芸術がつくり出す仮想現実
This is my body
This is my only body
This is my only body that I am trying to escape from.
私の体は、たったひとつしかない。その体は、この世に生まれて死ぬまで、私の体であり続ける。私はその身体から自由になることはできない。身体が致命的なダメージを受ければ、私は死ぬ。再起動はできない。
すべての人類、あるいは動物が必然的に受け入れてきた、生命と身体の有限性は、私たち生きる者にとってもっとも切実な、もっとも深刻な現実であり続けている。どれだけ多様なメディア開発によって人間の知覚能力が拡張され、人工知能が人類の生産性向上に貢献したとしても、人間が自分の身体を脱ぎ捨てて、別の身体に入り込み、不死身の身体や永遠の命を得ることはできない。それは「仮想現実」のなかでシュミレーションされる希望的フィクションでしかない。先日、韓国国立近現代美術館(以下、MMCA)で発表された小泉明郎による初のVR作品《サクリファイス》は、この厳然たる前提を再確認させられると同時に、自分の身体の知覚と感情が激しく揺さぶられる衝撃的な経験であった。
小泉明郎は、映像作家である。これまでのほとんどの作品が、撮影された映像を編集し上映するという形態で発表しているのだから、そう言って差し支えないだろう。そのいっぽうで、歴史や共同体の中で生成される、人間の身体的な経験や言語化不可能な複雑な感情を他者にも追体験させる試みは、私たちにきわめて演劇的な経験をもたらす。それは彼の主要な問いが、身体と精神、知覚と感情の関係性の探求にあるからだ。
極限状態に置かれた人間の身体と精神はどのような状態に引き裂かれるのか。例えば戦争という極限状態を加害者側から追体験することは可能なのか。2018年、ペレス・アート・ミュージアム・マイアミで制作された近作は、イラク・アフガニスタン戦争に従軍した米兵の視点を追体験させる映像作品だったが、今回MMCAの「パフォーミング・アーツ・フォーカス」の一環で委嘱制作されたVR作品は、同じ戦争をイラク側から描くという。
VR上演が行われる部屋は、いかにも美術館の展示室というニュートラルなホワイトキューブで、極端に高い天井のせいか、どこか浮遊する異空間のようだった。そこに6つの椅子が円形に配置され、VRのヘッドセットが用意されている。円の中心部にはケーブル類がまとめられ、その上には白いヤギの被り物がそれとなく添えられている。鑑賞者は、祭壇に捧げられた生贄を囲む厳かな儀式のように輪になって、真っ白い衣装を身につけたスタッフたちに指示されるままヘッドセットを装着する。ヘッドセット越しに知覚する世界は、現実のホワイトキューブの空間に、スタートまでの3分間カウントダウンされる数字が重ねられる。
カウンターがゼロになった瞬間、視界は突然、騒然とする街の中にトリップする。アラビア語の看板、幹線道路を行き交う車や装甲車、その間を縫って道を渡る人や兵士。クラクションやサイレン。道路の埃っぽさと排気ガスの匂い。照りつける中東の日差し。あたかも自分がそこにいるかのような感覚をすぐさま味わえるのは、VRの立体視と立体音響のなせる技だ。ここはイラク。そして、男性の声は、静かなアラビア語で語り始める。
誰かの家。懐かしさの漂う家。彼はそこにいる。私=観客は、彼に向かってゆっくりと近づき、映像の中に現れる作者=小泉自身の手によって、声の主である彼の視点と重ねられる。私は彼と一体化したまま、リビングに向かう。彼の呼吸、深呼吸が伝わる。大きなソファー。彼/私はその前の椅子に座り、あたりを見回す。そこには誰もいない。
彼はただ淡々と、子供時代を回想し始める。初めて学校に行った日のこと。両親や兄弟たちとの日常。突然アメリカ兵が村に、そして家に入ってきた日のこと。そして川辺で狩りをしに家族で出かけた日に起きた、おぞましい出来事。ここでは書き記すこともはばかられるような、一家虐殺の瞬間が語られる。懐かしいリビングに掲げられた、家族たちの写真。彼は嘆く。あのソファーに座っていた兄弟や従兄弟たちは、誰ももういない。アッバス、アラウィ、オマール、リアッド、アハメッド⋯⋯。
彼に重なった私はここにいて、彼らの名を呼ぶ。アッバス、アラウィ、オマール、リアッド、アハメッド⋯⋯彼らはもういない。その巨大な喪失感と、いまだに続くイラクでのISによる戦争の悲惨さを、これ以上背負いきれないという臨界点に達しそうになる瞬間、彼は私から離脱し、視界の目の前、というよりは、もはや身体的に不快なほどの近さで眼前にたち現れる。身体が合一するくらいの距離から、彼は私をじっと見つめ、語りかける。
「そのヘッドッセットを外して、僕を、ここから連れ出してください」。
実際にヘッドセットを外した瞬間、当然ながらそこはイラクではなく、美術館のホワイトキューブであること、彼はそこにいないこと、そして私はこの世界に私自身の身体とともにあることが再確認される。彼はそこにいない。そして私はここにいる。この安全な場所に。私はほんの40分間、ほかの5人の観客と輪になって、ただ椅子に座っていただけなのだ。
再起動できない身体、代理できない痛み
VRは、仮想現実と言われる。しかし私たちがこの作品を通じて経験するのは、「仮想」ではなく、あるひとりの、生身の人間の「現実」であり、その追体験である。通常VR技術は、現実を拡張するための技術、つまり私たちが見聞きし、知覚する現実をより豊かに経験するための技術と考えられている。その実用化の最先端は、ゲーム産業か風俗産業であり、通常の刺激では味わえない身体の拡張性、卓越性を経験するためにこそ技術革新が進められている。現実世界では達成されない身体的強靭さや性的快感。それがエスカレートすれば、現実世界では許されない殺人や強姦まがいの行為さえ、仮想現実として消費の対象となる危険性も高い。すべては仮想であるがゆえに、シュミレーション行為として許容され、エラーがおきても、何度もリセットして繰り返すことができる。その世界では誰も死なないし、誰も痛みを感じない。
しかし私が小泉によるVR作品を経験して逆説的に突きつけられたのは、このようなVR技術がもたらすものとは真逆の感覚、つまりエラーが絶対に許されない、生の一回性であり、その厳然たるはかなさと尊さであった。作品において、そして彼が体験した現実において、アメリカ軍による誤爆というエラーはすでに発生し、それによって失われた者たちは、生き返らない。肉体は破壊され、兄弟や従兄弟たちは二度とこの部屋に集うことはない。その計り知れない哀しみと嘆きが、私の身体に流れ込んできて、私の中にある懐かしい感覚、そして人生のなかで私なりに経験してきた喪失の哀しみと激しく合流する。
This is my body
This is my only body
This is my only body that I am trying to escape from.
「これは僕の身体。僕のたったひとつの身体。僕はこのたったひとつの身体から、逃れようとしている」。
逃れようとしても、逃れることのできない、たったひとつの身体。仮想現実が目指す方向性と真逆のことを、VRの中の彼は訴える。実際、いまこの瞬間にもイラクのあの部屋にいる彼は、決してそこから逃げ出すことはできないのだ。
こうして小泉は私たちをこの逆説の海に投げ込む。現実を拡張するための技術によって、現実が拡張不可能であり、代理不可能であることが明らかになる。小泉は極めて自覚的に、このVRの誘惑と危険性を、飴と鞭のように私たちの脳と身体に刷り込ませていく。私たち観客がVRという技術を使って「彼」の知覚に入り込んだはずなのに、いつの間にか「彼」は私たちの身体をのっとり、知覚を操作する。「彼」に指示されるまま、手のひらをゆらゆらと動かし、「彼」の手(の映像)に必死で重ねようとする。そして「彼」が去った後、私たちの身体は、意思の力によってそこから抜け出すことさえできなくなるのだ。
私の身体の中に流れ込んできた他者の知覚は、私を騙し、知覚と身体の接続のズレを生じさせる。ヘッドセットを外した瞬間、その違和感が一気に修正され、私は私であり、彼を代理することも、仮想することもできない、「ただの観客」の立場に引き戻す。私は彼の惨状を知りつつも、彼をそこから救い出すこともできない「ただの傍観者」なのだ。どれだけ技術が進歩しても、私たちは他者になることはできないし、他者の痛みを代理することはできない。
だが、小泉が問いかけようとしたことは、その鋼のように重く冷たい現実を認識してなお、他者の痛みへの共感を諦めない、根本的なヒューマニズムへの希求ではないだろうか。たとえアメリカ側の兵士が、ゲーム感覚でイラク人を空爆していたとしても、彼自身がのちにその従軍体験のトラウマに苛まれ続けているように、人間とその身体は、仮想ではなく、生身のものとしてある。そこには身体の、そして精神の痛みが伴うのだ。ゲームとしての仮想現実はその痛みを描かないが、芸術がつくり出す仮想現実には、その痛みこそを描くことができる。私たちは、自分の痛みを知るがゆえに、他者のその痛みを想像することができるし、だからこそ、許し合い、個々の痛みを乗り越えていくことができるはずだ。小泉が私たちの前に見せた「仮想現実」は、私たちが「ただの傍観者」であることを宣告すると同時に、「ただの傍観者」であることを超えていくための新たな知覚を、そっと、しかし鮮烈に私の身体に刷り込んだのではないだろうか。