女性アート・コレクティブの現在。小田原のどか×百瀬文 対談(前編)
シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(10)

世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになったが、日本の美術界の現状はどうか。美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第10回ではアーティストの小田原のどかと百瀬文が、現在日本で活動する女性のアート・コレクティブについて語る。

構成=杉原環樹

小田原のどか ↓ 1923-1951 2019 あいちトリエンナーレ2019での展示風景 撮影=平林岳志

「男性的な言語」から「おしゃべり」へ

小田原 今回、百瀬さんとぜひお話ししたいと思ったのは、『Multiple Spirits/マルスピ』というクィア系のアートZINEを読んだことがきっかけでした。このZINEは、俳優・美術家の遠藤麻衣さんと批評家・キュレーターの丸山美佳さんが立ち上げたもので、そこに収録された百瀬さんが参加した鼎談(百瀬文+多田佳那子+遠藤麻衣、聞き手・丸山美佳)を面白く拝読しました。それで、私と百瀬さんはかなりタイプが違うなと思ったんですね。言語に対するとらえ方や制作に臨む態度、現状認識の部分でもいろいろ違いがあって、そういうところをお互いに知り合いながら知識を交換してみたいと思ったのが一番のきっかけです。

 いっぽうで、女性のアート・コレクティブの話をしたいという思いもありました。今回のシリーズの第3回に登場されたキュレーター・藪前知子さんは、そのインタビューのなかで、女性のコレクティブや書き手が少ないという現状認識を示されていました。でも、私や百瀬さんの周りって、じつは女性のコレクティブや書き手がいないわけではないじゃないですか。

百瀬 数が少ないわけではなくて、ピックアップする構造自体にそもそも偏りが生じているから見えてこないというのが、ひとつ前提としてあって。これは藪前さんも指摘されていましたね。

小田原 そうですね。実際、そうしたコレクティブの存在は広く知られているとは言いがたい。なので、この対談の前半では、女性主体のコレクティブがいまどんな動きをしていて、何をやっているのか、紹介し合いながらおしゃべりを始められたらなと思っています。

まず、「マルスピ」の話から始めましょう。「マルスピ」はコレクティブなのでしょうか?

クィア系アートZINE『Multiple Spirits』 vol.1「洗面器のムーンライト」(2018)

百瀬 コレクティブというより、やはり雑誌ですね。個人的には、「マルスピ」がやっていることというのは、パンク音楽やZINEを通じてフェミニズム思想が草の根的に広まった、1990年代のライオットガールムーブメントを参照したものだととらえています。つまり、アカデミズムとは違う、DIY精神に根付いたフェミニズムをポップカルチャーのほうに波及させたその方法論を、いわゆるアート批評のなかでシミュレーションしてみるっていう試みなんじゃないかな、と。

 実際、「マルスピ」では扱われるモチーフも90年代の少女マンガのイメージだったり、創刊号の表紙は明治期に女性知識人たちが発行していた雑誌『青鞜』の表紙をオマージュしたものだったり、そういうところを意識的にやっていて。また文体レベルでのアップデートも興味深いですね。私は、いわゆる従来の美術批評やシンポジウムなどの場で使われるような言葉を「男性的な言語」と呼んで反感を買ったことがあるのですが(笑)、それはかつてそのように知の体系を構築していったのがほぼ男性であったという事実に、ただ暫定的な名前をつけただけにすぎないと思っています。「マルスピ」の鼎談は、いたってテーマ自体は真面目なんですが、自分たちの語彙で喋るということ、等身大の批評言語で話すことといったような意識が参加者のなかで共有されています。

小田原 鼎談のなかでも絵文字を使ったりと、誌面づくりにも批評的な精神がありますよね。百瀬さんの言葉で言えば、「男性的な言語」とは別の言葉のあり方、オルタナティブを示す実験的な試みだと思うと同時に、親しみやすくもある。距離が近い言葉を駆使しながら、自分たちの身体を通じてものを考え、発信していく精神があるなと思ったんです。

イベント「くちびるから散弾銃(ニューヨーク・フェミニズム編)」(Art Center Ongoing、東京、2018)のコンセプト写真。左から百瀬文、地主麻衣子

百瀬 その鼎談のきっかけには、私とアーティストの地主麻衣子さんがArt Center Ongoingで企画した「くちびるから散弾銃(ニューヨーク・フェミニズム編)」というトークイベントがありました。これは、お客さんにもマイクを渡しながら、身近なポップカルチャーのなかのフェミニズムの問題や、女性であることの不自由の問題まで、多岐にわたる話題をリレーしていくようなイベントでした。女性たちと、従来の批評からはこぼれ落ちる言語や言葉未満の雰囲気を共有できる場所をつくりたかった。ちょうどアラーキー(荒木経惟)をめぐるハラスメント問題が発覚した直後で、みんなどこかに集まって話す場所がほしかったのかもしれませんが、このイベントはとても盛り上がったんですよね。

 もうひとつ、「マルスピ」の言葉の背景には、過去の自分への反省みたいなものもありました。というのも、私はデビューが早くて、当時は作品もいまよりロジカルなつくりをしていたので、例えば批評家にピックアップされるたび、自分も同じような語彙で話さなければいけないという、なんだろう……その言語を内面化していくようなプロセスがあったんです。でも、まるで輸入された言葉を使っているような、自分の実感やリアリティとうまく接続できないままに言葉だけが上滑りしていくような感覚があった。

 日本のアートシーンでは、批評家と作家がある種の共犯関係を結んで言説をつくるさい、主に男性が共有している批評の語彙を持っていないと、その土俵に乗りづらい空気があると当時の自分は感じていて。私も最初はその土俵に頑張って乗らなければと思っていたんですけど、結局、それは自分を男装化することでしか到達できないものなので、自分の生身の身体性とのあいだにどんどん乖離が生じてくる。そうした葛藤のなかで、私自身も周りの女性アーティストたちに、「もっとしっかり喋ってよ」と圧をかけるようなことを言ってしまったことがあったと思います。そういう反省もあって、「マルスピ」の鼎談では、自分の身体性と言葉の噛み合わなさをもう一回引き受けて、「おしゃべり」というかたちに言葉に置き換え文体レベルで解体していくことを、もっと意識的にやりたいと思ったんです。

 

共生のための/普段着のフェミニズム

小田原 百瀬さんのおっしゃる「男性的な言語」とは、基本的に発話者のジェンダーには依らないわけですよね。

百瀬 そのとおりです。そういった言語を意識的に扱う女性もいるでしょうし、意識的に扱わない男性もいると思います。ただ、それを批判せねばならないということを言うためにこういう言い方をしたいわけではなくて、もうすこし個々が各々の身体性に引き寄せた言葉で話してもいいんじゃないか、というニュアンスですね。

小田原 たぶんその言語との距離感が、私と百瀬さんで違うのかなと思うんです。自分の話をすると、私は30歳まで大学院にいたんですね。なので、百瀬さんに比べるとデビューは遅かったですし、アカデミズムの世界で自分の言語を懸命に模索した時期が糧になっている部分があります。そうしたなかで、私は「マルスピ」で語られたような軽やかなフェミニズムのあり方も良いなと思ういっぽうで、言語に男女の区別はあるのだろうかとも思っていて。既存の言説が男性主体でつくられてきたことはもちろんそうです。そのような構造的な不均衡に自覚的でありながらも、そこに私は女性の身体を持った書き手として入り込んで、従来は光が当たらなかったものを記述し、差し込んでいく作業もしなければならないと強く思うんですね。「男性的な言語」による言説だからこそ、それを自覚し反省しながら、そこに女性の身体が参加する必要性があると思うんです。そういう闘い方を選んだ上の世代の女性の書き手たちがやってきたことを継承したいと思っています。

 というのも、2019年のいま、フェミニズムやジェンダーをめぐる思想は、もちろん構造的な不均衡を打破し変革を促すためのものでもありますが、「加害者」を断罪して引きずり下ろすための闘争の武器であるというよりも、ともに生きていくための道具立てだと思うからです。かつて女性たちが声を上げ始めた時代の問題意識と異議申し立ての歴史には最大限のリスペクトを持ちながら、そしてある暴力の構造のなかにいる人が緊急的に告発を行うことの必要性が絶対にあるのだということも理解しつつ、それでもやはり、人と人が「違う」ということを受け止めながらともに生きてくためのあり方をどれだけ豊かにできるのか、それを考えたいと思うんです。

 闘うことだけが目的になると、つねに「敵」を探さなくてはいけなくなって、内部にも排除の思想が強く働いてしまいます。だからこそ、百瀬さんのキーワードの「JOYのためのフェミニズム」がとても重要だと思っていて。立場の違いを超えてお互いに交感し合いながら、「ひとつ」になるのではなくて、バラバラのまま一緒にやっていきたいというのが私にとって基本のスタンスです。

百瀬 既存の批評のあり方も、それが自分をエンパワメントするツールとして機能すれば、ポップカルチャーともつながる波及力を持つと思うんです。私自身も、体系的にフェミニズムを勉強したわけでは全然なくて、本当にそのつどの興味で自分を勇気づけてくれる書物にアクセスしてきたところがある。いっぽう、周りにいる若い女性アーティストの意見を聞いてみると、フェミニズムの知識がない自分がフェミニストを名乗ってはいけないのではないかという、枷みたいなものを感じている人はすごく多いんですよね。その意味で、批評やアカデミズムの敷居が下がっていくことは、すごく良いことだと思いますし、アカデミズムの方も現場の声を必要としている部分があるわけじゃないですか。もっと気軽にお互いが行き来できたらいいなって思いますね。

小田原 ちなみにこの「マルスピ」の流れからは、今年の夏、「female artists meetingのための展覧会(どのような秘密や緊張、葛藤が生まれるだろう!)」という展覧会も開催されていますね。

「female artists meetingのための展覧会(どのような秘密や緊張、葛藤が生まれるだろう!)」(Art Center Ongoing、東京、2019)での展示風景 撮影=宮川知宙

百瀬 これは、Art Center Ongoingで行われたうらあやかさんと津賀恵さんの展覧会です。「meeting」というタイトルの通り、女性アーティストたちが集まる場をつくること自体に重きが置かれていて、ミーティングの開催にあたり、「female artist」であるという自認がある人だけが参加できるという枠組みが設けられていました。

小田原 彼女たちは招待状をひとつずつつくっていて、私もいただいたんですね。日程が合わなくて展覧会にうかがうことはできなかったんですが、このプロジェクトの重要な点は、「あなたも次の誰かに招待状を渡してください」と、受け手にアクションを促す仕組みになっていること。作家ふたりだけが中心になるわけではなくて、運動の広がりが意識的につくられていましたよね。

性自認が女性であるアーティストを対象としたイベント「female artists meeting」(Art Center Ongoing、東京、2019)の様子

百瀬 うらさんと津賀さんが書いたステートメントでは、「普段着としてのフェミニズム」という言葉が使われています。裸になって訴えかけるようなフェミニズムではなく、ボーダーの長袖Tシャツみたいなフェミニズムはないのか、と。「裸になる」というのは、虐げられた自分の身体を露わにするようなパフォーマンスがフェミニズム・アートの典型的な現れ方であることを前提にしていますが、そうではないフェミニズムというのは重要な問いかけだと思います。このステートメントも、いわゆる強く理知的な「ウーマン」の言葉ではなく、岡崎京子のマンガを思わせる「バッドガール」調の挑発的な文体で書かれていて、そこも魅力的ですね。

 

女性コレクティブ、それぞれの問い

百瀬 私のほうからはほかに、「sabbatical company」(サバティカル・カンパニー。以下サバカン)と、「hanage」という、最近の女性コレクティブについて紹介させてください。

 サバカンは、杉浦藍さん、益永梢子さん、箕輪亜希子さん、渡辺泰子さんという4人のアーティストのコレクティブです。女性コレクティブの動向をいろいろ見ていて面白いなと思うのは、従来のコレクティブが自らの美術史上での位置付けを意識し、そのアクセスを可能にする振る舞いとしてマニフェストを出すのに対して、女性コレクティブってあんまりそういうことがないんですよね。どっちかと言うと、身の周りの環境のインフラに意識が向かっているというか。

 「sabbatical」とは自分の専門性を磨くための長期休暇のことで、「company」の語源には「ともにパンを食べる仲間」という意味があるわけですが、まさにサバカンでは、普段の個人的な制作はそれぞれのタイムラインで駆動していて、その隣にある別のタイムラインとしてコレクティブを設定していると思うんですね。かつ、それは持続的ではなく、そのつど瞬間的に生まれる化学作用のようなつながりでもある。

小田原 20世紀の芸術の特徴は、作家主導のマニフェストが展開されることによる理論化の歴史とも言えると思いますが、戦略的に理論化しないことを選択しているということですか?

sabbatical company 靴下を染めにいく 2017 Photo by Sabbatical Company

百瀬 理論化しない、ということとは違うようです。従来の社会構造に属さない時間には価値はないのか?という問いを、個人の作家活動とは違うところで、必ずしも展覧会とはならないかたちで展開している。例えば彼女たちの具体的なプロジェクトで言うと、そのときたまたま「藍染に興味がある」というメンバーと、「青い靴下がほしい」というメンバーがいて、それを『青鞜』のもとにもなった18世紀のブルーストッキング運動に接続させることを思いつくんです。彼女たちは、自分たちの靴下を藍染で青く染めるというプロジェクトを行い、その趣旨に賛同してくれた人の靴下も一緒に青く染める、といったふうに展開させました。興味深いのは、題材自体がダイレクトにフェミニズムの歴史を扱っているにもかかわらず、あくまで発端は「青い靴下がほしい」といったような、むしろアーティストの個々の日常、余暇の延長としてこのプロジェクトが始まっているということです。そして彼女たちは、そうした「ともに時間を過ごすこと」そのものが、10年以上の長い射程で見たときに、新しい「語り」の可能性になるというのですね。

小田原 サバカンさんたちは、制作場所を共有しているわけでもないんですよね。

百瀬 一緒ではないですね。私のイメージでは星の軌道がそれぞれあって、ペースもみんなバラバラなんだけど、あるタイミングが来ると日食みたいな感じで重なるような、お互いの時間を思い合うみたいなことに主軸が置かれているのかなと想像しました。

hanage「セメントと手紙」(LOOP HOLE、東京、2015)での展示風景 撮影=椎木静寧

 もうひとつの「hanage」は、戸田祥子さん、青木真莉子さん、秋山幸さんの3人によるコレクティブです。彼女たちは2015年にLOOP HOLEで「セメントと手紙」という展覧会を開催しているのですが、この展示のステートメントで言及されているのは、アーティストの「制作」という行為の裏側にある、日々の糧のための「労働」という行為なんですね。そのなかには、報酬のある仕事のみならず、普段女性アーティストが家庭内で行っている報酬にならない仕事、シャドウワークについての記述も含まれていました。実際に、これ以降のhanageの活動は、育児と制作の関係性など、家庭の運営をめぐる問題を取り上げることが多くなっています。

 「セメントと手紙」というタイトルは、葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」というプロレタリア小説から引用されたものです。この小説では、夫が機械に巻き込まれてセメントの粉になってしまい、行き先を案ずる妻がセメントになった夫が入っている樽に手紙を忍ばせる。つまり、自分の労働がいつかどこか別のものになって誰かのもとへ届くかもしれないということと、自分たちが普段やっている活動の内容をリンクさせて、展示をつくっているんです。

 この「hanage」の活動でも、既存の美術史へのアプローチよりも、自分たちのインフラをどのようにアップデートできるのかに関心が向かっているのが興味深いなと思います。日々さまざまな雑務に追われる自らの身体と、作品自体は切り離すことができるのか。労働と制作の境目はどこにあるのか。そうした問いを、展示やトークイベントを通じて発信している。

レンカ・クレイトンのInstagram(https://www.instagram.com/lenkaclaytonstudio/)より

 その流れで言うと、コレクティブではないですが、レンカ・クレイトン(Lenka Clayton)というアーティストの活動も面白いです。彼女は、現在ピッツバーグを拠点に置く、メトロポリタン美術館にも作品を収蔵されている作家ですが、出産を機にアーティストライフが変わってしまったことの自覚から、「Artist Residency in Motherhood」というアーティスト・イン・レジデンスを自分自身に課すんです。

 そこでつくられた作品が面白くて、例えば息子をトコトコ歩かせて、どこまで遠くに行ったら自分は走って抱きかかえに行くのか、それをギリギリまで待つという映像作品だったり。そんな風に日常のなかにアーティスト・イン・レジデンスという枠組みを仮設することで、母親であることを隠蔽するのではなく、自分のアイデンティティとして引き受けながら作家活動をしている。

 この背景には、アーティスト・イン・レジデンスという仕組みが基本的に家族の同伴が許されない、単身者に有利なシステムを持つことへの問題提起があります。また、以前マリーナ・アブラモヴィッチが、女性アーティストが大成できないのは子供を産んだ後にキャリアが築けないからだと、子持ちの作家を否定するような発言をして炎上したことがありましたが、クレイトンの活動はこのアブラモヴィッチの発言に対するアンサーにもなっている。

 ただいっぽうで、女性作家の「母親」という側面のみを取り出して神格化するのは危ういことでもあります。あくまで、どんな選択をした女性アーティストにも平等な機会、インフラができるかぎり与えられるべきという視点を持ち続けることが大切だと思います。

 

連帯を超えた制度へのアプローチ

小田原 私から紹介したいのは、内田百合香さんの呼びかけで今年結成された「ひととひと」というコレクティブです。内田さんをはじめ、工藤春香さん、神谷絢栄さん、ジン・ヨウルさん、高橋ひかりさんで構成されていて、2020年春に開催予定の展覧会に向けて、いろんな勉強会を開くなどの活動をされています。

 じつは「ひととひと」は性被害の「当事者」である方が中心になって結成されているのですが、いいなと思うのは、具体的な制度の観点から問題を解きほぐそうとしている点です。例えば、女性に不利にできている現状の性犯罪に関する刑法を考えるため、法律家を招いて勉強会を開き、その是正のかたちを考えることをしていたりする。「被害者」の立場からの連帯にとどまるのではなく、制度的な改善策の模索も含めてコレクティブで行っているのが、従来にはなかったと思うところです。

 それに関連して、私の友人でもある現代美術家・文筆家の柴田英里さんが書いた「いつまで“被害者”でいるつもり? :性をめぐる欲望と表現の現在」(『早稲田文学増刊 女性号』2017年9月)という論文があります。この論文はいまこそ読み直すべき内容で、彼女はそこで、被害者意識だけの連帯では袋小路だということを説明している。それは、性被害やハラスメントに対して声を上げた人々の声をなかったことにするということではもちろんありません。それらの声に対して「もっと言い方を工夫しないとダメだよ」「そんな言い方では聞いてもらえないよ」などと諭すのは絶対におかしい。そうした声のなかにどんなメッセージがあるのかを感じとるのは、声を聞く側の能力の問題です。こうしたことを考えるうえでも、柴田さんの問題提起は重要ですし、「ひととひと」さんはそれを開かれたアクションとして展開して、模索しているのだと思います。

 そして、長倉友紀子さんと渡辺泰子さんによる「Timeline Project」の「WOMEN Artists & History」がトーキョーアーツアンドスペースで12月6日より開催されます。女性アーティストの存在をタイムラインとして可視化しようという取り組みで、今日話題にあがったマルスピやサバカン、そしてエゴイメ・コレクティブ、Back and Forth Collectiveなどの女性主体のコレクティブが関わっています。

 女性主体のコレクティブが立ち上がる必然性というのはそれぞれにあって、共通の特徴みたいなものを見出すことはできないのかもしれません。「ひととひと」さんは、活動を通じて駆け込み寺的なものをつくりたいという構想もあるようです。困ったことがあったときにアクセスできたり、知識が蓄えられたりしていく場所としても、これからさらにいろんな動きをしていくのだろうと思います。

百瀬 それぞれの連帯の目的の違いを「分断」と言うのではなくて、自分が感じた痛みが他の人には別のかたちで現れているのかもしれないと想像する、そうした連帯のあり方を探れたらいいんじゃないかなと思っていて。東京都写真美術館の「しなやかな闘い ポーランド女性作家と映像 1970年代から現在へ」展に出品されていたアンナ・ヨヒメク&ディアナ・レロネク(Anna Jochymek / Diana Lelonek)の映像作品に、「女性を嫌う女性はいらない、なぜならそれは家父長制の思う壺だから」といった内容のテロップが重なる場面があったんです。シスターフッドの難しさはいろんなところで聞かれますけど、私はやっぱり諦めたくないなと思っています。

小田原 そうですね、私も諦めたくないです。いっぽうで、「強く連帯せよ」みたいな圧力も感じるんです。点としてあるだけでは弱い、と。私自身、女性の書き手としてもっと横の連帯をつくるべきだと複数の方に言われたことがあって。もちろんそれもひとつの方法だと理解していますが、個人がそれぞれ選択すべきことですよね。私としては、「個」としてあることを大切にしたいと思っています。そのうえで、あなたと私はこんなに違うんだ、ということを通じて対話をしていきたい。

百瀬 私も、安易に「私たち」という主語で喋ることに抵抗があるんですよ。誰かの声を自分に引き寄せて代弁してしまうことの危うさを想像するので。私は私の、あなたはあなたのそれぞれの「個」を生きているということをどれだけ想像できるのか。それこそサバカンさんの活動に見られるような別の星の軌道、別のタイムラインを生きている女性の身体を想像するようなことが、どれだけできるかだと思っていて。

小田原 「女性の身体」というのはとても重要なキーワードですね。女性の個別の身体というものがあって、それを通じて出てくる言葉をもっと丁寧に見ていきたいというのは、私と百瀬さんの共有する問題点だと思います。

 同時に、女性たちの取り組みが、既存の言説や美術史の枠組みのなかで扱われにくいのは、ひとつには、批評する側やメディアの問題も大きいと思っています。語りにくいからこそ批評するのだ、ピックアップするのだ、という態度の少なさの露呈ではないのかと。語りにくいものをこそ語る必要がありますし、ジャーナリズムで言えば、世論が過熱したときにそれをほどよく冷ます務めがあるはずです。語りやすいものや支配的な言説を強化したり、世論が一方向に傾いたときにそれに油を注いだりするのではなく。そのような意識の希薄さが、大きな問題としてあると思います。私自身は作家であり、評論を書くこともしていますが、つねにそういった姿勢を自覚的に持っていたいと思ってやっています。それが、彫刻やモニュメントを通じて、戦時の加害、敗戦、占領、そして広島、長崎、福島などについて積極的に書こうという動機になっています。

百瀬 今回、比較的新しい女性コレクティブの活動をリサーチしていて、私も同じようなことを思いました。いままで女性アーティストの身体にまつわる記述というのは、ときに作品の隣にあるエキセントリックな物語として美化もされつつ消費されてきたのでしょうが、彼女たちは他者の語彙ではなく自分たちの語彙で語りなおすということを始めようとしているのだと思います。

小田原 その意味でも、「マルスピ」の登場のように、メディアが増えることは大事なことだと思うんです。私もそのような思いから自分で版元を運営しています。もちろん、既存のメディアのなかで決定権をもつ女性が増えていくような仕組みづくりも重要ですし、雑誌などの媒体をつくるのはコストやクオリティの維持の問題もありますが、最近は批評家の黒嵜想さんと福尾匠さんの「ひるにおきるさる」や、みそにこみおでんさんの「レビューとレポート(仮)」のようなnoteを使ったメディアも生まれている。紙媒体ではharu.さんが編集長を務める「HIGH(er) magazine」の取り組みも面白いです。そうやってメディアの数が増えて、そこに女性やマイノリティが関わっていけば、必然的に多様性が広がりますよね。そうしたインフラの整備は、硬直した現状に対するカウンターになり得る。だから、なんでも聞いてくれれば答えたいと思っています。来年からは自分の版元から美術の翻訳書を出したりもするのですが、そういった権利関係のことなども、知りたい人がいれば惜しみなくやり方を伝えたい。そうやって、行動を起こす人を応援し、増やしたいと思っています。

左から小田原のどか、百瀬文

対談後編「あらゆる人間に必要なジェンダーへの思想、その実践」