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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:ありふれた素材の底力【2/3ページ】

 小学校時代から部活動の傍ら、田植えや収穫といった家業も手伝ってきた。中学校では陸上長距離にも打ち込んだ。七尾市内の工業高等学校で建築の世界に魅了された三輪さんは、「建築分野だと、好きなモノづくりに関わることができる」と感じ、卒業後は学校の紹介で東京都台東区にあった工務店に就職。ところが、人間関係のトラブルから1年で退職に至ってしまう。

 その後は、友だちから「鉄の船が浮いているぞ、静岡にそんなところあるから行くか」と誘われて、静岡の造船会社に転職。2年ほど船体や船の各部に使われる様々な金属製の構造物や容器、部品制作に携わった。その腕を認められ、別の造船所からのスカウトを機に転身。24歳で結婚後、「おんなじことをずっとやるんだから、おもしろくねぇじゃん」と同市内の重機械の保守・点検を手がける企業へと転職し、コンテナクレーンの修理工事など重機械メンテナンスに携わるようになった。「結局、建築に携わったのは1年ちょっとで、あとはずっと造船業だったね。自分のやる気さえあれば、なんでもできたわけ」と当時を振り返る。これは彼にとって興味深い仕事だったようで、以来40年もの間、定年まで勤め上げ、専務にまで昇り詰めた。

 60歳で定年退職したあとは、ヘルパーとして15年間勤務した。これは、40代でパーキンソン病を発症した妻の介護に備えるためだった。妻の闘病を30年間支え続けた三輪さんにとって、介護は生活の一部だった。

 室内に飾られていた木目込人形の制作は、三輪さんが30代の頃、手芸好きだった妻がきっかけで始めたものだ。「女房がやっていたんだから、こんなものもつくれてなくてどうする」という思いから、木目込人形の通信教育で資格を取得し、一時期は講師を務めることも考えるほど、その魅力にのめり込んでいった。

 ヘルパーを始めた頃から、三輪さんはモノづくりを再開しており、特に広告やサランラップの芯といった身近な材料を使った新たな種類の制作をこの時期に始めた。

編集部