架空の画家、ユアサエボシはなぜ現れたのか
──まず、今回の個展の作品もすべて描いたとされる架空の画家「ユアサエボシ」について教えてください
ユアサエボシは1924年、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスム宣言を起草した年に生まれました。尋常高等小学校時代に画家を志し、看板屋の絵描きの仕事をしながら、シュルレアリスムに影響を受けた作品を制作します。
戦後は進駐軍相手の似顔絵絵師や、紙芝居の着色といった仕事で日銭を稼ぎながら、前衛美術会に参加します。50年代にはニューヨークに渡りますが、ヘルニアを発症して帰国。その後もなかなか芽が出ず、最後はアトリエ兼自宅が全焼し、火傷の後遺症で1987年に亡くなりました。
──まるで実在したかのような詳細な経歴ですが、この「架空の画家・ユアサエボシ」という設定はいつから取り入れたのでしょうか?
架空の設定を使い始めたのは2017年ですが、僕がユアサエボシという名前を名乗り始めたのは13年なんです。つまり、ユアサエボシを名乗り始めた段階では、まだ架空のユアサエボシの経歴は設定されていなかったんですよね(笑)。
──なかなか複雑ですね。それではまず、13年にユアサエボシを名乗り始めるまでの過程をお聞かせください。
僕は普通の大学の経済学部出身で、卒業後は金融系の会社で働いていましたが、その会社が半年で倒産してしまいました。すべてを失ってしまったそのとき、昔から好きだった絵を描くことを突然思い立ち、画家になると決めてしまったんですね。
絵が好きだといっても、デッサン等をやっていたわけではないですし、美術の教科書にすごく惹かれていたわけではありません。むしろ、日本史の資料集に出てくる《伝源頼朝像》とか《洛中洛外図屏風》とか、そういったものに惹かれて、ノートの隅に落書きをするような子供でした。けれどもなぜか決めてしまった(笑)。
画家になると決めてから入ったのが、専門学校の東洋美術学校です。一般の学生と定年退職した年配の方がいっしょになって絵の勉強をするようなところで、試験もなく、最初の授業は鉛筆の削り方から教えてもらいます。そこで基礎は学びましたが、あとは独学というか、自分のやりたいように描いてきました。その後は、ギャラリーの存在なども知らなかったので、とにかく公募展に応募しては落選し続けるということを何年も続けていましたね。
そうしたなか、2013年に結婚して婿養子となったので、名字が変わって本名が「湯浅浩幸」になったんです。でも、さんずいが3つも連続するのに違和感があって、アーティスト名を新たにつけようと思い立ち、苗字の「湯浅」をカタカナにしました。名前の「エボシ」はお風呂に入っているときに直感的に思いついたもの。ユアサエボシを名乗り始めてから、不思議と賞に入賞しだして、第8回タグボードアワード(2013)の青山悟賞をもらうことができたんです。
──それまでずっと落選し続けてきたわけですから、受賞時の喜びは相当のものだったのでは?
嬉しいことには嬉しかったのですが、落ち続けていることが普通だったので、喜びというよりも自信がつきましたね。受賞作品は5✕5cmの《少年》という小さな新聞のコラージュ作品でした。サラリーマン時代、日本経済新聞を毎日読んていたのですが、白黒がはっきりとした新聞の写真をいいなと思っていて、それをコラージュ作品にしたものです。規定の大きさより遥かに小さい作品でも、見てくれる人は見てくれるということで、自信につながりました。
──その後の2017年、ユアサエボシに「大正生まれの三流画家」という架空の設定が加わったということですが、それはどういった理由からでしょう?
2017年に《GHQ PORTRAITS》という、150枚の瓦に米兵の顔を描いた作品で、第20回岡本太郎賞に入選しました。そのときに、「もし自分が過去に生まれていたらこういった作品をつくっていたのかもしれない」という設定をつくり、深めていきました。それがユアサエボシという、進駐軍に似顔絵を売って日銭を稼ぐ三流画家だったんです。
──実際に瓦に似顔絵を描いて進駐軍相手に売るという職業があって、その歴史を参考に設定を取り入れたということですか?
順序が違いますね。僕は基本的に欲求が先にあって、そこから設定を詰めていくという方法で制作をしています。だから《GHQ PORTRAITS》も、最初はただ「瓦に顔を描いたらおもしろいかな」という欲求があったんです。瓦をたくさん発注して、1950年代くらいのアメリカのイラストを参考にしながら、顔をずっと描いていた。そこからだんだん設定が生まれてきて、進駐軍の軍帽を描き、エイジング加工をして、と変化していきました。
あとあと調べていくと「きぬこすり絵」という、進駐軍のスーベニアとして、写真をもとに似顔絵を画家たちが描くという文化もあったので、瓦に描く人がいてもおかしくないと、歴史的な後づけができたんですけどね。
──ユアサさんは、当時の風俗や文化を綿密に調べたうえで架空のユアサエボシという設定をつくりこみ、そこから作品を生み出すアーティストだと思っていましたが、じつはつくりたいものが先にあるんですね。
そうなんです。まず描きたいものがあり、それから歴史を調べて、架空のユアサのプロフィールにつなげていく。最初から調べて設定してしまうと、説明的になりすぎる気がしていて、それは嫌なんです。つまり、架空のユアサというアーティストの実態は、現実の僕が知らない謎の部分がまだまだたくさんあるわけなんですね。
架空のユアサを設定することで、いままで自分が描いていた古臭い絵も、うまく文脈づけられるようになりました。それまではどうしても、現代美術としてやっていきたいけれど、自分の絵柄では文脈にそぐわないという部分がありましたから。
過去への興味が形成したユアサエボシ
──後付けされる架空のユアサの設定ですが、そこには現実のユアサさんが興味も持っている時代背景も投影されているということでしょうか?
そうですね。僕は、もともと有名なアーティストの作品よりも、昭和の無名の絵師による看板絵のような、時代の流れとともに忘れられながらも、のちに価値を見出される絵にすごく興奮する人間なんです。だから、自作にもそのタッチを取り入れています。
また、澁澤龍彦にも大きな影響を受けています。澁澤の本からシュルレアリスムを知って20年代のパリにも憧れましたし、当時、澁澤が活躍し、アングラカルチャーが花開いた50年代60年代の日本に僕が生きていたら、彼らと一緒に活動して、おもしろいことができたのかな、と妄想もします。それを架空のユアサに投影することで、満たされている気はしますね。
──ユアサさんがその時代にとくに惹かれる理由はあるのでしょうか?
例えば作家同士がちょっとしたことで殴り合ったりするような、社会は雑だけど活気がある、そういう雰囲気への憧れじゃないですかね。いまよりおもしろく、エキサイティングな時代だったんじゃないかなと思っています。
──新作個展「侵入するスペクトル」では、歴史上の人物であるフランシスコ・ザビエルや、様々な動物、あるいは『赤ずきんちゃん』のような昔話をモチーフとしたものなど、多彩な大型絵画を展示されています。架空のユアサはどのようなことを考えて、今回の出品作を制作したのでしょう。
架空のユアサが、どのくらい社会や歴史のことを考えて描いていたのかはわかりません。それは当時のほかの画家たちにも同じことが言えます。僕は小さいときから歴史の教科書で好きだった人物として、感覚的にザビエルをモチーフとしたわけですが、架空のユアサも案外それくらいの感覚だったのかもしれません。
今回の展覧会では各絵画に説明文をつけています。これには、美術館の作品につけられている定型化された解説に疑問を呈するという意味があります。
サビエルが描かれた《侵入するスペクトル》 の解説文は「(ザビエルが抱えている)灯台はザビエルが日本に来るまでにたどった冒険のような道のりを象徴し、光のスペクトルは後のキリスト教弾圧の歴史を暗示する不吉の象徴として描かれたとされているが、この解釈には疑問の余地が残る」と、疑問を呈するかたちで書いています。
絵画の解説文は、研究者の研究によって書かれたものだとは思いますが、画家としては、結構適当で感覚的に制作している部分もあるので、ある種の決まったかたちの批評に対して、疑問を提示してみました。
今回の展覧会の解説文は、全部描いたあとに考えたものですが、そもそも絵画の研究って全部アーティストが描き終わったあとになされる「後付け」だし、ある種の深読みや妄想でもあると思うんです。僕はそれを批判しているわけではなく、そこがおもしろいと思っています。美術の歴史のなかで、そういった妄想的なものが紡がれていることも興味深いですよね。
──技術的な部分でも、架空のユアサが生きていた当時のペインティングの技法を研究して参考にしたりしているのでしょうか?
当時のアカデミックな洋画家の手法ではなく、看板絵風の輪郭がはっきりしたパキっとした絵に仕上げています。当時の画法を研究しているというわけではなく、ただ好きで真似しているという感じです。好きな画風を使うために、架空のユアサエボシは10代の頃に看板絵師の仕事をしていたことになっています。このように、自分が影響を受けたものをたどっていくと、架空のユアサにたどり着くわけです。
──今後、ユアサエボシさんが、架空のユアサエボシによるものではない絵画を描くなど、別の展開をみせる可能性はありますか?
少なくとも架空のユアサエボシの絵の制作は、飽きられるくらいは続けたいですね。架空のユアサが特に絵画を描いた時期が1960年代から1985年までなので、25年分くらいは描き続けようかなと思っています。
現代美術への問いかけとして
──ユアサエボシという架空の人物の歴史が、今後もつくられていくわけですね。
僕が死んだあと、美術史に、僕の存在が疑われるようなエラーを残したいという欲望があるんです。僕、すごい嘘つきなんです。小学校の頃、弟と遊びに行ったら僕だけ帰ってきて「弟が車に轢かれちゃった」とか親に言ったり、図工の自画像を描く授業で他人の顔を描いて提出したり、とにかく嘘つきだったんです。多分、この嘘をつきたい欲望も、架空のユアサエボシを通じて作品に投影されている気がします。
──現代美術をやるうえでは、多くの場合、コンセプトを明確に定めることが求められると思いますが、ユアサさんは、架空のユアサエボシになりきったり、架空のユアサの設定を完全につくり込むことはなく、架空のユアサエボシと現実のユアサエボシを緩やかに併存させているのがおもしろいと思います。
いまとなっては、専門学校で絵を学んだことが良かったと思っています。世の中には、美大で鍛えられた、すごく社会的で真面目な映像作品をつくる現代美術のアーティストたちがいます。でも僕は、作品にもっとユーモアを入れたいし、嘘もつきたいし、ふざけたいと思っているんです。ステートメントを読んでも、みんなまじめすぎるんじゃないかと感じてしまいます。
公募展には落ち続けていたけど、根拠のない自信はずっとありました。同世代の絵を見ると、美術予備校の影響や、美大で教えている現役のアーティストの先生の影響を強く感じます。僕の行っていたような専門学校って、公募団体系の先生が多くて、そういう先生にとっての最先端って、ジョルジョ・モランディだったりするんですよね(笑)。そういった、現代美術の洗礼を受けない環境は、自分の作風をつくるためには重要だったと思います。
美術の歴史においては、現在活躍しているアーティストもやがて削られていって、ほとんどが消えていくわけです。架空のユアサエボシも、そういった消えていくアーティストを体現している気がします。いずれはみんな消えていくけれど、いい作品はどこかで埋もれている。そんなことをいつも考えています。
──今後は、どういった作品を描いていくのでしょう?
絹谷幸二賞を受賞した《女性工員》(2016)という作品があります。これを模写した12枚を、トンネルの中で蛍光灯で照らすという展覧会を、場所があれば開催したいです。複写はすでに8枚ほど終わっています。また、立体作品もつくりたいので、馬のブロンズの立体がそのトンネルに置かれるといいなと思っています。
架空のユアサは晩年、母親が死んだあとに、自分の過去作を写経のように模写する時期がありました。そこに置かれる馬の立体作品は、死んだ母なのかもしれません。展覧会が実現できれば、架空のユアサのそういったエピソードが追加されるでしょうね。
あと、架空のユアサは1924年生まれなのですが、これはアンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表した年でもあります。つまり、2024年はシュルレアリスム宣言100周年ですが、同時に架空のユアサエボシの生誕100周年でもあるので、ここに大きな個展をぶつけたいなと思っています。そのために、わりと大きめの作品をたくさん見せられたらと思い、制作を進めています。
──実在のユアサさんは、ある意味で架空のユアサエボシの研究者でもあるわけですが、架空のユアサエボシのディテールが深まれば、いずれ新たな研究者が現れてもおかしくないですね。
3月の初個展「プラパゴンの馬」(EUKARYOTE、2019)では、文筆家の小田実による架空のユアサエボシ評を、歴史研究者に協力してもらって発表しました。1958年にヘルニアになってアメリカから帰国する架空のユアサエボシが、寄港地のハワイでアメリカに向かう小田実と出会っていたという設定です。そのように、今後もほかのジャンルの方を、架空のユアサを通じて巻き込んでいけたらおもしろいですね
あと、日本の現代美術と公募団体のあいだには、ものすごい溝があるじゃないですか。でも「齣展(こまてん)」の前身が前衛美術会だったように、もともとはアヴァンギャルドな団体だったものもあるんですよね。いまでは現代美術と公募団体は分断してしまいましたが、架空のユアサを通すことでつながれないかと思っていて、実際に架空のユアサの作品を齣展に出そうと思っているんです。今後はそちらも巻き込みながら、新たな挑戦ができれば、もっとおもしろくなる気がしています。