桑田卓郎のアトリエを訪ねて。「伝統技法を用いつつ、器を自分なりに、自由に変容させていきたい」

アーティストは日頃どんな場で、何を考えどう制作を進めているのか。「創造の現場」を訪ね、問うてみたい。あなたはどうしてここで、そんなことをしているのですか?と。今回お邪魔したのは、陶芸を現代美術と融合させる第一人者、桑田卓郎さんのアトリエだ。

文=山内宏泰

桑田卓郎
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美濃の地は「よそ者」も快く受け入れてくれた

 陶磁すなわちセラミック素材を用いた創作は、現代美術の一ジャンルとしてすっかり定着している。日本におけるその牽引役を担っているのが、桑田卓郎さんである。奇天烈な造形と色彩で観る者の度肝を抜く桑田作品は、どんな場で着想されてひとつの立体物に結実するのか。拠点を設けている岐阜県へ向かった。

 そのアトリエは多治見市内にあり、藤森照信デザインの斬新なデザインで目を惹く「多治見市モザイクタイルミュージアム」も間近だ。古い町並みを歩くと、広い敷地に簡素な建造物が建つ一角が現れ、そこが桑田さんの拠点である。ぱっと見が工場のようなのは当然で、もともと陶磁器製造工場が建っていた土地を買い取ったものだ。

桑田卓郎のアトリエ
多治見市モザイクタイルミュージアム

 「4年前に僕が購入する以前ここは、1日に何千個もの器をつくる24時間稼働の陶磁器工場でした。岐阜県は陶磁器生産量日本一なんですが、近年は中国などで安い製品が大量につくられるようになって、工場を畳む会社も増えたようです。この工場も廃業し、売りに出されたところを購入しました。僕の作品はサイズがかなり大きいものも多いし、一点ものの創作だけじゃなくマルチプルもつくっているので、広い仕事場を必要としていたんです」。

 買い取ったときすでに老朽していた社屋は、いったん解体することにした。思い通りの拠点をつくり上げんと、みずから工務店とやりとりをし、基本設計や部材の選定までを担って手を動かし、新しい建屋を築いた。

 「ここで原料保管から焼き、色付けまですべての作業が完結できるよう、設計したつもりです。工業用の炉も入れてあります。僕の作品は釉薬がベロンと出たり、土に混ざった石が弾け出たりすることもあるので、内側の電熱線が損傷してしまいがち。なのでこの炉は特注で、内側に板を貼り巡らせ頑丈にしてあります」。

 一帯は陶磁器産業の中心地だけあって、材料は入手しやすいし、陶磁器に親しんだ人も多く、人材が確保しやすいという。

 「作品づくりで新しい技法や試みをしたいときも、業者の方々の知見がすごいので、何でも相談に乗ってくれるし解決策も見出しやすい。よそ者も快く受け入れてくださる土壌に、甘えさせてもらっています」。

桑田卓郎のアトリエにある素材となる土

陶芸がどうやら性に合っていた

 そう、桑田はもともと広島県福山市で生まれ育った身である。どのようにして伝統ある陶芸の本場・美濃へ行き着いたかを見てみよう。 

 「正直これまでは、まったく計画的じゃないあゆみですよ。陶芸の道へ入ったのも、流れのままにという感じです。10代のころは漫然と学校に通って、気づけば高校の卒業が近づいていて、進路を考えなくちゃいけなくなった。まわりは「大学を目指す」「就職するよ」と進む道をどんどん決めているのに、自分にはすべてがピンとこなかった。

 無理やり何かひねり出そうと、小さいころ好きだったものを思い返していたら、美術系の授業では先生に褒められることもあった。それで親に相談すると、美術の予備校があるから行ってみたらと言われ、高3から通い始めました。浪人はしたくなかったから、なんとかギリギリ受かった京都の大学へ進学しました。

 本当はデザインコースに行きたかったんだけど、シュッとしたデッサンが苦手だったので、デザインも絵画も避けて工芸方面へ進むことに。そうなると染織か陶芸のコースしかなくて、染織は馴染みがなさすぎたので、結局陶芸に身を落ち着けたという成り行きです」。

 強い意志を持っての選択ではなかったが、結果としてはこれがあっていた。

美濃の街並み

 「土と火にまみれる陶芸という素朴な手法は、自分の性格にもしっくりきました。元来カッコいいものに憧れる気持ちは人一倍強くて、10代のころはストリートダンスをやっていたんですね。週末なんかはクラブに行ってワイワイ遊ぶのが好きだった。とはいえ日頃の生活ぶりは地味で、あまり社交的でもなかったんですよね。陶芸のような地道なジャンルのほうが、明らかに性に合っています」。

 卒業してからは、地元の広島県福山市に戻り作陶を続けた。広島で陶房を営む財満進氏に師事しながら、自分の創作を模索し続けた。その過程で古い焼きものに目がいくようになり、とりわけ志野焼や織部焼に惹かれていく。

現代美術のフィールドで花開いた「かたち」と「色」

 そんなあるとき、人間国宝・荒川豊蔵の志野焼の展示を見たことが、現在の作風を生むきっかけとなる。

「出品作のひとつ、水差しの釉薬が一箇所ベロンと剥がれていたんですね。意図的なのかどうかはわかりませんが、それが妙にカッコよかった。伝統的な技法を用いながらも、できることはいろいろありそうだと気づきました。もっと思うがままに発想してつくってもいいんじゃないかと、色もかたちもこれまでよりずっと自由に考えるようになっていきました」 

桑田卓郎のアトリエ内部にある電気窯
桑田卓郎のアトリエ内部

 以来、作品をつくってはコンペに出品することを繰り返すようになった。他の出品作を見ていると、気になる作者はどうやら「多治見市陶磁器意匠研究所」の出身が多い。ならば自分もと、研究生になって研鑽を積んだ。その後は多治見市に隣接する土岐市にアトリエを構えることとなった。 

 「最初は自分の器をつくるのと並行して、焼きもの工場でも働きました。器づくりの勉強になりましたし、器づくりと人の生活が結びついているこの土地の雰囲気がよく理解できましたね」。 

 地道に発表し続けてきた作品があるとき、当時小山登美夫ギャラリーに勤務していた金近幸作さん(現KOSAKU KANECHIKAオーナー)の目に留まった。同ギャラリーへの持ち込みの機会ができて、赴くとオーナーの小山登美夫さんから「展覧会してみる?」と声がけしてもらえた。

 「器のギャラリーではなく現代美術のギャラリー、何か最初は造形にこだわったオブジェでもつくろうかなと思ったんですけど、そこで自分の本当にやりたいことは何か考え直してみるに、べつに変わったことがしたいわけじゃないと気づいた。陶器を制作するときいつでも生じ得ることに着目して、気になった一部を特化させたり、おもしろい現象を拡張したりして、器を自分なりに変容させていくことをしたいんだと自分でわかったので、ますますいろんな手法を試すようになっていきました」。

桑田卓郎のアトリエ内部

 現代美術のフィールドでの発表が増えるにつれ、素材や技法の特長を生かした創作は様々な発展を繰り返しながら、いまに至る。焼成したときに釉薬が縮れたりひび割れてできる「梅華皮(かいらぎ)」を強調したり、粘土内に混ざった石が爆ぜて表面に模様が付く「石爆(いしはぜ)」を意図的に起こしたり、粒を付けた表面に焼きを入れることで無数の突起を生じさせたり。土と火が織り成す現象と戯れるようにして、一つひとつ独自の表現を築き上げていった。

 観る者に強烈なインパクトを与え、類似するものも思い浮かばない桑田作品には、国内外で出品の依頼が引きも切らない。いまは美術館などでの個展の機会を欲している。

 「これまで自分がどんなことをしてきたのか、改めて考えるきっかけになるような、ある程度まとまった規模の個展をしたいですね」。

 オリジナルなかたちと色で埋め尽くされた、目も眩むような空間をぜひとも体験してみたいところだ。

桑田卓郎のアトリエ内部
桑田卓郎のアトリエ内部