|「不純物と免疫」と展覧会のオープンソース化
——10月14日から開催されている「不純物と免疫」は、トーキョーワンダーサイトがトーキョーアーツアンドスペースに名称変更して第一弾の展覧会です。まずこの「不純物と免疫」というタイトルからうかがいたいのですが、第一印象として非常に医学的なものを感じます。どういう意図がここにはあるのでしょうか。
長谷川 僕たちの身体はウィルスが入ってくると発熱をしてそれを殺そうとしますよね。敵と戦う結果、自分の身体も弱ってしまう。僕は去年から花粉症になったんですけど、これも結局、本来であれば人体に無害な花粉を「異物」だと認識して、鼻水や涙やくしゃみで身体から追い出そうとする反応ですよね。
イタリアの哲学者ロベルト・エスポジトが「不純物を極端に拒絶したり排除しようとする結果、そのプロセスで自分たち自身がダメージを負ったり、死んでしまう。これはまさに我々の文明が陥りがちなパターンである」と言っています。かつてナチスがアーリア人やゲルマン人こそが素晴らしいとし、ユダヤ人は排除しようと極端に暴走した結果、自分たち自身が滅んでしまった。それってすごく納得できるなと。
——そしてその「不純物」を「排除」しようとする動きはいまなお続いている。
長谷川 そうです。だからこの展覧会をやろうと思った。トランプ大統領の就任式の日に、アメリカではいろんなギャラリーや美術館がクローズして抵抗を示したじゃないですか。けど、あれが効果的かというと、僕はあまりポジティブには思えない。むしろ、「トランプが就任する今日だからこそ、展示を見に来てくれ」っていう人のほうが、僕はかっこいいと思ってしまう。
きっぱりと「ダメなものはダメ」っていう姿勢と、受け入れる(免疫化しない)状態をどうチューニングするのか。現代社会に対して、ストレートにこの展覧会をやることが、社会的にどう機能するのか。
美術を嫌いな人に対して、いまの美術側の人間がとっている対応は、どこかぎこちないなと思っているんです。「啓蒙」や「アウトリーチ」と呼ばれるものが僕は嫌いで、「社会と美術をつなげましょう」という人たちは、もともとつながっているものを一回切り離して繋げようとする。いろんなつながり方があるのに、一回それを切って、自分の好きなつながり方を決めてしまう。それに違和感がある。
アートを嫌いな人は、嫌いなままでもいいと思うんですよね。(マンガでも音楽でも)僕らも好き嫌いって絶対あると思うんですよ。それで、好き嫌いを矯正しようとするから反発が起こる。でも、「嫌いだけど同時代に存在している」ということを肯定していくことを考えていきたい。
嫌いなら嫌いなままでよくて、そこで問われているのは「嫌い方の技術」みたいなものじゃないのかなと。
極端な話、「あの展覧会はブロックバスターで商業的だ」とか「広報は美術の本質を汚す」とか批判していくうちに、どんどん自分たちでやせ細っていって、身内だけになっていく。
そこで、インディペンデント・キュレーターがしなきゃいけないことって、いろんな意見の中を行ったり来たりすることだと思うんです。
これは同じくインディペンデント・キュレーターの遠藤水城さんがよく言うことなんですけど、彼が好きな言葉に「技術開発」というのがあるんですね。要は、「やりたいから展覧会をやるのは違う」と。そこで何か新しい技術を社会に共有して、次からみんなが使えるようにしたらいいんだと。選択肢を増やして、いろいろ選べる状態になった方が、豊かな感じにはなるよねっていうことですね。
——それは展覧会がひとつのオープンソースをつくるというイメージですか?
長谷川 そうですね。展覧会技術ってキュレーターが独占するものじゃないんですよ。誰だってキュレーションしていいんです。誰だって歌を歌っていいはずだし、誰だって絵を描いていいように。キュレーションだけに技術独占が起こるのはすごく変だなって思う。
専門性がある仕事なのは、作曲だって編集だってアカデミックな哲学者だってみんなそうじゃないですか。それを「専門性がないとやっちゃいけない」というのは間違っていて、キュレーションするときにどう展覧会技術をオープンソース化できるかというのは、僕たちがやらなきゃいけない仕事のひとつだと思っています。無論そこでは、キュレーションのもつ権力性に対する強い反省性が導入されていないといけないのですが。
|ロゴ、ウェブ、カタログ
——「不純物と免疫」はロゴも印象的ですね。
長谷川 実はこの展覧会はロゴからスタートしているとも言えるんです。2016年から1年間の会期でやった「クロニクル、クロニクル!」は(僕が言うのも変な話なんですけど)すごいデザインの評判が良かったんですよね。特にウェブサイトの評判もよかった。今回の展示も同じ熊谷篤史さんが手がけてくださっています。
ただ「クロニクル、クロニクル!」のサイトは、「たしかに格好いい、でもこれだとどういう展覧会なのか何もわからない」と言われたんです。「これをパッと見たときに美術関係の人だと、面白そうな展覧会だってすぐわかって、もしかしたら長谷川さんの名前を見て反応する人もいるかもしれない。でもそれは結局は美術の人だけで、しかもこういうのがもともと好きな人。そういう頷きたい人が頷きにくるみたいなところがある」と。その通りだと、強い反省がありました。
それで、たかくらくんにロゴをまず頼んだ。自分の価値観から関係のないところから、問題意識だけは共有して何が出てくるかを見たかったんですね。「『impurity / immunity』っていうテキストの部分がわかればいいから、アニメっぽくしてほしい」って言ったんですよ。そうしたらアニメ『キルラキル』を彷彿とさせるようなロゴが出てきた。
全体のウェブデザインについては「とにかくスマートフォンに特化したウェブサイトをつくるべきだ。展覧会のサイトはスマホに最適化されていない」と言われたんです。確かに、僕も今までやった展覧会のサイトはスマホに最適化されていなかったんですよね。だから今回のサイトはスマホファースト。まずは地図や、休日情報が真っ先に目に入るようにしたかったんです。
——美術館のウェブサイトでもその部分がおざなりになっているケースが多いです。
長谷川 そうなんですよ。あと「ネタバレ上等の精神」というのはけっこう大事な要素で、どういう作品を出すのかというのはサイトに書いてあります。最近の展覧会サイトで不満だったのは、作家の名前しか書いてないとか、あっても略歴だとか......。これじゃわからないじゃないですか。
美術関係者であれば「あ、この作家が参加しているんだ」と、すぐわかるかもしれない。でもほとんどの場合知らない作家じゃないですか。あと細かいところではインストーラーやエンジニア、デザイナーの名前は全部掲載しています。
——美術館では担当学芸員の名前すら表記されないことがほとんどです。そういった意味でも重要な部分ですね。カタログも普通ではないつくり方をしていると聞きましたが。
長谷川 カタログもいまは会場風景を入れなきゃいけないから会期に間に合わないことも多いじゃないですか。じゃあ分ければいいと。しかも今回の展示は巡回するので、増えていくんですよ。
全部で4冊で、すべてに四ッ穴が空いていて、ファイルに閉じられるようになっている。会場では無料で配ります。2〜4にはインスタレーションビューが収録されるかたちになっていて、4つセットだと2000円。会場に来ると1は絶対手に入るので、実質1500円ですよね。展覧会自体に来れない人は2000円で全部が買える。
イベントごとに足を運んだ人はひょっとしたら全部無料で手に入ってしまうかもしれない。こういうふうにすれば、もうちょっと手軽にカタログにアクセスできるんじゃないかなと。
|展覧会で「曲」が意味するもの
——今回は展覧会に「曲」が要素として入ってくるとのことですが、それはなぜですか? いわゆるテーマソングということでしょうか?
長谷川 テーマソングではないんですよ。テーマソングとしての機能を持つものではないし、この曲が展覧会全体のイメージをつかさどっているわけでもない。
網守 僕も曲を「つくって」としか言われなかったんですよね。
長谷川 展覧会と曲のタイアップの仕方をどう更新できるかと考えていて、「こういう展覧会をやるんだ」とステイトメントを作曲家の網守くんに伝えて、彼は彼で自分が抱えているやりたいことをそこで吐き出す。展覧会に参加するアーティストは、それぞれ作品を同じように問題意識とやりたいことの中でつくる。だからそれはすごくフラットな構造、並走している感じになってすごくいいなと思います。
網守 そう。だから「参加してないけど並走してる」って感じですよね。
長谷川 僕はいつも「ドクメンタ」がやっている技術を、いかに自分の日本の企画展で導入できるのかっていうのを考えてしまうんですね。
今回の「ドクメンタ14」はグラフィックデザインがすごく変なんですけど、あれは4つのデザイン事務所が関わってるからなんですね。ドクメンタのディレクターであるアダム・シムジックは、一切のルールやガイドラインをデザイン事務所に提示しなかったらしい(笑)。そして最初の顔合わせ以降は、他のデザイン事務所にデザインの相談などは意図的にしなかったそうです。難民問題が取り沙汰されるなかで、みんなそれぞれが100パーセント満足するわけじゃないけど、ベストを尽くし合う。
その結果、不思議なグラフィックデザインが立ち上がっている。そこには統一性はないしとても非効率的です。でもそれがあの展覧会には必要だったんでしょうね。僕はよく「各位」って言うんですけど、アニメ『攻殻機動隊』にも出てくるセリフ「チームワークは存在しない。あるとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ」ってことですよね。それぞれが全力を出した結果、なんとなくチームワークっぽくなる方がいいなって思っている。それで網守くんに曲をつくってくれないかって話を投げたんです。
網守 ちなみにいまの話は音楽にも近い例があるんです。坂本龍一さんが昔、「チェーンミュージック」っていう企画をやってた。あるミュージシャンが数分つくったら、そのミュージシャンが別のミュージシャンを推薦して次の数分を推薦されたミュージシャンがつくり、それを順次ネットで公開する。結果、すごい変な音楽ができあがっていて面白かった記憶があります。
なおかつあれが、音楽が音楽家たちだけでできる公共性の限界だと感じたんですよ。だから今回、たがいの音楽性を知っているような深く理解した上でのコミュニケーションとは異なるかたちで美術と関わって、その公共性を高められるかもしれないっていうモチベーションはありましたね。「チェーンミュージック」みたいな試みがかつて存在した一方で、いまはいろんな意味でミュージシャンの世界も音楽の各ジャンルも島宇宙化しているので。
長谷川 美術において、音楽って本当に不遇だなあと思っているんです。これは完全に美術サイドの人間が悪いと思うんです。展覧会の関連イベントでミュージシャンを呼ぶというのが(よっぽど意味がないかぎり)僕は好きじゃない。作品と同列に、一緒にやる方法論自体はありますよ。今回の「札幌国際芸術祭2017」がそうだから。梅田哲也さんの作品とテニスコーツの演奏には一切のヒエラルキーはない。全部を肯定する。でも今回はもうちょっと違う技術で、タイアップのアップデートをいくつかのルールの中でやりあうという感じです。
網守 そのルールのなかに試練がある......試練というか倒錯なんですよ。だってタイアップなのに記号や音のイメージみたいな戦略もない(一応ロゴはあったけど)。だから本当に好きにつくったんですけど、唯一もらっていたステートメントから部分的に僕が勝手に影響を受けたりしてます。あとは、多くの人に聞いてほしいから歌を付けないとだめかなと思って勝手に歌ってたり。でも、最初はヒップホップにしようかみたいな話もあったんだよね。
長谷川 そう。調べたらファッションブランドのXLARGEが国立新美術館でやった草間彌生展とコラボレーションしたとき、女性二人組ラップユニットのchelmicoが楽曲をつくってた。ある意味では、代理店の人たちは嗅覚が優れていて、早いんですよ。
網守 そこで葛藤が起きたんです。ラップは好きだけど僕はラッパーでもトラックメイカーでもないし、個人的な問題意識として、いま美術の場で安易にラップを使うとステレオタイプな批評性に収斂されてしまうと思ったんですね。それで徐々にステートメントに影響されて、素朴に「不純物でも取り入れよう」と思った。
そもそも不純物を取り入れて自己免疫化するプロセスって音楽がまさにそうなんですよね。ルールがいっぱいあるので。音楽が根本的に内包してる関係性を、もうちょっと過剰に自分の音楽でやりたくなった。それでとりあえず他者を取り入れようと思って、岡田拓郎(ex. 森は生きている)くんに共作してもらったんです。僕は彼の音楽は大好きだけど僕の音楽自体とは全然合わない。だからやろうと思った。
彼に20分くらいのギターインプロのサウンドファイルを送ってもらって、無加工でなるべく多く使うというルールを自分に課したんですよ。そのルールだけで制作したんですけど、岡田くんが不純物として介在しているからなかなか100パーセントの洗練まで届かない。結果歌も入ってすごくポップに聞こえるのに、時代に最適化されず7分半という長尺になっちゃった。
長谷川 最初のイメージは彼にも話したんですけど、『キングダムハーツ』というゲームがあるじゃないですか。じつは僕の展覧会の90パーセントくらいは、いつもRPGや漫画がベースになっているんです。
あのゲームは、「Final Fantasy」とディズニーと宇多田ヒカルの”殴り合い”。あれが奇跡的に成功してるということが僕にはすごい救いなんです。あのゲームはそれぞれの「境界」を犯しまくってるわけです。
僕がすごい好きなエピソードがあって、総合プロデューサー・野村哲也が宇多田ヒカルに歌詞の注文をつけたんですね。「現代社会にあるものを歌詞にいれないでほしい」と。それはゲームの世界観が侵されるから。それで『光』という名曲ができた。でも、歌詞の中に「テレビ」って言葉が入ってるんですよね。しかし、結局のところまったく問題はなかった。僕が「不純物と免疫」をやれるベースには、このエピソードがあるんですよ。
完璧にその世界をつくりこんで、その世界観を完璧に守りきる。それはそれですごい好きなんです。でも、関係ない矛盾が入ってしまっても、みんなが上手に折り合いをつけたり、括弧に入れたりしてなんとかやっていける。あの感じが僕はすごいいいなと思っています。
網守 あれは勝手に演繹されたタイアップの好例だよね。今回はそれをもっと過剰かつポジティブにやれている気がする。
——今回の展示にどういう反応を期待していますか?
長谷川 東京でやってきた展覧会は毎回複数のキュレーターの体制だったので、実質今回が初なんです。なので単純に反応は楽しみです。やっていることの入り口というか枠組みはとてもストレートだと思っています。そこには「3.11」以降をどう生きるか、ということについての問いも含まれている。ただ、フーコーに倣って言えば、展覧会というのは、何かを説明要因として特権化するのではなく、分析している出来事の周りに「解読可能な多面体」を打ちたてることです。
網守 3.11の余波ってじわじわきてますよね。僕は00年代にティーンだったので、あの時代の音楽やアートに影響を受けていて興味が通底してるんだけど、音楽にしろアートにしろ00年代について語ることの難しさが現前化してきてる。それは3.11が時代を切断してそれ以前のことを考える余裕がなくなったからですよね。とはいえ時代にかかわらず、音楽を語ることが難しくなってるのはミュージシャンにも責任はあるなと思います。
長谷川 というのは?
網守 音楽はいま音楽である以前に「演奏と映像のなんらか」的な見立てであることが求められてる。音楽をそこから自律させてそれ自体について考えるためには、いわゆる「シーンづくり」とは違う、もっともっとわけのわからない公共性や関わりをつくることが必要だなと。そしてそれはミュージシャン側の役目でもある。今回のコラボレーションはそのうちの一歩ですね。
別に音楽のことなんてよくわからないと言われるかもしれない、でもどこかしら面白い人たちと、心の底では自分の音楽のために単に必要だからと言う理由で、でも相手に寄り添ってポジティブに関わっていくという。今回つくった楽曲に関して言えば、こうした態度で挑んだ結果変な物が演繹されて、僕の作風もアップデートできたかなと思ってます。あとはちゃんと展覧会の広報として機能することを祈るという(笑)。そしてこれは、「美術/音楽」みたいな二項関係の前提とはまったく別の考え方ですね。
長谷川 広報というものは確かに純粋な作品の鑑賞に対して折り合いが悪いかもしれない。でも例えばグループ展というのは、自分の作品の前と後ろに違う作家の作品があるということですよね。あるいはキュレーターの介在がある。もちろんそれぞれの作品がしっかりと鑑賞できることは大前提です。
ただ、そうした周辺の要素をノイズだと考え出すと、どんどん自分が苦しくなっていくと思うんですよ。完全に純粋な展示空間なんて、例えば個展をもってしても実現不可能なわけですから。そして言ってしまえばキュレーターという存在は、そもそもの誕生の時点から美術において非本質的な存在なわけです。今回は会期中に広報映像をウェブ上に発表しようとも考えているんです。展覧会のCMをやってみようと。これでも悩みながらやってるんですよね。
キュレーションの手法って、あまりに情報が共有されていなくて、少なくとも僕ら世代からはその共有をやっていきたい。キュレーションのトレーサビリティを上げていきたいですよね。