中尾拓哉 新人月評第7回 いつもどこかで正解している 平山昌尚「ゲーム|Game」展
ペンを持って、線を引いてみる。サイコロを振って、目を出してみる。どちらが思うようになるか。無限の中の一本と有限の中の一面。いずれにせよ、ゲームは確率の正確さよりも、その不確かさに対し正解を求めるものである。「私の投げるサイコロは、あなたの投げるサイコロとけっして同じにはならない。だからサイコロを投げるという行為は、ふだん気づかない無意識のすばらしい表現にもなりうる」と言ったのは、マルセル・デュシャンであった。彼は基準線を揺らし一本の線を引くことと、サイコロを振ることがどこかで通じているとした。ならば、不正確な線を揺らし一本の線を引くことと、不正確なサイコロを振ることもどこかで通じているのだろうか。平山昌尚のサイコロは、正確な立方体ではない、ゆえに均等には転がらない。
本展ではドローイングによって、なぞなぞが四問出されている。二つは文字(カラスとハトとスズメはなにをしていた?/あさおきてさいしょにすることは?)であり、二つは絵(金持ちの家に泥棒が入りましたが、何も取らなかったのはなぜ?/話し相手になってくれる花は?)である。レタリングではなくゆるい幾何学的な抽象画のように描かれた前者と、泥棒が持っていかなかった1000 万円札や種類を特定できない花の描かれた後者は、答えがわかっても、問いと答えの双方から正しさをはぐらかす。それはエイプリルフールにつく嘘と、その起源自体が不明な慣習の二重の不確かさに似ている。
ならば、平山が探索する正解とはどのようなものか。サイコロの横にはペールオレンジで着色された、二つの球と球の乗せられた円柱が、カードを背景にして置かれている。なるほど、これらの定位置を持たないオブジェは、何か物を一つ置くだけでゲームが始まり、ルールはそこから生まれてくることを思い出させる。不確かなものには、常にベストなポジショニングが求められている。
だからこそ、なぞなぞの正解は置いておき、少し違った正解を導きたくなるのだ。実物の正確さとは別の基準をもつカラスが、さらにほんの僅かにだけ不正確に描かれたような線がある。つながりそうでつながらないというよりも、何ミリずれていて何ミリ合っているのかわからない、迷っているようで迷いのない、つかもうとしてつかみどころのない、見たことがあるようでやっぱりない一筆。そこでドローイングのカラスとゴミは、実際のカラスのゴミ漁りと重なりあう。カラスたちは、無数の色/形のゴミを不正確なサイコロのように転がし、散らばらせている。いつも正確であるものが、どこか不正解であるというように。
こうして、さまざまなゲームが同時開催されている、と思えるならば、そのフィールドでは、転がらない不正確なサイコロもぐるぐると回ることに気づく。そうしたチャンスにおいて、線が引かれる。6060、6061......。すると、そのときそこで何かをはみ出す不正確な線こそが、いつもどこかで何かを揺らす正確なフォームとなって、ふだん気づかない、一回きりで、しかし一つではない正解を知る、表現にもなりうるのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。最近の寄稿にガブリエル・オロスコ論「Reflec tions on the Go Board」(『Visible Labor』所収、ラットホール・ギャラリー、2016年)など。
(『美術手帖』2016年10月号「REVIEWS 10」より)