──最初に映像を拝見したとき、正直に言えばかなり衝撃的でした。いま私たちが生きている世界は新型コロナウイルスの感染が拡大するいっぽうで、聖火リレーは無観客などの条件下で行われています。また政府やIOCも「安心安全」な対策をとることで東京五輪は開催可能だと主張している。そのような状況で発表されたこの作品にはどのような制作背景があるのでしょうか。
私たちの眼差しの暴力性を体現させた作品なので、ある種の攻撃性を持っています。センシティブな内容も含んでいますので、ある程度は説明したほうがいいだろうと考え、今回の取材にお応えしたいと思いました。
この映像はそもそも今回のパンデミックの初期につくられた音声作品《AntiDream #2》がベースとなっています。パンデミックが始まって最初の緊急事態宣言が発令されたとき、ちょうど原美術館での展覧会(「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」)が控えており、そのためにコロナの現状をどうにか作品化しようと考えていました。その折、外出自粛が比較的緩やかになって、久しぶりに近所のカフェの営業が再開されました。この映像に写っているのは、私が普段仕事をしているそのカフェなのですが、約1ヶ月ぶりにその空間に身を置いたとき、すごく不思議な感じがしました。いつも眺めていた風景が今までとはまったく違う風景に見えた。そして、これは東日本大震災のときと同じだなと感じました。つまり、当時は見えない放射性物質という恐怖が空気中に漂っているという情報によって、風景がまったく変わってしまった。放射性物質の人体に与える影響については科学的説明も政治的説明もあったわけですが、どの説明を信じるかによって目の前の風景は書き換わる。それとまったく同じことがこのコロナ禍でも起こっていると感じ、そのことを作品にしようと思ったんです。
コロナウイルスに関して言えば、例えば空気感染する/しないのどちらを信じるかによって、普段乗っている電車の風景もまったく違ってくるでしょう。また「3密」というキーワードが行政から発されましたが、その言葉のフィルターを通して目の前の社会空間がつくられていく。裸の風景というものは存在せず、私たちが風景を見る認識の枠組みには様々なイデオロギーがすでに介入していることは、災害やパンデミックは関係なくつねに起こっていることですが、放射性物質やコロナウイルスによってそのメカニズムがより顕在化されたと言えるのではないでしょうか。そこでこれを機に、この私たちの眼差しの奥にある無意識的なメカニズム自体に介入するような作品をつくろうと考えたんです。催眠暗示のように繰り返される自動音声によって、目の前の風景に対して強引に意味づけをしていく作品を、街なかでつくろうと。
そんな意図をもって制作された音声作品《AntiDream #2》は、世界中いろんな場所で聴いてもらえる作品になりました。満員電車で聞いて背筋が凍ったという感想や、実際の病院のICUで聞いて恐怖を感じたという感想もいただきました。資本主義や国民主義によって群衆・大衆が生み出される場や、モニュメンタルな建築・建造物に群衆が取り込まれるような場でこの音声を聴くと、作品がその場のダイナミズムに勝手に接続し、目の前にディストピアが出現する、という作品になっています。
──今回発表された映像の主題は聖火リレーです。東京五輪開催に対する視線が厳しい現状のなかで、これをどう鑑賞してもらおうと考えたのでしょうか。
国民感情としては完全に「中止」を望む方向に向かっていると感じます。ですが、一度動き始めてしまったオリンピックをめぐる資本主義とナショナリズムが強固に結びついた政治的な歯車は止められない。誰も信じていない儀式に皆で参加させられているような状況ですが、その裏で人命が失われていることを鑑みると「滑稽」とは決して言えません。
そんななか、そもそも実際の聖火リレーが行われている現場でこの《AntiDream #2》の音声を皆で聞く鑑賞会を勝手に企画することを考えていました。しかし、私が住んでいる神奈川まで聖火が到達するのは6月下旬になってしまう。感情的にはそれまでは待てないと思いました。であればすでにネット上に存在している聖火リレーの映像に作品音声を重ね合わせてみたらどうだろうとやってみたら、強烈な映像が立ち上がった。立ち上がった以上、人々に見てほしいと思いました。さらに、この映像をこのタイミングで社会に発表する責任があるのではとも思いました。そこで、これまでやったことのなかったYouTubeでの作品の公開に至りました。どのように人々に広がっていくかがわからないので、まだ恐る恐るではありますが。
──まだ明確な反応は届いていないですか?
いまのところはそうですね。個人的に映像リンクを送った方々からは心強い感想を沢山いただいていますが、まったく知らない人からクレームが来るというような状況にはなっていません。まだ現代美術のニッチな領域にとどまっていると感じます。問題はその先にあって、より多くの人々にこの作品が接続したとき、どういう反応が返ってくるのかということです。今回はその反応も含めて知りたいという気持ちがあります。
──映像のなかでは、聖火リレーと感染状況が明確に接続されています。かなり生々しいものになっていますね。
そうですね。「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」をめぐる議論とも重なると思うのですが、芸術表現を政治的な主張とイコールに見なすのか、あるいは社会で起こっている混乱に対してあるメタな視点から形を与える行為と見なすかは、普段からどれだけ現代美術に親しんでいるかによって変わってくると思うんです。この作品は、ただ聖火リレーや東京オリンピックに反対しているプロパガンダ映像にも見えますが、美術作品としてはそれだけでは弱いです。美術作品はひとつのメッセージに集約されるものではなく、現象をメタレベルで見て、裏にあるメカニズムをも描き切ることが求められています。国民がオリンピックというひとつのシンボルに組み込まれていってしまうメカニズムを、その現象から一歩引き、人々が感じている怒りや鬱憤、不満、不安という目に見えない感情も含めて形にする。ただのプロパガンダやストレートな政治的主張以上の多層性を持ち合わせているものです。しかし、その美術作品としての多層性をすべての人に理解してほしいと言ってもそれはきっと無理でしょう。「ただの反対表明だ」と言われてしまえばそういうふうに見えることはたしかです。
──聖火リレーの映像を作品に使うことには法的な課題もありそうです。
法的にはグレーゾーンにあると思います。しかし、法律をすべて鵜呑みにしてしまうと、このような表現がまったくつくられなくなってしまいます。コロナ患者の病床が足りなく死人が出ているなか、この聖火リレーには116億円の税金がかけられていると報道で知りました。このような状況に対して、法律に従順になり、何も表現されない状況がはたして、民主主義的に正しい状況でしょうか? 著作権という法律が持つ社会的な道義性と、この映像を社会に提示することの公共性を天秤にかけた結果、グレーゾーンにあえて足を踏み入れるリスクを犯しても、私はこの作品を発表する判断を信念をもって下しました。この芸術の持つ公共性への信念にゆるぎはありません。
しかし、同時により繊細な倫理的な問題が含まれていることも理解しています。「この人は使える」「使えない」という有用性の眼差しは社会のなかには当然ありますし、コロナでは命のトリアージさえされてしまう。この作品は、こうした私たちの社会にある眼差しの暴力性を具現化するものです。作品の音声と聖火リレーの映像はランダムに重ね合わされているだけで、そこに恣意性は含まれていません。なので人工音声は「この人は使えません」とランダムに言います。しかしその言葉がちょうど発されたタイミングに、映像に写っている人は自分が恣意的に傷つけられたと感じる可能性はもちろんあります。そこに倫理的な問題が発生しうることが、この作品が持つリスクだと思っています。
この倫理的問題については、私が映像制作を続けてきたうえでずっと考えていることです。映像は、カメラの前に立たされている人物をどんどん搾取することによって成り立ちます。ドキュメンタリーでも、ニュース映像でも、映画でも同じことで、カメラという機械は、カメラの前に立っている自分が見せたくないものもどんどん記録してしまう。さらにいうならば、逆に見せたくないものが写った瞬間、映像的に強度の高いものができてしまう可能性を秘めている。この映像メディアの暴力性にまつわる倫理的な問題については、この20年間、つねに問い続けてきました。そして、どのようにしてこの搾取の構造を超えることができるか、探求し続けてきました。ひとつの着地点として現在考えていることは、例えばある歴史の事実を知ってもらいたいとか、ある障害(視覚障害、ALSなど)について知ってもらいたいとか、そういう思いを持つ人と作品をつくるときには、芸術作品によってその人たちの思いを形にする/同時に私のつくりたい作品もつくるという、カメラを挟んでそのふたつの思いが重なる部分を探ることによって、ただの搾取の構造を超えたコラボレーションが可能になるのではと考えるに至っています。
しかし、自分が決めたそのようなルールが崩れることもある。ある人や物事を告発したり、抑圧された事実を暴露したりという、作品がよりアクティビズムやジャーナリズムに近づくと、そんな悠長なことは言っていられません。その倫理観を無視してでも、映像の暴力性をあえて利用し、社会に何かを投げかける必要があります。今回の作品も「告発」のような側面がありますので、映像の暴力性がむき出しになった状態ではあります。しかし、その矛先は、写っている人たちを責めるというよりは、その奥にある政治的な権力やメカニズムにフォーカスしています。なので、写っている人たちに対してはフェアでないな、という気持ちがあるのもたしかです。オリンピックのために動員され、さらに私の映像にも使われ、二重に搾取されている。なので、もしも写っている当人からクレームが来た場合には、本人の声に対しては真摯に向き合う必要がある。さらに、そこで対話を生み出すことが、この作品の次なるステップになるでしょう。
──難しい問題ですね。ある事象の裏側にある大きな構造を作品として指摘するときには、どうしても素材として使わざるをえない、というときもある。
まさにそうですね。顔や全身をぼかしたバージョンも用意しましたが、まずはいまのかたちで見てもらったほうが、より「動員されていることの暴力」が意識されるのではないかと考えています。また、彼・彼女らだけではなく、この映像を見ている私たちもまたただ傍観者として眺めるのではなく、人口音声が「あなたも感染しています」と言うように、これ(東京オリンピック)に動員されているのだというふうに見てもらえればいいのかなと思います。
──鑑賞者も当事者であると。
それが意識されればされるほど、この作品を世に出した意味があるんじゃないかなと思います。もちろん、この作品だけで足りているのかと言われれば、そうではありません。ジャーナリズムとアクティビズムとアートには明確な境目がなく、その境界線はつねに揺れ動いています。そのなかで、アートは先ほど述べたように一歩引いて物事を見る傾向にあるので、ジャーナリズムやアクティビズムの手法より政治的な効果は弱く薄いです。本当にこの狂った事態を止めたいのであれば、このような悠長な表現を発表しているだけではまったく足りないのでは、という葛藤ももちろんあります。この映像が社会のどこまで届くのかということも含め、自分が試されていると感じています。
──小泉明郎というアーティストを知っていれば作品として見ることはできますが、知らない人からは作品だと認識されない可能性もありますね。
まさにそうだと思います。あいちトリエンナーレのときと同じですね。しかし、あいトリを経て、そうした一般的な視線にも作品を触れさせなければいけないだろうな、という気持ちがあるんです。津田大介さんも指摘されていましたが、美術がそれ自体のなかで収まってきたがゆえに、社会的に美術に対する耐性が作られてこなかったという状況が、あいトリのようなケースを招いたと思うので、ある程度ネガティブな反応が起こるにせよ、美術は政治的な側面も含むのだということに耐性を付けてもらう必要があるのでないかと。また、集団心理を扱った作品なので、大衆の眼差しに一度でも乗せる必要性があるとも考えています。閉じるべきではなく開いていく方がよい。そして、いちばん開かれたメディアとしてのYouTubeを選んでみました。
──東京オリンピックをめぐる混乱のなかでは、現代美術からの反応は少ない気がします。
こうした作品は国内の美術館やインスティテューションで簡単に展示できるものでもないと思うんですね。私の所属するかなりラディカルなコマーシャルギャラリーである無人島プロダクションなら可能でしょうが、これだけSNSが発達し、コンプライアンスが叫ばれるなかでは、「炎上」が企業や機関への直接の打撃になってしまう。美術館という公共空間で、批評性の高い作品が芸術として展示されることによって、社会的な芸術像が更新されることは大切ですが、同時にそこだけに頼ってしまうと、膠着してしまう。時にはスピードが求められますが、美術館などの大きな組織の時間軸では対応できません。そんななかで私が住んでいる首都圏に限って言うと、街のなかで芸術を展開していくChim↑Pomの手法や、そのChim↑Pomの卯城(竜太)さんらが始めたホワイトハウス、また歌舞伎町のデカメロンといったオルタナティブなスペースができてきたのはすごくいいことですよね。さらに相馬千秋さんを中心とした芸術公社のような演劇的な実践もあります。膠着しうる状況に対していろんなチャンネルをつくり、アートを活性化させる空間が社会には必要です。YouTubeもその一環だという気がしていて、もう少し可能性を探りたいですね。
軽やかに、柔軟に動けるアーティストという点では、私は高山明さんにも学んでいます。高山さんが展開してきた音声ツアーの作品は素晴らしいフォーマットで、音を聴くだけであれば、管理されずにどんな場所でも作品を立ち上げることが可能です。人が音楽を聴くことは取り締まれないので、どこにでも忍び込めます。美しいフォーマットですね。その可能性を高山さんは示された。その手法を借りています。
──今回の作品タイトルには「#2」とついていますが、シリーズとして続いてくのでしょうか?
このYouTubeで発表された《AntiDream #2 -聖火儀礼バージョン》は完成形というわけではなく、この「AntiDream」というプロジェクトの持っているポテンシャルの一部を見せているだけなので、今後、様々な国で展開することも可能です。例えば軍事パレードと合わせたら、また強烈なディストピアが立ち上がってくるでしょう。最終形はまだ想定していませんが、パンデミックとともにこの作品が発展していくイメージを持っています。
──コロナが収束しないかぎり、作品が展開し続けると。
はい。ですので、コロナが終わったら最終的にひとつの大きなプロジェクトとして完成するのかなと思っています。