昨今、すべての消費はますますアルゴリズムに左右されている。例えば、筆者が音楽を聞くとき、YouTubeは自分の好みに合わせて自動的に流してくれるし、本を買うのはAmazonがススメてくれたから。もはや何を消費したらいいのかという心配に悩まされる必要がない時代になっているのだ。これはこれで便利なので、文句は言わない(言おうとしても誰も聞いてくれないだろう)。しかし、すべてが徹底的にキュレーションされながら秩序づけられてゆく社会の中で、無秩序に伴う自由はどこにあるのか、そしてあったらどんなかたちをしているのかということを考えたくなる。この自由はもしかしたら、老朽化したアナログ世界(対デジタル世界)の旧消費制度の隙間──アルゴリズムにカスタマイズされることのない場所に現れているのかもしれない。以下、赤瀬川原平や藤森照信らが設立した「路上観察学会」の思想を補助線としながら、BOOKOFFに置いてある洋書の(無)意味について考察していきたい。日本語の本とは異なり、ジャンルなどによって分類されていない、カオスの味が濃いこの洋書コーナーこそ、現代のアジールを体現しているのではないか。
洋書コーナー=言語の「仕切り場」
「路上観察学会」は1986年に、赤瀬川原平や藤森照信、南伸坊などによって設立された。彼らは、今和次郎の「考現学」(*1)の影響を受け、そして赤瀬川の「超芸術トマソン」(*2)という理論を踏まえながら日本中を歩き回り、日常的な風景に現れる無用かつ面白い「物件」を見つけようと試みた。この実践には、60年代の反芸術運動やハイレッド・センターに関わった赤瀬川の問題意識、すなわち、どのように、自己表現(作家性)を消滅させられるのかという意識が読み取れる。ジャンク・アートからパフォーマンス・アートを経て、「超芸術トマソン」に至った赤瀬川はこの変化に関して次のように述べるてい。「ここに至って芸術というものは、空間と物体と人間の生活世界全域にその姿を没した。残されたのは、その生活世界全域を見る目つき」(*3)。つまり、芸術はもはやつくるものではなく、見つける自然発生的なものとなったのだ。この試みは、美術という制度や作家性などを完全に拒んでいるという点において、例えば、もの派がもたらした「創造の否定」(千葉成夫)より一層ラディカルだと言えるだろう。
筆者は「路上観察学会」が発達させようとした「目つき」を、路上から店内へ移してみたい。これは、消費社会を敵対視する「路上観察学会」を、消費の文脈に無理矢理に位置づける邪道な行為だと受けとられてしまうかもしれない。しかし、BOOKOFFに置いてある洋書の多くは、買い手が現れるはずのない、ただの「ゴミに限りなく近い」もの(*4)だとすると、これらの本は買うためではなく、観察する対象だととらえられるのではないか。いったい、だれがそのWindows 97のガイドや、Y2K問題を扱う本を買うだろう。永遠に(もしくはBOOKOFFがつぶれるまで)そこに置きっぱなしにされるのではないか。洋書コーナーは、いわば言語の仕切り場だといえるかもしれない。赤瀬川のトマソンへの発見が仕切り場とガラクタから始まったことはこの意味において決して偶然ではない。ガラクタは社会から追放される自由をなしているから。
自由を獲得する洋書たち
では、幻のように日本に現れたり、消えたりする外国人の労働者や留学生や英会話の教師(もしくは海外の言語を勉強している日本人)などが、母国から本を持ち込み、消費し、BOOKOFFで捨てるとしよう。一応値札が付いてしまうが、多くの場合その値段はほとんど恣意的なものである。需給に関係がないからだ。いずれにせよ、値札にしか関係づけられない、この捨てられた洋書がごちゃまぜになり、そして不思議な、たまに悲喜劇的な組み合わせをする。以下の画像(パサージオ西新井店)では、フランツ・ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』が、『きかんしゃトーマス』や北京の観光ガイドや自己啓発系の本などと一緒に並べられた途端、多すぎる意味が無意味に転換する。
もちろん、洋書がこの不思議な組み合わせをしている様子は他の古本屋でも見られるが、それぞれのBOOKOFF店舗の眩しい蛍光灯のせいか、洋書がだいたい店の寂れた一角に置いてあるからなのか、またはチェーン店だからなのか、BOOKOFFの洋書コーナーには特別な憂鬱がつきまとっている。およそ、このすべてに起因しているが、このうえに普通の古本屋より、歴史や「関連性」という概念から解放される自由の裏にある憂鬱が、BOOKOFFでは凝縮されているのかもしれない。元来属しているジャンルや文脈から切り離され、BOOKOFFの統一的かつ非人間的な殺風景の中で、洋書は積み上げられてゆく。
洋書コーナーは「洋書」だけからなっているわけではない。10ヶ所のBOOKOFF(*5)に足を運んだ筆者が目にしたのは、英語、フランス語、中国語、韓国語、インドネシア語、ドイツ語、ポルトガル語、ベトナム語、ポーランド語、スペイン語、イタリア語、タガログ語などだった。とくに上野店や新宿東口店は多様だった。バベルの塔が崩れ、人間が言語に呪われてしまった。洋書コーナーの中に、いろいろな本がお互いにその失われた「本来の唯一言語」へ近づこうとするが、もちろん辿り着くことはできない。このまとまりようがない多様性も逆に、BOOKOFFで感じられる憂鬱に影響を及ぼしているのだ。
複数の店舗に行った人は感じるだろうが、BOOKOFFはチェーン店にもかかわらず、それぞれの店の地域性を反映している。大学に近い早稲田駅前店や高田馬場北店には学術系の本が多いし、冷たい都会の真ん中にある新宿の店舗には、怪しげな自己啓発本が爆発的に増える。この地域性を念頭に置きながら、それぞれの店のカオスの中に、それぞれの本の元オーナーに思いを馳せる。いったいだれが、そのキリスト教系の新興宗教の本を読んでいただろう?(それで救われたのか?)。いったいだれが、その会計士の資格をとるための試験に向けて勉強していた?(そのあと受かったのか?)。中世や近世の日本では、人々は社会との縁を切るために、駆け込み寺や市場などに逃げた。そしてそこで自由を獲得することができた。現在、まるでますます強くなりつつあるアルゴリズムから逃れるかのように、洋書がBOOKOFFの本棚に集まっている。このように(そして限りなくゴミに近いものになることで)自由を獲得しているかもしれない。
「目つき」の意識化
「路上観察学」に関して、藤森照信が次のように述べる。「地ベタで鉄のフタが、『ワタクシ、マンホールのフタで…..』とつぶやいているのだ。このつぶやきに耳を貸すのが、路上観察者のやさしさというものだろう」(*6)。同じように、BOOKOFFの洋書たちの声にも耳を傾ける必要があるだろう。YouTubeから次の曲が自動的に流れ始めるまえに。
最後に、一言述べておかなければならない。これらの洋書を、「芸術」として認めてほしいと言っているのではない。そうではなく、逆に、それらを見る「目つき」をもつ私たちの立場に気づくことが重要だ。オンラインショッピングで利益を増やしているBOOKOFFによって不安に覆われる洋書らの存在は、私たちが感じる危機にもつながっている。いつの間にか、BOOKOFFはすべての販売をインターネット上で行うようになり、物質的なプレゼンスを持たなくなるはずだ。そして、この旧消費制度に隠れているアジールもアルゴリズムに吸い込まれていく。そのとき、私たちはどうなっているだろうか。
*1ーー「1927年、今和次郎により提唱された学問。今は自身と同志による現代風俗あるいは現代世相研究に対する態度と方法、そしてその仕事全体を、『考古学』に倣って『考現学』と称した」(artscape「artwords(アートワード)」より。https://artscape.jp/artword/index.php/%E8%80%83%E7%8F%BE%E5%AD%A6 最終閲覧日:2019年5月28日)。
*2ーー「トマソンとは町の各種建造物に組込まれたまま保存されている無用の長物的物件であり、それがトマソンであるか疑似トマソンであるかの判断は、さらに町の微細な観察を強いることになっていた。すなわちトマソンは、人間の動きと意志と感情と経済のすべてを算出して除去したところに取り残されてあらわれてくる物件であり、以降トマソン探査を契機としながら、その途上で人の世の生態と構造のディテールが考現学的に観察されていくことになる」。赤瀬川原平、藤本暉信、南伸坊『路上観察学入門』、ちくま文庫、2004、13頁
*3ーー同書、12頁
*4ーーここで、黒瀬陽平の言葉遣いを借りている。現代美術をややちゃかしながら、彼は次のように述べている。「まず、限りなくゴミに近いマテリアルがある。現代美術はそこからはじまる。どこからともなく集められたゴミが、アーティストによって魔法にかけられる。魔法が成功するものもあれば、失敗するものもある。成功すれば宝になるが、失敗すればゴミのままである」(黒瀬陽平「現代美術ヤミ市――限りなくゴミに近いマテリアルの市」より。http://chaosxlounge.com/yamiichi/ 最終閲覧日:2019年5月28日)。
*5ーー綾瀬駅前店、パサージオ西新井店、上野広小路店、早稲田駅前店、高田馬場北店、新宿駅西口店、新宿駅東口店、飯田橋東口店、千駄木店、浅草稲荷町店で観察を行った。綾瀬駅前店と千駄木店、浅草稲荷町店では洋書は取り扱われていなかった。
*6ーー同書、28頁