文化やアートでメンタルヘルスを問い直す意義とは? 「マインドスケープス東京」の事例から

ロンドンの医療研究財団ウェルカム・トラストが「メンタルヘルス」を問い直す国際的なアートプロジェクト「マインドスケープス」。東京を舞台におよそ1年にわたり展開した「マインドスケープス東京」を統括アーティストとしてディレクションした菊池宏子をはじめ、参加者たちが活動を総括した。

文・座談会撮影=中島良平 会場協力=有楽町アートアーバニズム(YAU)実行委員会

 ウェルカム・トラストが「マインドスケープス」を立ち上げたのは、2020年のコロナ禍。外出や対面での接触が制限され、心の健康が重要視されるなか、「メンタルヘルス」を問い直す国際的なアートプロジェクトとしてスタートした。医療や科学の知見からではなく、アートや文化的なアプローチからメンタルヘルスの問題に取り組むこのプロジェクトでは、ベルリン(ドイツ)、ニューヨーク(アメリカ)、ベンガルール(インド)、東京(日本)の4都市それぞれで、アーティスト・イン・レジデンスや展覧会、ワークショップ、パブリック・プログラムなどが企画開催された。

 東京でウェルカム・トラストからアプローチを受けたのが、アートを触媒とする社会彫刻を実現すべく、地域再生や都市開発、教育などに携わってきたNPO法人インビジブル。クリエイティブ・ディレクターを務めるアーティストの菊池宏子が中心となり、企画運営に携わることを決めた。アメリカを拠点に高校生を対象としたプログラムなど多数のアートプロジェクトを手がけ、社会彫刻の理念の実践を試みてきた菊池は、財団からメールを受け取った際に「メンタルヘルスをテーマにこれだけの事業に携わり、アーティストとして何ができるのだろうか」という葛藤はあったという。

 「海外で暮らしてきてメンタルヘルスという言葉には触れていましたが、それが日本国内でどのように理解されるのかは未知の部分が多かったです。しかし、『マインドスケープス』の『メンタルヘルス自体の考え方を抜本的にもう一度とらえ直そう』という意識に強く惹かれて、引き受けることを決めました。学び合おうという仕組み、わからないことを立場や知識など関係なく、まっさらな気持ちで一緒に探求していこうというニュアンスで進められると感じられたことも、引き受けることを後押ししてくれました」(菊池宏子)。

菊池宏子
総括する座談会を取り仕切ったのが、NPO法人インビジブル理事長でマネージング・ディレクターの林曉甫。「昨今のソーシャリー・エンゲージド・アートのように、鑑賞して愛でる対象としてのアートから、社会により包括的に関わる文化芸術のあり方を考える必要」を「マインドスケープス東京」の活動を通じて再認識したと話す

ふたつのプロジェクトで生まれた多角的な対話

 「マインドスケープス東京」はふたつのプロジェクトを中心に構成される。ひとつは、アートや医療、法律、教育など様々な分野の専門家が参加し、メンタルヘルスについて学び合う対話集会である「コンビーニング」は、「ミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルス・クリニックになりえるのか」という問いに基づいて進められた。また、NPO法人インビジブルが新たな地域づくりに携わっている2011年の震災の被災地である福島県富岡町を会場に、被災者にとって「表現する」ことが「エンパワメント」になっている現実を共有するなど、メンタルヘルスとの向き合い方が年間を通して多角的に論じられた。

コンビーニングでは、精神保健福祉士、心理カウンセラー、看護師でもある研究者、弁護士など、様々な立場の専門家の話を聞く機会があった 撮影=冨田了平
2011年の震災の被災地である福島県富岡町で実施したコンビーニング 撮影=冨田了平
「富岡町に行ったことで、『被災地』というどこか遠い場所として他人事にはできなくなった」と話すアーティストの飯山由貴
インビジブルのインターンで、コンビーニングに参加した高校生の唐川麻祐子。「高校生など若い子の声は、社会であまり聞いてもらえない印象を持っていましたが、インビジブルでインターンとして働いていると、自分の意見も聞いてもらえている実感があります」。もともと人見知りだったという彼女は、インビジブルに参加して以降、人前で話すことにも慣れてきたと話す

 もうひとつが、都市の文化とメンタルヘルスの関係を調査する「UI都市調査プロジェクト(Urban Investigation=UI)」。2022年に小中高生の自殺者数が過去最多だったことが厚生労働省に発表されるなど、若い人々の心の健康について考えることは、現在取り組むべき重要な社会的な課題だ。菊池とインビジブルのメンバーは、「UI都市調査プロジェクト」の対象をユースに絞ることを決め、3つのテーマのプログラムを設定。上野千蔵(撮影監督・映像作家)率いる「映像」チーム、林敬庸(大工・建築家)率いる「日本建築」チーム、yoyo.(料理人)率いる「食」チームそれぞれに、オンライン授業を中心とする角川ドワンゴ学園N高等学校とS高等学校の生徒からユース調査員としての参加希望者を募った。

角川ドワンゴ学園 N高等学校・S高等学校の経験学習部という課外学習のプログラムを企画運営する部署にかつて所属し、在職中に担当した「UI都市調査プロジェクト」を継続して引き受けた富樫多紀は総括ミーティングにリモートで参加。「ユースとして参加する若い子たちにとって、目的や結果がわかったうえの予定調和で物事が進んでも面白くないと思うんですよ。そこを意識して進めることは大事だと感じました」
調査を通して作品制作を行う3チームとは別に、美術家、映像ディレクターの西野正将が「記録撮影」チームを率いた

 対話を重視した体験型の学びを目的とするこのプロジェクトでは、リード調査員がユース調査員たちに問いかけを行い、そこから生まれた言葉で制作の方向が決められていく。「映像」チームでは、上野が「“ふつう”ってなんだろう?」と問いかけ、メンバー同士で対話を重ねた。そして「お互いに触れ合える距離で見つめ合い、思いやる気持ちで撮影する」ことをルールに、互いの「ふつう」を引き出し合うインタビュー映像の撮影をすることになった。

 「日本建築」チームのテーマは、リード調査員の林が「安心して眠れる場所とはどういうものかを考えたい」という問いかけからスタート。「“究極の寝床”とは何なのか?」をテーマに、寝具メーカーや防災体験学習施設「そなエリア東京」、東京都現代美術館で開催された「ジャン・プルーヴェ 椅子から建築まで」などを訪れ、調査を実施。そして、ユース調査員それぞれが自身にとっての「究極の寝床」の模型を制作した。

インタビュー撮影の練習をする「映像」チームのユース調査員たち
建築倉庫WHAT MUSEUMで「建築模型展—文化と思考の変遷—」展(会期:2022年4月28日〜10月16日)を鑑賞する「日本建築」チーム。右がリード調査員の林敬庸 撮影=西野正将
「日本建築」チームのユース調査員が制作した「究極の寝床」の模型 撮影=西野正将
「日本建築」チームのユース調査員が制作した「究極の寝床」の模型 撮影=西野正将
韓国からの留学生で、インビジブルでインターンとして参加し、現在は大学に通いながらスタッフとしてアルバイトで働くイ・ユビンは「韓国の教育環境は画一化されている部分があるので、自分が高校生のときに『マインドスケープス』のような正解がない問いかけに向き合うプロジェクトに参加できたらよかったです」と話す

 そして「食」チームでは、リード調査員で新潟を拠点に野菜中心の料理をつくるyoyo.から、「現在、生産の現場は見えづらくなっているけど、誰かがつくったものを食べていることを忘れないでほしい」という話から対話をスタート。「“こころを扱う場”を求めて」というテーマで、鎌倉の市場やパン工房兼ショップなどのフィールドワークを行った。ユース調査員として参加した國田葵は、「学校のイベントで映画を見て、その後に映画監督の人と交流するようなリアルな体験の楽しさを感じ始めていたところだった」と、「UI都市調査プロジェクト」に応募した経緯を話す。 

 最終的に「食」チームが手がけたのは、「みそしる点前」のパフォーマンスとその記録映像。雑談のなかで味噌汁をテーマにすることが決まったという。

 「今日何を食べたかという話をみんなでしていたときに、何人かが味噌汁と言ったんですが、中国からの留学生でインビジブルのインターンのミミちゃんという子があまり味噌汁を食べたことがないことがわかったんですね。そうしたら、みんな家庭の味があったり、色々な具が入れられるし、という感じで盛り上がって、ミミちゃんに知ってもらう意味も含めて味噌汁をテーマにしようとなったんです。鎌倉でお茶の先生にお話を聞く機会もあったので、じゃあ味噌汁でお点前をしようと」(國田葵)。

 3チームの制作物は「MINDSCAPES TOKYO WEEK—アートと文化的な視点から考えるメンタルヘルスとは?—」と題する成果展で発表された(2023年2月20日〜28日、YAU STUDIO)。しかしそれでユース調査員の活動が終わりというわけではない。彼らのなかで生まれた対話から、「コンビジュ」という企画が生まれたのだ。「コンビニ」と「美術館」をかけたこの言葉。「夜の悩み、病みを軽減するためにある、コンビニのように気楽に行ける夜の美術館」というコンセプトからスタートし、どういった施設が必要なのか、当初のコンセプトを維持しながらもイメージは変化を続けている。その実現に向けて現在も定期的に有志のメンバーがミーティングを行い、統括アーティストの菊池宏子らが寄り添いながら話が進められているというから、実現にも期待が高まる。

「食」チームにユース調査員として参加した國田葵。「ひとつの話題について調査員同士で話したり、考えたりするだけでもメンタルヘルスにとって良いことだと感じるようになりました」
「みそしる点前」に使う味噌玉づくりの模様 撮影=西野正将

1年の活動を通じて得られた新たな視点

 コーディネートに携わった富樫多紀は、教育の現場で若者のメンタルヘルスに関わってきた経験から「何かしらの身体性を伴う共同活動」の重要性を「UI都市調査プロジェクト」を通じて改めて感じたと話す。

 「一緒にご飯を食べるとか、旅をするとか、横にいてぼーっとするだけでもいいんです。そういうことって、結局カウンセリングに10回通うよりも変化のきっかけになるという状況を目撃してきて、アートを通じてそうした共同活動ができる機会はとても意義のあるものだと感じています。正解を求めて点数をつけるだけの教育ではなく、そういった学び合いの場が教育現場に取り入れられるように活動を続けていきたいですね」(富樫多紀)。

「UI都市調査プロジェクト」の運営に携わったインビジブルの荒生真美。「同世代の子を持つ母親としての視点で正しい方向に行かせようとするのではなく、彼らなりのタイミングで動くのを待つことが必要だと気づくことができました」

 NPO法人インビジブルが主導した「コンビーニング」「UI都市調査プロジェクトとは別に、ウェルカム・トラスト財団が制作を資金助成する東京のレジデンシャルアーティストとして参加したのが飯山由貴だ。ドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマに新作を手がけ、昨年に森美術館で開催された「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」展で発表した。飯山は、開催から半年を経て、作品についてこう振り返る。

 「DV(ドメスティック・バイオレンス)に焦点を当てた作品を制作したのですが、展示の期間中には非常に多くの方からコメントをいただきました。人々の心のなかにある親密圏の暴力に関する経験や感情が、美術館という場で引き出されたのはよいことだと思った反面、匿名の観客としてコメントは出せたとしても、彼女ら彼らのコミュニティでは言葉にすることが難しいという事実を突きつけられました。親密圏での暴力を社会のなかで問題化し、政策に反映していくことが難しいことを実感しました。しかし、私たちにとっても、この社会にとっても、その経験を安心して言葉にする、あるいは表現する場所が必要であることは確かでしょう」(飯山由貴)。

飯山由貴《影のかたち:親密なパートナーシップ間で起こる力と支配について》(2022) Courtesy ウエルカム財団(ロンドン)、WAITINGROOM(東京)
「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(森美術館、東京、2022)の展示風景より 撮影=来田猛 画像提供=森美術館

 また、飯山は先述したように「コンビーニング」にも参加し、「マインドスケープス」の舞台となった4都市から関係者がベンガルールに集まり実施された報告会や、リサーチ活動にも加わった。ベンガルールで訪れたNIMHANS(National Institute of Mental Health and Neurosciences、国立精神衛生神経科学研究所)を訪れたときのことを次のように話す。

 「いわゆる精神病院だと思っていたらそれだけではなく、希望する人が安価にワークショップやカウンセリングに参加できる地域のコミュニティ・センターもあるんですね。事前に医師による面談があるので、場合によってはプログラムでなく医療につながることをすすめることもあるそうです。メンタルヘルスに対して医療として薬を処方するだけではなく、ワークショップなどで誰かと一緒にいる時間をつくることや、話すことが制度化されていることが大変な驚きでした。あるテーマについて患者と医学生がそれぞれに絵を描いたり、そうした試みを通じて、メンタルヘルスに関するトラブルをどうとらえたらいいのか、個人と医療者間でイメージが共有されている印象を持ちました。双方に対して、精神疾患についてのスティグマを減らすための役割もあるかもしれません」(飯山)。

NIMHANS中庭の様子 撮影=菊池宏子
NIMHANSで入手した会報を手に、インドでの交流を振り返る

 「マインドスケープス東京」にキュレトリアル・リサーチフェローとして参加したのが、日本学術振興会特別研究員の登久希子。文化人類学を専門とし、アーティストがどのように社会や文化的な問題と向き合い、そこにアプローチしていくのかを研究してきた登は、各都市の担当者との連携や連絡調整、レポートの執筆などを担当した。年間の活動を通じて、ウェルカム・トラスト財団のメンバーが「アートと医療や科学は結びつくものなんだと、示さなければならない」と繰り返し強調していたことが印象に残ったという。

 「イギリスでは、アーツ・イン・ヘルスなどの概念が確立されていて、医療とアートの結びつきは前提として認められているのかと思ったら、そういうわけではなく、働きかけを続けることでその状況が維持できているということを知り、すごく驚きました。私もフィールドワークを続けながら、アートとアート以外の分野の結びつき、その意義を証明し続けていく必要を強く感じました」(登)。

日本学術振興会特別研究員の登久希子

今後はどう前に進んでいくべきか?

 ウェルカム・トラストから委託された「マインドスケープス東京」は1年でひとまず終了したが、それは、メンタルヘルスとアートの関係を追求する活動の始まりの終わりに過ぎない。これから続けることの重要性を菊池と林が語り、1年の活動が総括された。

 「アートや文化がメンタルヘルスに関する課題解決や具体的な治療につながるかというと、正直言ってまだ断言できません。ただ、今回の経験を通じて、これらの視点が予防につながる多彩性を受け入れるコミュニケーションの場の創造に不可欠だと実感しました。これからもっと、私自身が学ぶべきことがたくさんありますが、様々な分野の専門家や研究者、そして今回のユース調査員のような若い世代とともに、サイエンスとアートの結びつきを追求していく必要性を感じています。この活動には多くの方々が共感してくださったこともあり、前向きな気持ちでいますが、分野横断への壁の厚さも学びました。本来心の課題は誰にでも存在するはず。だからこそ、『アート』的な思考があるからできることがあり、私はその実践に向けて段階的な仕組みづくりに取り組んでいきたいです」(菊池)。

 「インビジブルでは福島県富岡町に活動拠点を設け、富岡小中学校内にプロフェッショナルな転校生を招聘する『PinSプロジェクト』をはじめ複数の事業に取組んでいます。富岡町に暮らすひとりとしても、福島第一原子力発電所事故から12年が経過したいま、富岡町や浜通りの暮らしには、もっと多くの遊びや、様々な物事を楽しみながら学び続けられる社会環境が必要だと感じています。とくに、人間関係をより豊かなものにし、同時に様々なことに好奇心を広げ、この地域のいまとこの先を考えていくためにも、いままさにこの地域にはアートが必要だと強く思っています」(林)。

林曉甫と菊池宏子

編集部

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