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ベルナール・ビュフェ

Bernard Buffet

 ベルナール・ビュフェは具象画壇を代表する画家のひとり。1928年フランス・パリ生まれ。第二次世界大戦でナチス・ドイツの占領下にあるなか、15歳のときにヴォージュ広場のパリ市夜間講座に通う。44年、国立美術学校に入学。ユージェーヌ・ナルボンヌ教室で学ぶ。学生の柔軟さを重んじる指導者に恵まれ、45年にアトリエ作品賞を受賞。しかし同年に母・ブランシェが死去し、国立美術学校を退学。自身の悲しみをキリストの受難に、母の面影をマリアに重ねて《ピエタ》(1946)を描く。46年、30歳以下の作家のための展覧会「サロン・デ・モワン・ド・トランタン」に初出品。続いて47年の「サロン・ドートンヌ(秋期)」展で《肘をつく男》(1947)を発表し、注目され始める。

 貧しい生活を送るなか、友人らの尽力でカルチェ・ラタンの書店「アンプレッション・ダール(芸術の印象)」にて初個展(1947)を開催。《死んだ鶏》(1947)がポンピドゥー・センターのために買い上げられる。48年、サン・プラシッド画廊で発表した《ふたりの裸の男》(1947)が批評家賞を受賞。これをきっかけに一躍脚光を浴び、若者を中心に、戦後の不安感を鋭い線と抑制された色彩で描き出した具像画が支持される。51年に代表作《キリストの受難》の三部作を制作。ベルナール・ロルジュやアンドレ・ミノーとともに、パリの具象画壇を牽引する「新具象派」または「オムテモアン(目撃者)」と呼ばれ、抽象画の潮流に乗った日本でも「第2回日本国際美術展」(東京都美術館、1953)に《化粧する女》(1947)が展示されるなど早くから紹介された。55年には、『コネッサンス・デ・ザール(芸術の知識)』誌が企画した「戦後の画家10傑」の1位に選ばれる。

 58年、歌手やモデルとして活動していたアナベル・シュウォーブと結婚。アナベルとの出会いと、ギュスターヴ・クールベやモーリス・ド・ヴラマンクなどの影響を受け、モノトーンの作品に色彩が加わった、力強い線や厚塗りによる表現主義的な画風へと向かう。この変貌は賛否両論を呼んだものの、パリの具象画壇を活気づけた功績が認められ、43歳でレジオン・ドヌール勲章を受章。73年に日本でベルナール・ビュフェ美術館が開館し、74年にはヴァチカン美術館の「現代宗教美術コレクション」に大作8点が収蔵される。74年にフランス芸術アカデミー会員に加入。若くして名声を得たことから時代遅れといった世間の声に精神を病むが、生涯にわたって作風を変化させ、また版画や水彩など様々な表現にも取り組み、パーキンソン病が悪化するまで制作を続けた。99年没。