アート集団Chim↑Pomは、2006年の「スーパー☆ラット」展で注目を集めて以来、広島市上空に飛行機雲で「ピカッ」という文字を描いたパフォーマンス《ヒロシマの空をピカッとさせる》(2009)、東日本大震災直後の2011年5月、渋谷駅の岡本太郎のパブリックアート《明日の神話》(1968〜69)に原子力発電所事故を想起させる絵をゲリラで付け足した《LEVEL7 feat.明日の神話》など、つねに社会状況に介入する作品を発表してきた。
2012年、Chim↑Pomが企画を手がけた「REAL TIMES」特集は、それまでの活動を踏まえながら、美術という領域を大きく越え、パブリック・スペースで新たな自由と公共を模索して活動するさまざまなアーティストを横断的に紹介している。
本記事に掲載する「スーパーラット論」は、Chim↑Pomメンバーの卯城竜太が「現代美術溶融」と呼ぶ同時代の状況について、ジャンルレスに綴った論考である。アメリカ同時多発テロ以降の監視社会化の進行、ネットと動画を通じた個人発信の重要性、クレーム、空気、自粛意識の高まりによって訪れつつある表現の自由の危機など、今日の状況を予見するような卯城の着眼点が数多く示されている。そしてそれらの状況に対して、より自由に、ときには過激に公共圏との関わりを築くストリートの表現が語られている。
毒餌への耐性を遺伝化させて都市で爆発的に増殖し続ける「スーパーラット」は、公共圏で進化して新たな表現を発信するアーティストたちを象徴しており、Chim↑Pom自身の肖像でもある。
2020年10月号「ポスト資本主義とアート」特集に関連して、卯城がポスト資本主義について「ウィズ化」というキーワードを端緒に論じた「ポスト資本主義は『新しい』ということを特権としない vol.1〜3」や、「公の時代のアーティスト論」をテーマにアーティスト・松田修と語ったシリーズ「The Public Times vol.1〜9」と合わせて読むことで、その思考と実践の変遷を辿ってほしい。
「スーパーラット論」 溶融する現代美術 増殖する突然変異
序
《スーパーラット》という作品をつくった。タイトルの語源はネズミ駆除業者の造語だ。罠への学習能力が高くなり、さらに毒餌への抗体を体内につくって遺伝化させて、都市で増殖を続けるネズミの愛称だ。
それから6年、海外への渡航が多くなって、帰国するたびに思うことがある。日本にはグラフィティが少ない。広告は世界一多いのに。まるで価値観が街ごと区画整理されているようだ。メディアも同様で、自粛はムードを越えて安定の域にまで達している。アートはさらに分際をわきまえようと遠慮がちで、公共の問題よりもマーケットが目下の目標になっている。アートバブルが弾けた後も、みんな夢から覚めていないかのようだ。
海外に行くたびに発見がある。21世紀を迎えたストリートでは、世界同時にヤバい経験が多発していたのだ。サンパウロ・ビエンナーレに参加した2010年。前回のビエンナーレを襲撃した「ピシャサォンSP」という集団がいた。廃屋の「より高いところ」を攻めるブラジル特有のグラフィティ・スタイル「ピシャサォン」の一派だ。といってもその手法は、種も仕掛けもスキルもなく2人どころか4人肩車やクライミングといった命知らずなもので、彼らが他のチームと競っているうちにビルはタグで埋め尽くされるから、街では独特なフォントで〝耳なし芳一〟のようになったビルをよく見かけた。彼らは前回、世界中からアートピープルが集まるオープニングに乱入し、会場のガラスを割り、ホワイトキューブにタグを書き殴って逮捕された。しかし、主催者側も心が広いというか貪欲で、今回は彼らを逆に作家として招待したのである。業界に呑まれるかアートを更新するか、歴史的瞬間となったビエンナーレに彼らが出した作品は、なんと落下事故でメンバーを失った際に撮影していた動画だった。
フランスのゼウスは、ビルボードのナオミ・キャンベルをカッターで切り抜いて「誘拐」し、広告主に50万ユーロの身代金を要求、そのジョークに「まさか」乗ってきたLAVAZZA社の払った身代金は、全額美術館に寄付された。同じくフランスのJRは、無名の市民たちの写真を撮り続け、世界中に貼り回っている。その活動は講演会TEDで評価され、JRはU2のボノやビル・クリントン元米大統領に連なるプライズを受賞した。権力との「戦争」をアートで宣言したロシアのヴォイナ、管理社会中国のダブル・フライ・アートセンター、ニューヨークの「どこか地下」で行われているスクワットギャラリー、公共放送局の天気カメラにキノコ雲を介入させたチェコのツトーヴェン……、どこに行っても「お前らみたいのがいる」とか「ある」と言われ、話がトルコにまで及んだ時には、さすがに僕にも地殻変動のようなドープな揺れと繋がりが確信できた。