どうするの」というところの責任の取り方として「これぐらいは」という、学びとしてのDVの構造、主に東京での支援の情報をまとめています。配付資料は来場した方自身が使ってもいいし、あるいはご友人などに「こんなのがあるよ」と伝えてもらってもいい。日本の場合、DVに関する具体的な支援は地方自治体ごとに異なるのでまとめにくいですし、加害者の目につかないようにしていることが裏目に出て、被害者にとってもそれ以外の人にとっても、仕組みがすぐに見えないようになっている。

 なぜそういう情報をまとめたかというと、DVと児童虐待の関係や性被害の支援を、自分が受けた公教育では知る機会がまったくなかったということも大きいです。フェミニズムやジェンダーには関心があり、勉強をしてきたけれども、自分が当事者になって初めて知ったことが本当に多くありました。親密な関係性のなかで起きた暴力の責任を社会全体で負ってこなかったかわりに、居場所を失った人とその家族が更なる被害を負うことを私たちは見過ごし続けていいのでしょうか。

 《家父長制を食べる》では、男性に見えるものを私が食べることに関して、セクシュアルに見えないための演出を心がけました。頭を丸刈りにするというのは「傷つき」の表現として前日に思いついて、それについて何人かの方に聞いた意見も参考にしながら、絵コンテを描いて本番に臨み、モニターを見ながら自分で演じて自分でOKを出していきました。撮影現場では緊張とストレスによるものなのか、何度か吐きました。嗚咽のシーンは演技ではないんですけれども「ああ、今だったら泣いてしまうな、でもこれは撮ったらいいんじゃないかな」という合意が自分にあったので、どこまでがフィクションでどこからが生(なま)なのか、きちんと考えるとよくわかりません。

飯山由貴 家父長制を食べる 2022 4Kヴィデオ、サウンド
Courtesy of ウエルカム財団(ロンドン)、WAITINGROOM(東京) 撮影=金川晋吾

 正直に言って、「なんで私がこんな作品をつくらなきゃいけないんだろう」という思いもありました。社会のなかにDVをはじめとする家族間のトラブルや暴力への対処法をともに考えてくれるようなシステムがきちんとあれば、ここまで個人に苦しみや問題解決への責任を負わせずに済むんじゃないか、と。

──何かが起こったとき、自分ひとりで解決しないといけない空気が日本にはすごくありますよね。作家にしてもそうです。トラブルに陥ったことを共有して助け合うシステムがないので、ひたすら個人で背負うしかない。それを変えたくて、東京都人権プラザで開催中の飯山さんの個展をめぐる理不尽な状況については支援をしています(*2)。他方で、飯山さんが実際に他者の助けを借りていることがあれば教えていただけますか。また、今回の作品を経て、次回作への展望などがあれば伺いたいです。

飯山 家事サポートのかたに来ていただいて、食事のつくり置きをお願いしています。それがあるだけでだいぶ楽になりました。制作のスタイルは作家によってそれぞれですが、子供とふたりでの生活と、仕事、そして制作で、いっぱいいっぱいなので、自分がやらなくて済むところから手放せるように試しています。

 今回の作品では、来場者がコメントを書いて投じることができます。予想よりもはるかにたくさんのコメントが集まりました。これからそれを展示空間に反映していくのですが、本当に様々な声が寄せられています。

 この場を借りて応答しておくべきだと思うのが、被害者3名の語りを年代と経験の異なる女性に限定した事で寄せられた「男性ばかり悪者にしている」「DVには男性被害者もいます。自分もその経験者です。女性の被害者ばかり取り上げられることが多く、無視されているようでつらい」という声です。しかし「自分は男性だけれども、被害者として共感した」という声が少数あったことに、個人的には救われた気持ちがあります。性や国籍に関係なく「私はDVの被害を受けた」「私はDVの加害をした」と声を出して共に話せる場が、いつかこの社会にも生まれることを願っています。しかし今の日本社会では、それぞれの属性で区切らなければ率直に話すことの「安心と安全」はつくれない、というのが実情ではないでしょうか。

飯山由貴

 あらゆる性と性的指向のあいだで支配と暴力は起こり得ると思います。ただ、被害を被った「男性」と「女性」の日本社会での賃金格差と雇用形態の不平等に代表される差別を考えたとき、作品の中で「話し手の属性でバランスを取る」ことは私にはできませんでした。

 この作品をもっと開かれた場所で展示してほしい、という声も複数ありました。最初に森美術館で展示をしたことで、この作品へのアプローチのしにくさを感じられるかたもいらっしゃるかもしれませんが、ご依頼と予算があれば、例えば教育施設や公共施設など、どんな場所でも工夫して再展示をします。

 コメントはいま600通ほど集まっていて、たまたま美術館を訪れた人たちのなかにこんなにも、家族間の暴力や性被害を経験している人がいることを目の当たりにすると、それぞれの理由で「被害者」になることを選ばなかった人たちが本当にたくさんいらっしゃるのではないかと思います。

 それでも一部の女性被害者は、思い出すのも嫌な自分の被害に向き合い、声に出す力と方法を得てきているのだと思います。それらは決して被害経験のある男性たちにとっても「他人事」ではないはずです。そして、「恥ずかしさ」をきちんと感じなければいけないのは、被害者ではなく加害者です。

*1──「国際交流基金が中止判断/在日精神病患者に関する映像作品」(朝鮮新報サイト、2021年9月21日)。また、本件については以下のインタビューも参照されたい。「小田原のどか×山本浩貴 対談 『この国(近代日本)の芸術をめぐって』」(月曜社サイト)。

*2──「東京都人権プラザ企画展 飯山由貴『あなたの本当の家を探しにいく』」は11月30日まで開催中。本件についてはウェブ版「美術手帖」に詳細な記事を後日公開予定。