4. 補助金不交付決定は違法か?(論点整理)
4-1. 補助金適正法6条1項に係る違法事由の認否に関して
訴訟等で問題となるであろう(本件補助金不交付決定が違法なものか適法なもの関する)主たる論点について簡単に整理することとしたい。
取消訴訟(や不服申出)の本案では、主として、補助金適正法6条1項に係る違法事由の有無が争われることになるだろう。
最近の新聞報道を見る限り、憲法21条1項(表現の自由)や憲法14条1項(平等原則、平等権)等との関係で、補助金不交付には問題があると評するものが多い。これらの憲法の条文は、基本的には補助金適正化法6条1項に係る違法があるかどうかを判断する過程で登場するものと位置付けられるものとなろう。ゆえに、今回の事態を冷静に分析するためには、まずは文化庁の示した理由を行政法の観点から丁寧に読み解く必要がある。
補助金適正化法につき検討すると、同法6条1項の事業内容の「適正」さの要件(あるいは同項の「等」の要件)やこれと関連する同法施行令3条1項3号の事業の「遂行に関する計画」との関係、加えて同法施行令3条2項4号が事業の「効果」に関する書類の提出を求めていることに照らすと、文化庁の示している[1]事業の内容が「実現可能な」ものか否か、[2]「継続が見込まれる」ものか否かが、事業内容の「適正」さを判断するための一要素となりうるものであり、これらが文化庁の審査項目となるという理解が(一応)成り立ち得るものと考えられる。
文化庁は、形式的に見るかぎり、展示される作品がどのような内容なのか(芸術的価値等)については審査しておらず、同法6条1項の事業内容の「適正」さ(あるいは同項の「等」)の要件との関係で、[1]実現可能性および[2]継続の見込みがあることに関する申請書の記載や添付書類が十分なものではなく、追加的な記載や書類の提出等もなかったために「申請手続において、不適当な行為」があったと評価し、「適正」な事業かどうかの要件の判断が十分にできない申請がなされたと評価したものと考えられる(*14)。
すなわち、文化庁の示す理由によるかぎり、有識者により採択基準に適合するものと判断された点自体を文化庁が再度審査して補助金交付がNGであるとしたわけではなく、これとは一応(多少の関連はあるだろうが)別の観点(事業が実現でき、その継続が不能・困難となる自体が生じないかという点)の審査項目の充足性を申請書等からは十分にチェックできなかったものとしているわけである。
このようなことから、文化庁としては
(A)同法5条の申請書(の記載)と添付書類(やこれらに関する申告)が不足していた(申請に係る形式上の要件を満たさない)として申請を却下した
あるいは不足していなかったとしても
(B)「適正」の要件を満たさない(実質要件・実体的要件を満たさない)事業であるとして申請を拒否する判断(申請拒否処分)をした
ものといえよう。不交付処分と同時に文化庁が示した理由からは(A)か(B)かは必ずしも明らかではないようにみえるが、この点は、遅くとも訴訟等の段階において明らかになってくるだろう。おそらく国側(文化庁)としては、訴訟等において(A)ではないとしても(B)である旨を主張してくるのではなかろうか。
まず、上記(A)「申請書の不足から却下」から検討すると、申請の形式上の要件とは、申請が有効に成立するために法令において必要とされる要件のうち、当該申請書の記載、添付書類等から外形上明確に判断し得るものをいう。それは、法令の規定する実体的要件の判断のために不可欠とる必要最小限のものに限られると解されるところ(*15)、文化庁としては、[1]事業内容の実現可能性や[2]継続の見込みに関する事項(例えば事業実施時点に予想される混乱についての対応)につき申告すべきであったとしている。
しかし、係る事項が同法6条1項の規定する実体的要件の判断のために不可欠となる必要最小限のものといえ、申請の形式上の要件といえるか否かが論点・争点のひとつとなるだろう。
次に(B)「適性の要件を満たさない」を検討する。[1]事業内容の実現可能性や[2]継続の見込みの判断は、芸術的の価値の判断ではなくトラブルが起こるリスクに関するものともいえるため、必ずしも採択の審査を行う芸術の専門家(有識者)の判断に馴染むものとはいえず、むしろ文化庁職員側の判断に馴染むものといえるという立場もありうるところであろう。
この点に関し、今回の芸術祭では有識者からなる審査委員会がその企画を審査し採択したにもかかわらず、文化庁が補助金の不交付決定を審査委員会の有識者と無関係に行った点を批判する意見がある(*16)が、この意見は、[1]事業内容の実現可能性および[2]継続の見込みの判断が、芸術の専門家の判断に馴染むものであることを前提とするものと考えられ、このような前提に立つのであれば、不交付処分が違法とされる可能性がある。同法6条1項の「適正」や「等」の点に要件裁量があるとしても、判断過程が不合理なものとされる結果、裁量権の逸脱濫用(行政事件訴訟法30条)の違法が認められよう。
もっとも、前述したとおり、そもそも芸術の専門家の判断に馴染むか否か自体が争点となることが予想されることから、原告側としては、仮にこれらの判断が芸術家の専門的判断ではなく、文化庁職員側の判断に馴染むものといえる場合であることを前提としても、原告側に有利な主張を述べておく必要があるだろう。
ここで、同主張を基礎づけるものとして参考になりそうな最高裁判例(ただしそれぞれ補助金不交付処分の事案ではない)は、上記要件裁量(*17)がある程度広いものとされる場合には最三小判平成18年2月7日民集60巻2号401頁(呉市学校施設使用不許可事件)であり、裁量が狭いものとされる場合には最三小判平成7年3月7日民集49巻3号687頁(泉佐野市民会館事件)と最判平成8年3月15日民集50巻3号549頁(上尾市福祉会館事件)であるものと考えられる。
例えば、呉市学校施設使用不許可事件の判示に照らすと、申請時点で脅迫や抗議等が予期しえた点を過度に考慮・重視して文化庁が補助金不交付処分をした判断過程は、考慮事項に対する評価が明らかに合理性を欠くものであるとして、裁量権の逸脱濫用が認められるといった構成が考えられよう(*18)。
なお、脅迫はともかく、申請時点で抗議等が予期しえたことにつき、文化庁が調査権限(あるいは行政指導)を行使しえたにもかかわらず、それを懈怠(けたい)したことから審査事項を考慮できないこととなった(ゆえに考慮不尽が認められ、判断過程が不合理であり、裁量権の逸脱濫用の違法が認められる)という原告側からの主張も予想されるところであり、この主張の認否も争点となるだろう。
また仮に、補助金適正化法6条1項の要件との関係で[1] 事業内容の実現可能性や[2] 継続の見込みが考慮事項となるとしても、今回のような考慮に基づく判断は「異例の対応」であったことから、不合理な(合理的な理由のない)差別であり、平等原則に違反し、裁量権の逸脱濫用が認められるのではないかが、さらに争点のひとつとなるだろう。
なお、前例がない(あるいはほとんどない)理由によるという点から、権限の濫用ないし動機の不当性が認められる余地もあろう(*19)。
ところで補助金適正化法6条1項は、「申請に係る書類等の審査及び必要に応じて行う現地調査等により」と規定していることから、文化庁は補助金を交付するか否かの審査に際して「調査」を行う権限を有していることが読み取れる。
そうすると、同審査に際して文化庁としては、今回の芸術祭の全体の経費等や展示スペース等のうち、「表現の不自由展・その後」の経費等や展示スペース等がどの程度の割合を占めるものであったのかという点につき、比較的に容易に調査(講学上の行政調査)しえたと思われる。またそのための調査権限を行使すれば、少なくとも全額不交付とせず「表現の不自由展・その後」の経費等を考慮した分を除いた一部の補助金交付をするという処分もできた(本稿は、このような処分をすること自体の当否を論じるものではない)ように思われる。
あいちトリエンナーレ2019の総事業費は10億8824万円であり、「表現の不自由展・その後」分は420万円であることから(*20)、不自由展は全体の1パーセント未満(約0.39パーセント)であった。にもかかわらず、上記のような調査をしなかったことにより、このような割合を考慮することなく補助金不交付の判断を行った過程は不合理であるとして裁量権の逸脱濫用が認められる余地はあるものと考えられる。また、同項に基づく調査権限があるということは、文化庁としては、上記割合に関して申請人(愛知県)側に申告するよう促す行政指導をする権限を有していたと考えられるため、同様にこの行政指導の不行使に係る違法も問題とされうるだろう。
このように、訴訟等では補助金全額を不交付としたことについての調査義務の懈怠に基づく違法性の認否が争点のひとつとなることが予想される。なお、一部の問題につき全額を不交付とするのは比例原則との関係で問題があるという考えもあるのかもしれない。しかし本件のような給付行政の場面では、通常規制行政の場面で登場する比例原則は、普通は問題になりにくいように思われることから、やはり上記のような調査権限行使の懈怠(調査義務違反)の点を検討する必要があるように思われる。
4-2. 権限不行使による違法(国家賠償法1条1項)に関して
国家賠償請求訴訟では、国家賠償法1条1項が規定する「違法」性要件との関係で、公務員が負担する「職務上の法的義務」(*21)あるいは公務員が「職務上通常尽くすべき法的義務」(*22)の有無やその懈怠の認否が争われることから、取消訴訟よりもストレートに、調査権限の不行使あるいは行政指導の不行使に係る違法性が問題となるものと考えられる(*23)。また国賠訴訟であれば、前述したとおり、一部認容という可能性もある。
4-3. 憲法等の位置づけ
最後に、補助金適正化法に係る違法事由(裁量権の逸脱濫用)と、憲法や文化芸術基本法等の関係法令との関係につき、若干の説明を加えておくこととする。
補助金適正化法6条1項に基づく不交付処分の要件につき、要件裁量が認められることについてはすでに述べた。このことに関し、行政裁量の認否・広狭(範囲)を検討するに当たって考慮される要素・事項は、論者によって若干のニュアンスの違いはあるものの、
(あ)処分の目的・性質、対象事項(許可か特許かなど)
(い)処分における判断の性質(政治的政策的、専門技術的判断等が要求されるか)
(う)法律の文言・処分の根拠法規の定め方等
の3つ(3要素)であり、このうちのひとつだけで判断すべきものではなく、総合的な判断が必要とされる(*24)。
そして、(あ)処分の性質に関しては、当該処分において衡量・調整される関係利益のウェートが考慮されるものとなると考えられる(*25)ところ、行政関係争訟の実務においては、基本的には、この関係利益(本件では愛知県の補助金の交付を受ける利益)がより重みを増すこととされる(重視されるべき利益とされる)ための理由のひとつとして、表現の自由(憲法21条1項)の保障を「実質化」(*26)すべきことが述べられるべきこととなるものといえよう。また、判断過程における考慮事項をどの程度考慮・重視すべきかという点との関係で、表現の自由保障を実質化すべき(ゆえに原告側に有利な各考慮事項の重み付け等がなされるものと解すべき)旨の主張が展開されることとなろう。
ちなみに、文化芸術基本法の前文や関係条項から同様の主張をすることも考えられる(「『具体的な規範が必要』。弁護士・水野祐に聞く文化庁補助金不交付の影響」参照)。
また憲法14条1項も、すでに述べたとおり、裁量統制のための審査手法のひとつとして登場するものといえる。
このように、憲法の条項(表現の自由を規定する21条1項等)は、いわば補助金適正化法6条1項という行政法規(行政裁量)の「中」で作用するものとみられ、結局のところ、補助金適正化法という法律の解釈・適用をするに際して登場する(に過ぎない)ものといえる(*27)。そのため、補助金適正化法の解釈を離れて、別個独立に憲法論を展開することは、現在の裁判実務では(現実に県が勝訴するには)、ほとんど意味がないことのようにも思われる。
なお、表現の自由がストレートに妥当する場面ではないことを前提に表現への助成に関する「国家の中立義務」の問題として本件をとらえようとする意見もみられるところである(*28)。しかし、国家の中立義務の問題であるというには、表現に対する補助金等の助成措置を講ずると決定した後の場合であることが必要である(あるいは少なくともそのことが重要な要素である)ものと考えられるところ(*29)、本件は補助金交付の申請に対して交付しないという処分がなされた事案であり、交付処分が取り消された(補助金適正化法17条1項の)事案ではないから、助成措置を講ずると決定した後の場面ではなく、形式的には同決定前の場面であるといえよう。
そうすると、本件を「国家の中立義務」の妥当する事案としてとらえるためには、補助金交付に関する採択があったことや、この採択は交付処分のいわば内定通知ないし内示としての性質を有するものと解されること(*30)、ゆえに実質的にみれば助成措置を講ずると決定した後の場合と同視しうることなどを主張する必要があるように思われる。
ちなみに、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行の河村たかし名古屋市長は、会見で「表現の不自由展・その後」の展示内容につき、事前に市側に十分な説明がなく、故意に隠されていた可能性があると主張し、検証が必要である旨述べており、芸術祭の市の負担金約1億7100万円(うち約1億3720円は支払済み)の未払い分3300万円は2019年10月18日に支払う予定であったが、「当面」は「保留する」ようである(*31)。
未だ事実関係が十分に明らかではないように思われるところではあるが、こちらの名古屋市の負担金の話の方が、文化庁の補助金不交付決定よりも、上記の「助成措置を講ずると決定した後の場合」と言いやすいように思われる。
以上、補助金不交付決定は違法か?という問題に関する論点整理を試みた。各論点・争点に対する私見は基本的には示していないが、これについては今後別稿で論じる予定である。