会場変更を余儀なくされた 「表現の不自由展」
6月25日から東京・新宿区のギャラリーで開催される予定となっていた企画展「表現の不自由展・その後 TOKYO EDITION+特別展」の会場で妨害行為が続いているとして、同企画展の実行委員が10日、都内で緊急記者会見を開いた。
この企画展は、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で抗議が殺到し中断された企画展「表現の不自由展・その後」を再構成した内容だという。これが妨害行為によって展示会場の変更を余儀なくされているという。
記者会見を行った実行委員会は、移転先や会期は調整中で入場予約の受け付けも当面停止するが、企画展自体は中止せず、会場を変えて続行する、「不当な攻撃に屈せず、法的手続きを含め断固対応する」との決意を述べている。
会見を報じた報道によると、告知後から妨害メールや電話が会場に届くようになり、6日からは会場前で街宣活動が見られるようになったという。普通車で抗議に来る人もおり、「神楽坂の風紀を乱すな!」「場所の貸し出しをやめろ!」「開催を中止しろ!」と抗議する声が続いた。このため、8日、同会場のオーナーから「このギャラリーでやらないでほしい」と実行委員会に伝えられたという。
実行委員会は、今後、「度を超えた攻撃や、犯罪に値する攻撃があった場合は刑事告訴、告発などの法的手続きを含め検討する」としている。
この種の妨害がまた繰り返される可能性はある。そのとき、当該の妨害をやめさせる必要があるのと同時に、2019年の秋冬にかけて起きたような講演中止や絵画や書の撤去要請など、萎縮のドミノが起きることを防ぐ必要がある。
筆者は、妨害者の音声を録音した音源を一部、聴くことができたが、そこでは「死ね」「殺す」「ガソリン持ってお邪魔する」など、明らかに脅迫にあたる言葉は聞き取れなかった。また妨害者は、企画展が予定されていたギャラリーの敷地内には足を踏み入れておらず、敷地外の路上から「やめろ」という怒声を上げ続けていた。途中からラウドスピーカーの使用をやめて生声での怒号に切り替えたという。
ここからすると、妨害者は法に抵触することを周到に避けているように見える。しかしすでに決まっている作品展示に対して「展示をやめろ」と命令口調で執拗に叫ぶ言葉は、「強要」にあたる。さらに被害者の生活や精神の平穏を害している点で、人格権の中の「平穏生活権」を侵害している。こうした妨害は「表現の自由」の名のもとに放任されるべきものではなく、法的救済の対象となるべきものである。
警察の対応のアンバランスさ
こうした場面で警察の動きが鈍いことは、2019年の「あいちトリエンナーレ2019」のとき時にも指摘されていた。憲法上の「表現の自由」からは、警察の実力行使は最後の手段としてほしいと思うが、それでも複数のケースを視野に入れて俯瞰したとき、警察活動がアンバランスな状態になっていることは指摘しておく必要がある。
東京都には迷惑防止条例があり、公園や路上での音楽演奏など、まったく攻撃性のない表現活動が、近隣住民の苦情さえあれば簡単に警察によって止められている。また市民団体が自衛官の官舎の郵便受けにビラを入れた例では、警察はこの市民団体メンバーを住居侵入で逮捕し、裁判でもこれに有罪判決が下されている。また、近年問題となった選挙演説へのヤジ排除事件を見ても、沖縄で起きた基地建設反対運動への実力排除を見ても、市民が「やめろ」と叫んだり付近の路上に座り込んだりする表現に対して、警察が実力行使をしている。札幌地裁が言うように、こうしたことが警察力の行使として「許容される」(2020年11月27日札幌地裁判決)のであれば、美術ギャラリーに対する怒号妨害について、警察の力を借りて排除することができないというのは、均衡を欠く。
憲法上の「表現の自由」に照らしたとき、上記の例はどれも、警察の実力行使によって排除されたり逮捕・起訴されたりすべきではない事例と考えられるので、これを根拠にして「今回もそれをやるべき」とは言えない。ヤジ排除事件や沖縄での「ゴボウ抜き」、自衛官舎ビラ事件については、本来憲法21条がもっとも保護すべき政治的言論であると同時に、憲法16条「請願権」から見ても、尊重されるべき言論だったからだ。
これに対して、閑静な住宅街の中にある個人経営のギャラリーに向かって、予定している行事を「やめろ」と連呼することには、そのような公共的要素がない。このケースでは、警察職員は、政府筋から特別に「実力行使もかまわない」というお墨付きをもらってはいなかったので、原則どおりに自己抑制していたのだろう。法的には現場の裁量の範囲内ということになるが、しかし札幌や沖縄や立川で起きた事例との比較で見たとき、動くべきときと自己抑制すべきときの逆転感は、否めない。
民事で訴えるとしたら
企画主催者またはギャラリーは、民事裁判に訴えることができる。民事裁判は、当事者が裁判を起こすことを選択して初めて裁判となるもので、法律は、「こういう主張をしようと思えばできる」という道具を提供するにとどまる。その前提で話を進めるが、ここでは、(1)妨害を受けたギャラリーが妨害者を訴える道、(2)企画主催者が妨害者を訴える道、(3)企画主催者がギャラリーを訴える道が考えられる。
(1)と(2)については、度を越した妨害が繰り返される場合には、その妨害を止めてもらうための差止め請求ができる。ここでは京都朝鮮学校へのヘイトスピーチについて街宣禁止および損害賠償支払いを命じる判決が確定した裁判が参考になる(最高裁第3小法廷2014年12月9日決定)。
今回、企画展主催者は展示を続けるという意思を持っている。新しい会場でも妨害が繰り返されるようなら、接近禁止の命令を裁判所が出すべきだ(しかしこのようなケースでは、妨害者の特定に時間がかかるという現実的ハードルがあるに違いなく、これも妨害被害を受けた側の重荷になってしまう)。また、この妨害があったために他の場所を探さねばならなくなったわけだから、これにかかる手間や金銭的損害、そして精神的損害は、妨害者に対して請求できるはずである。さらに近年のSNS誹謗中傷裁判の進展から考えれば、このような裁判を起こすために妨害者特定にかかった費用も、妨害者に請求できる、とすべきだろう。「会場運営者に怒声を浴びせて追い込めば、気に食わない表現を排除できる」という成功体験を、これ以上妨害者に与えることは望ましくない。そうした成功には代償が伴うことを知ってもらうという意味で、損害賠償ペナルティを求めることには意味があるのではないか。
(3)は、会場の貸主が契約後に場所の提供を拒んだことについて、企画主催者が会場を訴えるという線である。これについては、ニコンサロン慰安婦写真展中止事件がある。ここでは会場側に正当な理由があったとは認められず、会場側が損害賠償支払いを命じられている(2015年12月25日東京地裁判決)。しかし今回の「表現の不自由展」では、主催者である実行委員会は、ギャラリーの運営者が嫌がらせによって憔悴している事情に歩み寄り、このタイプの法的問題にはしないようである。
今回のように具体的な妨害を受け、精神的に疲弊してしまった場合には、会場運営者(ギャラリー)の判断に正当な理由があると認められるだろう。とくにギャラリーがオーナーの住居と一体になっている今回のケースで「脅しに屈してはならない」「萎縮してはならない」と当事者に強制するのは酷に思える。
ただしこれが公立の美術館やホールだった場合には、あと一段「頑張れ」と言うべきことになる。公共の会場が会場提供を拒否できるのは、よほどの具体的危険がある場合に限られる(泉佐野市民会館事件、最高裁1995年3月7日判決)。「あいちトリエンナーレ2019」では、芸術監督・津田大介氏と愛知県知事とが「不自由展」の一時中止に踏み切ったが、これは法的にはこの観点から「やむを得ない判断だった」と言えるだろう。
表現活動は、様々なアクターの連携によって成り立つもので、表現者(企画主催者や作品の作者)がギャラリーや映画館を訴えなければならなくなるという事態は、表現者自身にとっても悩ましいものだろう。会場関係者を精神的に疲弊させ追い込む妨害行為というものは、こうした表現活動者同士の連携関係をも壊す可能性のあるもので、このことがまた「表現の自由」にとって深刻なダメージとなる。この局面で芸術家たちが、社会的連携を保つために相当の努力を引き受けていることも、社会にもっと知られてほしいと思う。
萎縮の連鎖を止める社会環境を
ギャラリー側が展示引き受けを降りたいと判断した場合、これは形式的には自発的な判断だが、それはこれ以上の被害を受けたくないという萎縮による判断、余儀なくされた判断である。このような「追い詰め」は、強要罪や平穏生活権侵害という線で法的問題にできる。しかしどの線も、被害者が決断することが必要で、この決断は法によって強要できるものではない。
そのいっぽうで、私たち市民の側でも、こうした萎縮が起きやすい社会的精神的環境について考える必要がある。ここからは法律論を超えることになるが、「表現の自由」を守るためには、土壌のほうが重要なのである。
こうした出来事があったときに、妨害者の側ではなく展示をしようとした表現活動者の側にたいして「そういう騒ぎは当然に予想できたことだ(自己責任だ)」という冷ややかな語りが見られる。2019年の8月に「あいちトリエンナーレ2019」についても、この種のコメントはかなりあった。それはそれで間違ってはいない、賢いコメントではある。しかし筆者は、「表現の自由」論者の発言としては、それで何かを言った気分になってはいけないと思っている。
今回のケースでも、また最近起きた映画『狼をさがして』上映中止の件でも、ギャラリーやシアターが近隣に迷惑をかけたくない、という心情を述べていると伝えられている。こうしたときに、妨害に拮抗するだけの《支える空気》があるかどうかが、重要な分かれ目になるのではないか。
攻撃的・排撃的な言葉を執拗に浴びせかけられると、ターゲットにされた被害者は、「世間一般も自分をそう見ているのだろう」という四面楚歌の気持ちへと追い詰められやすくなる。そういうときに周囲が「予想できたことでしょう」と言うだけで傍観していると、当事者には「やめておけばよかったのに」という冷やかな空気として感じられてしまう。
このようなとき、社会が、その作品への個人的好き嫌いや政治的見解とは別のこととして、「表現の自由」を守ろう、不当な妨害をするほうが悪い、と言える社会でありたい。
支える土壌の立て直し──共有すべきものは
この種の出来事には、先に見てきたとおり、法的にいくつものアプローチ方法がある。その中で、先の「あいちトリエンナーレ2019」では、これは「検閲」に当たるか、という論点が突出した。筆者にメディアからの取材があってもまずこの質問にイエスかノーかで答えるところから始めなければならず、ここで「違う議論の立て方をしたほうがいい」と答えた私の話に時間を割いて耳を傾けてくれた記者は、当時は、ごく少数だった。この論点にどう答えるかが「友か敵か」を見分ける旗印のようになってしまったために、「表現の自由」を擁護しようとしていた論者で「友」の範疇から切り落とされてしまった人がいるように思われる。これが被害を受けた当事者の孤立感、四面楚歌感を深める一因となっているとしたら、もったいない。
ここで、その関係を立て直すためにも、議論を立て直すことを考えてもいいのではないか。こうした出来事を前にしたとき、「表現の自由」という論域で、共有すべきものは何だろうか。何をもって「友」と認知すべきだろうか。
「表現の自由」を擁護するということは、どれか好きな作品を擁護するということをいうのではなく、《表現の空間》における平等な自由を擁護する、ということをいう。スポーツでいえば、テニスのコートやスケート競技のリンクを守る、ということを意味する。たとえばスポーツで、誰かが競技用のコートやリンクに汚物を撒き散らして競技が行えない状態にしたとしたらどうだろうか。観戦者は、どの競技者を応援しているかという立場の違いを超えて、この荒らし行為に腹を立て、やめるように望むだろう。スポーツを愛する者同士の共通の基盤として、フェアな空間の確保を望むだろう。
「表現の自由」の考え方も、これと同じである。「平和の少女像」や天皇コラージュ作品を作品として高く評価するか、「表現の不自由展」に高い社会的意義を感じるか、という問いのすべてについて「イエス」とは答えない人がいるとしても、「それを《表現の空間》から排除するべきではない」と答える人は、「表現の自由」を守るという関心においては「友」だということになる。
社会の側に、この意味での「表現の自由」を理解し、ともに守ろうという気概が共有されてほしいと願う。とくに芸術表現が社会の中で成立するためには、それが必要である。これが社会の基礎体力を守ることにもなる。今回のケースが社会に萎縮のムードを拡散させる結果にならないように、このことを確認しておきたい。