中尾拓哉 新人月評第8回 文体とスタイル 大山エンリコイサム「Present Tense」展
そこかしこに散らばる落書きに、一定のルールを読み取るとき、視界は一変する。メッセージがあるわけでもない「からっぽの記号」を集合的な意味とする、グラフィティ文化の視覚言語を構造化し、大山エンリコイサムの「クイック・ターン・ストラクチャー(QTS)」は生まれている。
QTSは、グラフィティ・ライターが文字によって造形の独創性を競う「レター」に依拠しつつも、文字としての拘束は外される。それが「からっぽの記号」を推し進め、いっそう意味を持たない線形で構想されたにせよ、大山のスタイルとしてすでに十分に認知されていよう。ゆえに、その一定のかき方によって、今なお解体し続けているのは「バックグラウンド」である。大山のQTSはメディアを問わず拡散されているのだ。
本展の新作において探索される表現を取り出していこう。会場に入ると1.着色されたキャンバス上の偶然的なひび割れを含む「面」が、メカニカルペンシルで慎重に浮かび上がらされたミクロな「線」のうっすらとした連結によって覆い尽くされている。2.肩を中心としてかかれた回転する「線」すなわち円が、エアブラシの微細な飛沫で塗りつぶされた「面」のマットな連結によってスクラッチされている。3.同じく肩の回転、あるいは手首のスナップで引かれたOやSのような筆跡の上に散らばる「点」が、角度のついたフィルを持つ84の小さな「立体」の星座にも似た連結によって多方向化されている。
これらは一次元の線が、平行する線から二次元性を獲得し、その面の接合から三次元の形態をつくるものである。線形の運動体は末端をスピードで歪ませたキューブで象られ、その奥行は不可能図形として本来結合しないはずの方向へとねじれる。こうして線、面、立体的に拡散するQTSが、それぞれ面、線、点的に収束されている。これら3つの観測位置において、2つのベクトルをもつ起点と終点を互いに遡行させれば、大山の線的な思考が、手の生み出す駆動と制動によって、精緻になぞられていることがわかる。
ペンシルのスクライブ、マーカーのドリップ、エアゾールの噴射と、あらゆる線形が、運動とスピードとして解析されている。ストリートの特殊な空間に開かれているグラフィティを、別のルールをもつアートへと適切に解体し、再構築することには、きわめて厳密な操作が求められる。しかし、かつてレターとバックグラウンドのためにあった「かく」ことは、グラフィティにも、アートにも編み上げられないトランスフォームを繰り返し、かついずれのコンテクストをも決してないがしろにせずに、そこで絡まる回線を接続し直そうとするためにある。このような思考の経路をたどれば、容易に判読させない文字の形態化であるレターのあり方は、バックグラウンドの深くから入り組むことになる。絵画空間に浮き沈みする、あまりにグラフィティ的な線形は、文字以前にある視覚言語と連動した文体となって、大山のスタイル、すなわちQTSを、身体的、そして造形的な現在時制へと置いたまま、生態的に行き交わせる根拠をつくり出しているのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。最近の寄稿にガブリエル・オロスコ論「Reflections on the Go Board」(『Visible Labor』所収、ラットホール・ギャラリー、2016年)など。
(『美術手帖』2016年11月号「REVIEWS 10」より)