中尾拓哉 新人月評第3回 展覧会をすり抜ける 「囚われ、脱獄、囚われ、脱獄」展
本展は5人のアーティストがキュレーションした5つの展覧会で構成されている。ステイトメントには「枠」を考える展覧会とあり、アーティストは既存の枠を再構築することができると書かれている。ここでアーティストとキュレーターとを分類することこそが、真っ先にフレーミングの問題となってぶつかっている。とはいえ、このような思考そのものが本展においては「囚われ」となるのであり、それゆえ「脱獄」とはその枠をこっそりとすり抜けていこうとするものとなる。
例えば、紙の上にある消しゴムが、点として鉛筆の線によってぐるりと囲まれているとしよう。この二次元の円を枠とすれば、点を枠外に出すことはできない。しかし三次元から見れば円は枠の役割など果たさず、上から取り出すことができる。あまりにも当然であるが、概念的な枠に囚われないために、限界を多元化させ別の視点でとらえていかなければならない。そして作品は紡がれていくなかで、多元的な視点が掛け合わせられ、概念の枠でとらえきれない余剰を生み出していく。よい作品は「作者の意図、観客の理解、評論家の的を得た解釈さえもすり抜ける」(磯谷博史)のである。鑑賞者のみならず、作者の想像をも超えた行き先をつくり出すために、枠は穴(トンネル)として脱獄者を待ち続けているのだ。
このような作品とともに、それぞれの会場に展示された作品間にも意識が向かう。金属バットとキャンバスに印されたロゴマーク、割れた陶器とティーカップ、BMWと小料理喫茶の再構築、フックの影とパイプの形状、ピアノの演奏と木を彫る音、そして床の上の靴と落ち葉というように。さらには展覧会間でも、31人の作家による作品は反響していく。それらはいわゆるコンセプトやコンテクストというよりは、作品単体の関係によってそれぞれに結びつこうとしているのである。
こうして本展は、異なる素材、異なる媒体、異なる作品、そして異なる展覧会へとフレーミングされていったかのようなかたちをとる。アーティストによる「キュレーション」として、作品ではないにせよ解釈から逃れ出ていくよう注意が払われ、自然な成り行き、自身との接点、反発し合う構造、好意をもつ対象、意味の変換、そうしたつくり手が支えとする判断基準をそのままに受け止めているのである。それは思い描いたものへのコントロールを少しだけ緩めたとき、ほんのわずかにだけ開く、しかしどこにたどり着くのかわからないほうへと向かって、各作家がつくり続けてきたフレームを彼ら自身が丁寧に編み重ね上げたからかもしれない。
このような作品の関係性を自由に想像させるための不分明な枠となる展覧会が志向されている。囚われて脱し、ときにその先でもまた、囚われて脱すること。何もしない、とりあえずそのまま続ける、という選択肢はないのである。そのために今は作品の構造に含まれる、つくるものから見られるものへと変化するダイナミクス──31の系──を5つの展覧会として見せたのだと考えるほかない。本展は、結果としてではなく、作品を発表するのにふさわしい場を実現するための、原因となろうとしているのである。
PROFILE
なかお・たくや 美術評論家。1981年生まれ。第15回『美術手帖』芸術評論募集にて「造形、その消失においてーマルセル・デュシャンのチェスをたよりに」で佳作入選。
(『美術手帖』2016年6月号「REVIEWS 10」より)