キャメロン・ローランドの《Disgorgement》(2016)は、なんと契約書を展示した作品である。米国では19世紀に奴隷保険という奴隷の生命に保険をかける制度が存在しており、この作品では、かつて奴隷保険を販売していた保険会社エトナの株式を90株(約1万ドル相当)購入し、この契約書によって設立するトラスト(信託)に移転させている。この信託は、政府による奴隷制度に基づく賠償が終了するまで存続し、その時点でエトナ株式は売却され、代金は政府の基金に支払われると定められている。
このように、作品として契約書を用いるアーティストは別としても、契約書は見たくない、面倒だ、そう感じているアーティストは多いだろう。読んで面白いものではないし、できれば「お互いの信頼関係」というマジックワードで終わらせたいかもしれない。
しかし、契約書は、当事者の頭のなかを見える化し、共通認識を持ってビジネスを進めるためには大切なツールである。実際に争いごとが起こってしまったときに、契約書は大きな助けになる。それはアート・ビジネスでも同じだ。
今回は、アーティストが契約を結ぶ場面を想定して、知っておいてもらいたい基礎知識をお届けする。
1.「契約書」がない≠「契約」がない
まず、「契約書」がないことは、「契約」がないことを意味しない。契約は、口約束でも成立する。例えば、コレクターが「この絵画を100万円で買いたい」と言い、作品を所有するアーティストが「よいですよ。売ります」と言えば、売買契約の成立だ。
もっとも、口約束では何も記録に残らないために後から合意した内容を立証することが難しい。契約書は、合意した内容を明確にするためのツール、つまり、立証のためのひとつの方法である。
立証の方法は契約書に限らない。Eメールでもよいし、LINEのメッセージでも大丈夫。売買だったら売る作品と価格のように重要なポイントについては記録に残しておこう。合意した内容を後から互いに確認できることが大切である。
2. 見えざるルール
契約書に書いてあることは基本的にはそのままの効力があると理解してよい。ただし、契約書に書いてあることがすべてではない。ここが契約の難しいところでもある。
契約書に書いていない部分については民法や商法、著作権法など法律に定めがあればそのルールが適用される。
例えば、日本ではコミッション作品であっても契約書に著作権の譲渡に関する規定がなければ著作権は作品を創作したアーティストにある。お金を受け取ってもアーティストが当然に著作権を譲渡したことにはならない。
しかし、国によってはコミッション作品において写真の撮影、肖像画の制作をするときには、作品制作を依頼した委託者に著作権が帰属することを定めている国(シンガポール)もある(*1)。そのため、アーティストとしては海外の当事者との契約の際にはより慎重な対応が必要である。
3. 買取と委託販売
アーティストとギャラリー間での取引には、(a) 買取方式と(b)委託販売方式という大きく2つの方法がある。いずれの方法も作品が仲介者であるギャラリー(ディーラー)のもとにあり、ギャラリーは購入者を探して作品を売却することで利益を得るモデルだ。
委託販売の場合、作品が物理的にギャラリーに移動していても、作品の所有権は委託者(アーティスト)に残ったままである。これに対して、買取の場合は、作品の所有権もギャラリーに移転する。
買取はその名のとおり作品の売買なので、買取るギャラリーとしては資金が必要になる。そのため、多く用いられているのは委託販売の方法である。
委託販売は、委託者(アーティスト)の利益のために受託者(ギャラリー)の名義で第三者に作品を販売して、利益を得る形態の取引をいう。この場合、第三者(コレクター、買主)とのあいだで売主としての義務を負うのは、委託者(アーティスト)ではなく、受託者(ギャラリー)になる。
契約書がないときや契約書があってもとくに規定されていないときに適用される委託販売の見えざるルール(法律が定めるルール)については意識されていないことが多い印象がある。
具体例で説明しよう。アーティストが販売を委託したギャラリーがあるコレクターに作品を販売し引き渡したとする。通常であれば、ギャラリーも代金の支払いがなければ作品を引き渡さないのだが、過去にも作品を購入しているコレクターであり、強い要望があったため、今回の取引では作品の引き渡しを先に行った。
しかし、その後支払期日が来ても代金が支払われない。ギャラリーは代金を受け取れず、アーティストもギャラリーから代金の支払いを受けられない状態になってしまう。その後、コレクターとは一切連絡がとれなくなってしまった。
さて、アーティストは、作品も返してもらえず、その代金も誰にも請求できないのだろうか? じつは見えざるルールがあり、商法では、アーティストは、ギャラリーの相手方(コレクター)が義務を履行しない場合、受託者(ギャラリー)に履行請求できることが定められている(*2)。
ギャラリーは、アーティストに対して、コレクターから代金を受け取ったかどうかにかかわらず、作品代金の支払いをしなければいけないのである。
4. アーティストとギャラリーとの分配割合
アーティストがギャラリーに委託した作品が売れたときに50:50で分配することが慣例上多いのは実際そのとおりである。しかし、50:50という分配割合は何か法律で決まっているわけではない。アーティストとギャラリーとの交渉事項である。
ギャラリーがぜひ取り扱いたいと思うアーティストであれば、アーティストの分配割合を多くすることもあるし、逆にアーティストのほうがこのギャラリーに取り扱ってもらいたいという意向が強いケースではギャラリーの分配割合が多くなることもある。
5. スタジオセール(アーティスト自身による販売)
アーティストがギャラリーと契約を結んでも、とくに明示して禁止されていないかぎり、アーティストが自分自身で作品を販売することは可能である。
ただ、近年アーティスト自身でもウェブサイトの制作、オンラインでの販売を低コストで行うことが可能となっているため、ギャラリーがアーティスト自身での販売を制限することもある。アーティストとギャラリー間で事前に話し合い共通認識をつくっておくことが大切だろう。
6. 専属契約
いわゆる「所属作家」と「取り扱い作家」の違いはギャラリーと専属契約を結んでいるかによる。所属作家は、原則として特定のギャラリーに作品販売の窓口を独占させる形態の契約である。
専属といっても全世界をカバーするギャラリーはないので、独占の権利が認められる国や地域を決めるのが通常である。
また、原則として専属ということで、ギャラリーが承諾したときや一定の例外事項に当たるときには対象外とすると定めることもある。ただし、例外事項は明確に規定しないと争いになってしまう。
2019年9月27日に判決が出たと報道されたアーティスト・千住博と画廊との販売契約をめぐる裁判でも、契約書における専属に関する条項の例外を定めた文言の解釈が争点になっている。
交渉なので、つねに自分が望むかたちの文言になるわけではないが、とくに注意して取引経緯を知らない第三者(裁判官)が読んでも明確に理解できるように規定しなければいけない事項である。
7. 契約書は必ず読むこと!
最後に、契約書は必ず読もう! 契約書を読まないで判を押したり、サインをしたりすることは絶対に避けるべきである。内容を知らなかったと後から言っても、判を押した契約書がある以上は覆せる保証はない。
例えば、作品に関する著作権の譲渡について定められていないか。このような条項は法律上もちろん有効なので、契約書に押印すれば、アーティストが作品に関する著作権の譲渡に合意したことになる。
アーティストとギャラリー間の契約にこのような条項が入っていることはまずないが、アーティストと美術業界とは関係のない会社との間で商品やパッケージなどに作品を使用する契約を結ぶ場合には、著作権の譲渡が規定されていることもありうる。
著作権を譲渡するということは、アーティスト自身が同じ作品(+似ている作品)を制作するにも著作権者の許可が必要になり、アーティストのその後の創作活動に支障を与えるおそれもある。
裁判に至るまでのケースは少ないが、実際に米国の古い裁判例では、フォトグラファーが撮影したモデルのヌード写真《Grace of Youth》に関する著作権を他の者に譲渡したにもかかわらず、2年後に同じモデルに同じようなポーズをさせて再撮影し、異なるタイトル《Cherry Ripe》を付けて使用したところ、譲渡した《Grace of Youth》の著作権侵害であると認められている(*3)。
繰り返しとなるが、契約書は必ず読もう! 少なくとも契約書としての本来の使い方をするならば。
*1──シンガポール著作権法30条(5)。
*2──商法553条本文。
*3──Gross v. Seligman, 212 F. 930 (2d Cir. 1914).