EXHIBITIONS
白髪富士子
ファーガス・マカフリー東京で、白髪富士子の個展が開催されている。
白髪富士子(1928〜2015)は大阪府生まれ。1946年に大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)を卒業し、2年後に白髪一雄(1924〜2008)と結婚。富士子は夫・一雄とともに具体美術教会の会員となる。ほかの多くの具体作家と同様、富士子はアーティストとしての正式な訓練を受けておらず、初期1955年の作品は、具体創立者である吉原治良の指導のもとで制作された。
1950年代後半、富士子は紙を使ったコラージュ技法の実験を始める。重さと透明度が異なる単色の和紙を水に濡らして糊付けし、それに手を押しつけて凹凸や、皺を生み出す。その後、何層にも重なった和紙を破ることで、半透明の縦の裂け目を残した。時には、その破り方の位置や方向が完全に自由であることもあった。
1957年と58年の作品は、暗色の地に銀色の絵具で縦縞を描いたり、緑の顔料を重力を使って川状に流し込んだりして制作し、板にはられた後、展示された。60年になると富士子はキャンバスを使った制作を始め、接着剤、顔料としてエンコースティック・ワックスを構図のなかに取り入れるようになる。また、絵画のなかに割れたガラスを使用し始めたが、この新しい素材と一雄の制作技法との相性が良くないことが明らかになり、61年に富士子個人としての作家活動は終わりを迎えることになった。
同時期、夫・一雄のヨーロッパでの展覧会が成功したことで、彼が描く傍らで、富士子が絵具の準備をして使用する色について助言するという方法を夫婦で実践し始める。この習慣は、一雄の作家としてのキャリアを通して続けられた。本展は、富士子の作品を展示することで、その活動に改めて光をあてるものとなる。
白髪富士子(1928〜2015)は大阪府生まれ。1946年に大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)を卒業し、2年後に白髪一雄(1924〜2008)と結婚。富士子は夫・一雄とともに具体美術教会の会員となる。ほかの多くの具体作家と同様、富士子はアーティストとしての正式な訓練を受けておらず、初期1955年の作品は、具体創立者である吉原治良の指導のもとで制作された。
1950年代後半、富士子は紙を使ったコラージュ技法の実験を始める。重さと透明度が異なる単色の和紙を水に濡らして糊付けし、それに手を押しつけて凹凸や、皺を生み出す。その後、何層にも重なった和紙を破ることで、半透明の縦の裂け目を残した。時には、その破り方の位置や方向が完全に自由であることもあった。
1957年と58年の作品は、暗色の地に銀色の絵具で縦縞を描いたり、緑の顔料を重力を使って川状に流し込んだりして制作し、板にはられた後、展示された。60年になると富士子はキャンバスを使った制作を始め、接着剤、顔料としてエンコースティック・ワックスを構図のなかに取り入れるようになる。また、絵画のなかに割れたガラスを使用し始めたが、この新しい素材と一雄の制作技法との相性が良くないことが明らかになり、61年に富士子個人としての作家活動は終わりを迎えることになった。
同時期、夫・一雄のヨーロッパでの展覧会が成功したことで、彼が描く傍らで、富士子が絵具の準備をして使用する色について助言するという方法を夫婦で実践し始める。この習慣は、一雄の作家としてのキャリアを通して続けられた。本展は、富士子の作品を展示することで、その活動に改めて光をあてるものとなる。