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櫛野展正連載24:アウトサイドの隣人たち 最後のお化け人形師

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載。第24回は、岡山県倉敷市でお化け屋敷の人形制作を行う、最後のお化け人形師・中田市男を紹介する。

工房「中田人形工芸店」での中田市男

 夏の風物詩、お化け屋敷。その起源は天保元(1830)年3月に、瓢仙(ひょうせん)という医師が自宅庭に設けた小屋に百鬼夜行の様子を描かせ、一つ目小僧など様々な妖怪たちの人形を飾り付けた「大森の化け物茶屋」という見世物だと言われている。近年では、人形を展示するだけでなく、最先端のテクノロジーを駆使してストーリー性を持たせるなど、趣向を凝らしたお化け屋敷が主流となっている。そこで使用される人形は大量生産が可能なFRP製品が大半を占めているが、いまだ昔ながらの方法でお化け屋敷の人形制作を続けている人がいる。それが、「最後のお化け人形師」と言われる92歳の中田市男さんだ。

自身が制作した人形を持つ中田市男

 瀬戸内海沿岸の漁師町、岡山県倉敷市呼松。漁港の側に建つ小さな平屋建ての工房「中田人形工芸店」には、安達ヶ原の鬼婆や閻魔大王などの首が所狭しと並んでいる。「私は小学校4年生の頃から、親父の手伝いをしてきましてね。いつのまにか人形師になっていました。親父は『呼松の天才』と言われてました」。父・善博さんと親子二代で人形師として約80年、自らが制作した人形に囲まれながら、その思いをゆっくりと語ってくれた。

 「5年前には、清盛入道、音戸の瀬戸、扇で沈む太陽を登らせる場面を動く仕掛けでつくったんですけど、この地域は、毎年弘法大師の祭りに檀家や寺が肉弾三勇士や小野道風などが活躍する場面を人形で再現する風習があって、人形師のもとへは注文が殺到しとったんです」。

中田は現在も精力的に人形を制作。人形には、内蔵された紐を引っ張ると口を開ける、舌を出すなどの仕掛けが施されている

 漁師の家に生まれた中田さんの父・善博さんは、会社勤めを経て独学で人形制作を開始。善博さんが画期的だったのは、全国に先駆けて機械仕掛けで動く人形を発案したことだ。時計の振り子で目玉が動く弁慶の人形を玉島の天神祭に出展。その人形を見た関係者から誘われ、神戸の「岩田マネキン」で髭剃りをする人形などを制作し、3年ほど修行を重ねた。帰郷してからは本格的に呼松で人形師としての活動をスタートさせた。特に1929年に制作したチラシ配りをする人形は、「ドイツ製を上回る」と当時の新聞でも大きく紹介されたそうだ。

 後継者である中田さんは、27歳のとき、全国の人形師が腕を競う姫路の三ツ山大祭に父親と参加。参加者の中で唯一動く人形を出展し、そのカラクリが大きな評判となった。現在でも呼松の寺では、10年に1度の正御影供(しょうみえいく *1)の際に、中田さんが手がけた見世物小屋の場面を再現した山車を見ることができる。戦後、百貨店や遊園地の催事としてお化け屋敷の需要が増えると中田人形工芸店には全国から注文が殺到し、最盛期の夏には100体を出荷したこともある。

中田が手がけた人形

 小学校4年生のときには、すでに基礎的な工程を覚えていたという中田さんの制作技術はすべて父親から譲り受けたものだ。父の代から90年以上使われている顔の木型に紙を重ね貼りして張りぼてをつくることで、同じ大きさの顔を複数制作することが可能になっている。お化けの顔に独特の立体感と恐怖感をつけていくための秘密兵器は焼きごてだ。僕には、どちらが父子がつくった人形のなのか、その違いはまったくわからないが、「女房だけが、あんたの人形は向かって右の口角がさがっとると教えてくれました」と笑う。

 「年がいっても(年を取っても)人形づくりを続けとるんは、みんなに『畏怖の念』を持ってもらえたらと思うとるんです。世の中が電気灯で明るくなり、不思議さや何か目には見えんものへの怖さのようなもんが失われ、人の生き方がドライになっとる。だから人智を超えた何かに対して『畏怖の念』を抱けるようなもんが世の中にあってもええんじゃないかと思うんですね。人が正直で誠実に生きれるということに、このお化けの人形が役に立てればと思っとるんです。そして、この怖さを誰と一緒に体験するのか、そういうところにも興味があって、家族や友人、人と人との温かいつながりを感じてもらえたらと思っとります」。

 そう語る中田さんに後継者はいない。まさに「最後」のお化け人形師という訳だ。「誰かに引き取ってもらっても結局はどこかの人形師の手へいくでしょう。だから、最後は全部焼こうかなと思うてます」。この言葉は、親子二代だけでその技術を守り続けた人形師としての誇りなのだろう。「写真集をこうて(買って)な、寅さんをつくろう思ようるんです」とその小柄な体からは、まだまだ制作意欲がみなぎっている。

脚注
*1──真言宗で、大師の恩恵への感謝を表すために御影を飾る法要

編集部

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