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イデオロギーでは何も変わらない。
キュレーター・長谷川祐子インタビュー シリーズ:ジェンダーフリーは可能か?(8)

世界経済フォーラム(WEF)による2018年度版「ジェンダー・ギャップ指数」で、日本は「調査対象の149ヶ国中110位」という低順位であることが明らかになったが、日本の美術界の現状はどうか。美術手帖では、全11回のシリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」として、日本の美術界でのジェンダーバランスのデータ、歴史を整理。そして、美術関係者のインタビューや論考を通して、これからあるべき「ジェンダーフリー(固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること)」のための展望を示していく。第8回では、一貫して「ポスト・ヒューマン」のテーマに向き合ってきたキュレーター・長谷川祐子に話を聞いた。

構成=杉原環樹

「トランスフォーメーション」展(東京都現代美術館、2010-11)の展示風景

 「ジェンダー」の枠組みを解凍する

━━長谷川さんが1997年に企画された「デ・ジェンダリズム 回帰する身体」展(世田谷美術館)は、ジェンダーの枠組み自体を相対化し、自分の身体の微細な感覚をありのままに表現した作品を集めた展覧会で、当時とても先鋭的な試みでした。はじめに、この展覧会を企画した際の思考や状況について聞かせてください。

 企画の背景のひとつには、単純な「女性」というカテゴリーで美術展が行われることに対する疑問がありました。当時、国際的に様々なアーティストと会うなかで、例えば出品作家でもあるモナ・ハトゥムやレベッカ・ホルンから、「女性だからという理由で展覧会に呼ばれるのは嫌だ」「『女性』展には疑問を感じる」という声をよく聞きました。そうした単純な枠組みの設定の仕方は、自分の表現の多様な解釈に制約を与えてしまう、というわけです。私はキュレーターとして、この考え方に共感を抱いていました。

 そこで、自分の本当の素の身体、アイデンティティを形成するものを含め自分を組成しているものに回帰しようと、この問題に連なるアーティストを集めた展覧会を考えたのです。当時、すでにマシュー・バーニーなどはセクシュアル・フルイディティ(性の流動性)をテーマにしていました。彼自身はストレートですが、社会には自分で性を決定しなければいけない人もおり、当然その自由があります。けれど、ジェンダリズムというものを決定的なものとして考えることは、かえって個人の思考やアイデンティティを拘束してしまうことになる。そこで、ジェンダーを解凍しよう、と考えたのです。

━━展覧会タイトルの頭に付けられた、打ち消しを意味する接頭辞「de-」には、その意味が込められているわけですね。

 また、日本では男性がガバナンスの主体となってきた歴史があるいっぽう、男児と女児を入れ替える平安期の『とりかへばや物語』や、男性がひらがなを発明しつつ女性名で作品を書くような、特殊に絡まったジェンダーの背景があります。漢字を使う大中国の男性性に対して、日本はある種フェミニンな立場から、それをどう自分の文化に転換し得るかを考えてきた。この構図は、戦後には対アメリカに変わりますが、いずれにせよ、日本ではマッチョさやフェミニティはこれらの国々のような明確な形態を取らない。さらに、近代以降の日本にはヨーロッパのような明確な社会階層制もありません。そのとき、戦後日本におけるジェンダーの意味を考えるならば、欧米の理論とは別の思考が求められるだろう、と。

 ここには、日本人の変身好きも関わります。『とりかへばや』や宝塚歌劇団もそうですが、日本には男女が入れ替わることをゲームのように楽しんだり、様々な立場のあいだを自由に横断したりするような文化がある。そんなこの国で、ガチガチのフェミニズムの展覧会をやることは、私には考えにくかった。だから企画のいちばんの理由は、西洋から輸入された政治と結びつく既存のジェンダー論に対する、単純な疑問があったということです。

「デ・ジェンダリズム 回帰する身体」(世田谷美術館、1997)の展示風景

━━展示にはこれまで挙がった名前のほかに、エヴァ・ヘスや草間彌生、マリーナ・アブラモヴィッチ、馬六明、八谷和彦、ヴィト・アコンチなど15名が参加しています。

 私のテーマは、当時から現在まで一貫して「ポスト・ヒューマン」の問題に連なります。ジェンダーは人のアイデンティティの一部ですが、ここではセクシャリティと絡めて、自分の内的な文化の蓄積がいかに身体に反映されているのかを考えさせる作家を選んでいきました。ちょうどこうした問題を扱う作家が増えた時期でもあったんです。

━━長谷川さんの問題意識は現在では理解しやすいですが、当時は日本のアート界でもジェンダー論争が盛んな時期でした。展示に対する反応はいかがでしたか?

 もちろん、フェミニズム論壇の方たちにはたいへん叩かれました。いま(1997年当時)、その活動を通してようやくジェンダーの意識が日本に確立されつつあるのに、それを解凍するとはどういうことだ、と。当然、ジェンダー・ポリティクスが社会的に果たした機能や意義は認めています。しかし、私は、それをアートの展覧会にそのまま持ってくることに関心がなかった。むしろ、私としては、そこに違和感を持つアーティストの声を聞き、その前提にあるジェンダーそのものの相対化こそをやりたいと考えていました。それが私の展覧会におけるポリティクスでした。

マシュー・バーニー グッドイヤー フィールド:クレマスター 1996 「デ・ジェンダリズム 回帰する身体」(世田谷美術館、1997)での展示風景

社会のエコロジーの一部としての性

━━長谷川さんが注目したトランスな感性は、例えば、「サイボーグ宣言」(1985)で知られる生物学者・思想家のダナ・ハラウェイが、アート界の影響力を示す「Power 100」で上位になる(2017年は3位、2018年は67位にランクイン)など、近年また新たに注目を集めています。

 2001年に総合コミッショナーを務めた第7回イスタンブール・ビエンナーレでは、まさにサイボーグ・フェミニズムに連なるイ・ブルのシリーズを展示しました。メドゥーサの首の彫刻があるローマ時代の地下貯水場に、押井守の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)とともに展示したのです。「動物」と名付けられた、身体のメタファーとしての作品のパーツを、観客が自由に置き換えることができるリジア・クラークの彫刻も見せています。当時、ハラウェイの理論はアートの世界でよく引用されており、そこには、子供を生まないサイボーグを通して、女性を生殖の負担から解放するという強い考え方がありました。イ・ブルは、韓国という家父長制の強い国で、巧みな戦略を持ってこの問題を表現につなげていました。

 ただ、彼女もまた女性という視点で作品が語られることに違和感を持つ人で、実際、その後はより複雑で有機的な立体や都市模型の作品を手がけました。私は、彼女のその展開は非常に理解できましたし、やはり一度ジェンダーを扱ったからと言って、その人がずっとジェンダーの問題を扱うと考えるのは、つくり手に失礼なことでしょう。

━━ジェンダーに対する問題意識を作品や展示に持ち込むことは有意義な議論を生むいっぽう、下手をすれば、女性アーティストのイメージにバイアスをかけてしまったり、女性性そのものを記号的で画一的なものにしてしまったりする可能性もあります。

 今年のアート・バーゼルで、かつてのフェミズニム・アートの代表作家であるヴァレリー・エクスポートが注目されていました。パブリック・スペースの構造にあわせて自分の身体を「インストール」したり、映像における男性の窃視的な構造を批判するようなパフォーマンスや映像、写真で有名な作家ですが、その表現はある種とても記号的で分かりやすい。彼女の再評価は面白い現象ですが、それはやはり、多様なジェンダー表象のひとつに過ぎません。私自身は、これだけ多くの性のあり方があるなかで、作品を既存のイデオロギーに紐づけることはアートをつまらないものにすると思います。むしろ、現代社会のエコロジーにおいて、ジェンダー問題がどのようにほかの領域と相互に絡んでいるのかを見たほうが面白い。

━━その意味で、近年注目しているアーティストはいますか?

 ジュリアナ・ハクスタブルです。彼女は詩人としての文章も優れていますが、ネットの言葉を通じて自分の身体が被る変容に対して非常に意識的です。しかし、ジュリアナがジェンダー表象の新しい旗手かというと、彼女は他方でスキンヘッド文化とネオナチの関係などの分析も行っています。かつては反体制のパンクスの象徴だった髪型が、いまや超右翼の象徴になった。こうした、ファッションや外観と思想の関係を考えながら、それを自身の表象に移し替えている。ジェンダーの問題は、その一部に過ぎないわけです。

 もちろん、社会制度上の不平等は解消されるべきですが、それ以外のジェンダーにまつわる視点をどのように問題にするのか、ということが大きいと思います。マシューなどは早くからユニークな「男性性」の検証と獲得を問題にし、越境的な試みを多く行なっていました。それは、自分のアイデンティティの探求の旅であって、アートにおけるジェンダーというトピックとは、その意味で面白いのだと思います。ジェンダーの問題というのは差異を扱っているわけですが、差異が生む想像力こそが、現代美術の牽引力のひとつになってきたからです。

ジュリアナ・ハクスタブル Untited 2019

差異をめぐる欲望と想像力

━━「差異が生む想像力」について、もう少しお話をうかがえますか?

 ここでは「欲望」の問題を考えなければいけません。この9月から、アイルランド現代美術館で「Desire: A Revision. From the 20th Century to the Digital Age」という展覧会にキュレーターとして参加しています。出品アーティストには、ジュリアナやマシュー、イ・ブル、バールティ・ケールらがおり、日本からは草間彌生や故・中園孔二も参加中です。

 20世紀を牽引してきたのは、「違うものを見たい」、つまりsomething different、something newなものを求める欲望です。それが資本主義と結びつき、あらゆるものが生産されてきた。これはアートも同じで、例えばデュシャンやマグリットもそうでしょう。マグリットはわかりやすい作家のように思われていますが、言葉とイメージを使って、既存のそれらでは表せない「思考」の世界を描いた人です。それが彼の「desire(欲望)」だった。

 ジェンダーをめぐるアートでも、さきほどのエクスポートのような女性としての自己を確立するための表現から始まって、性に身体を固定化されないよう、ポスト・ヒューマン的な問題を扱ったマシューやイ・ブルなどの表現に向かう欲望の系譜があります。

 ここで重要なのは、欲望の源泉となる差異をどこに設定するのか、という問題です。例えば、従来は男性と女性のあいだの違いが問題にされていたところに、今度は生殖を行わないサイボーグが出てくると、「人間とサイボーグの差異とはなんなのか?」という問いとともに、その位相がシフトします。つまり、従来のジェンダーの問題が、人間の知や技術の裾野が広がるなかで、ほかの問題にどんどんシフトしていく。その新たな設定のうえで、では、ジェンダーはどのように使い分けられているのか、と考える。そうしたシステマティックな思考は大切だと思います。

 「Desire」展では、その帰結としてユニセックスに焦点が当てられています。ここでは、昆虫や植物や鉱物のような、生殖の問題はあっても人間のように社会的な拘束を受けないジェンダーレスな世界に憑依する作品が並びます。例えば、ゲームを通して環世界的な視点を体験するデビッド・オライリーの《Everything》(2017)などです。つまり、desireが個体の属性ではなくなり、差異を前提に何を共有できるかという話になっていく。そうした共有のための機会を提供するのが、いまアートに求められることかなと思います。

中園孔二 無題 Untitled 2014

現代における「ゴースト」表象の意義とは?

━━人間の世界を超えた異物との融合や共有という問いは、2010年に中沢新一さんと共同キュレーションされた「トランスフォーメーション」展(東京都現代美術館)の問題意識にもつながりますね。

 ええ。その展示では、機械や動物との間の変容の問題を扱いました。これはアニミズムとも関わり、アピチャッポン・ウィーラセタクンなどが取り組む現代的な問題ですが、私はその次に来るのはゴーストや憑依の領域だと思うんです。ゴーストもポスト・ヒューマンに対する関心に含まれていて、「Desire」展も最後はゴーストの話なんですね。

━━「ゴースト」ですか?

 例えば、中園くんはクラウドの世界のゴーストを描き、内的世界の表象である森で行われる殺戮の風景などを描きました。また、彼と似た雰囲気の絵を描くジェニーブ・フィギスというアイルランドの画家がいます。彼女はマーケット的には成功した作家で、18、19世紀の絵画を参照しながら、身体がバラバラになり、イメージがバイブレイトするようなグロテスクで可愛い絵画を描いている。このふたりは、ある意味でほかの人には見たり聞いたりできないものを感じていた作家で、絵画はその内的な鏡になっていると思うんです。アイルランドには精霊を信じる文化があり、同国出身のラフカディオ・ハーンは日本で「怪談」を書いたりしています。つまり、日本人とアイルランド人の幽霊感の近さが、このふたりの表現の背景にあると思うのです。

 では、なぜゴーストが重要かと言えば、それが、人間がインターナル(内的)なものを維持するための方法だからです。というのも、いま人はGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルの総称)によってすべてが表面化されていますよね。あらゆることがアルゴリズム化、デジタル化されて、影が無くなっている。しかし人間は、インターナルなものをなくしてしまえば、人間性を失ってしまいます。

 そうしたなかで、人間が内的に持つ「闇」を化体したものとして、現代におけるゴーストという表象があるのではないか、と。単純に言えば、本来、自分の中に闇を持つことができれば、外部化された闇サイトのようなものに惹かれることもないでしょう。

━━最近は、検索に引っかからない「ダークウェブ」という言葉も注目されていますね。

 まさに、その話題ともつながる話です。人の想像力にかつては普通に存在していた内的な闇をどのように取り戻すのかという部分で、ゴーストの表象が機能して、求められているのだと思います。それは私にとって、「ポスト・ヒューマンの概念をどこまで拡張できるのか?」という問いに連なるもので、いま面白いと感じている差異です。だから、重要な問題だと認識しつつも、ジェンダーに特化してこだわっているわけにはいかないというのが正直な思いですね。

 

ダムタイプ/古橋悌二について

━━差異ということで言えば、2017年にポンピドゥー・センター・メッスで開催された「Japanorama. A new vision on art since 1970」展では、長谷川さんは日本独自の身体性にも光を当てていますね。この展覧会はアートからデザイン、サブカルチャーまで、大規模に日本の視覚文化を網羅するものでしたが、現地の反応はいかがでしたか?

 非常に好意的に受け止めていただきましたよ。2度3度訪れる人も少なくなかった。この展覧会では、周囲の環境と交感し合う日本人の緩やかな主体概念や身体性、そこから生まれる共生のあり方などを紹介しました。ある意味で、そのままフランス人に言ってもなかなか伝わらない「わび・さび」や「和」のような日本人の調和の意識を、べつのかたちに置き換えて見せたわけです。その翻訳作業には、とてもこだわりました。

 身体の領域で言えば、フランスの人はとにかく舞踏が好きです。舞踏は、バレエのような垂直方向の動きではなく、ひたすら地面に向かう。ある意味で歪な動きですが、フランス人がこれを好きなのは、人間が大地とともにあることを感じるからです。自分たちの文化や美学にないものを知っていて、それを求めているんですね。禅にある「減算の美」に惹かれるように。また、「Japanorama」展とほぼ同時期に同会場で開催した「ダムタイプ 」展にも、7万8000人もの観客が訪れてくれました。

━━ダムタイプについて、ジェンダーの問題と絡めて少しうかがえますか?

 私にとって(故・古橋)悌二という人は、情報やお金の欲望に社会が空回りしていた1980年代という時代に、ひとりだけ目を開けてまともなことを言っていた人というイメージです。彼のすごさは、イデオロギーではなく実際の現場を見て、そこで戦うために自分の生身の身体や当事者性を出したこと。例えば、日本人の言語的ハンデを超えて国際的に活躍するために、話し言葉を捨てて書き言葉や映像を取り入れ、日本人の貧しい肉体で勝負するために機械的な動きを選択した。そうした戦略がいくつもあり、海外での評価は非常に高いです。

 また、彼はホモセクシュアルな性的指向を持つ人でしたが、ドラァグクイーンをやるときには古橋悌二であることを表に出さなかった。だから、《S/N》(1994-96)で自身のことをカミングアウトするのはとても勇気のいることだったと思います。当時、それを「悌二さんらしくない」と批判する人は多かったけれど、「らしい」かどうかではなくて、彼は表現によって問題を他者と共有しようとしたわけです。そのことによって、彼は自分を相対化し切って、別の段階にいたと思うんですね。つまり、性や差別の問題を利用したのでは決してなく、彼自身のサバイバル・エスセティクスからきた表現だった。

━━古橋さんは、差異が生み出す他者への想像力を体現する人だった。

 そう思います。すごく頭の良い人でしたし、豊かな想像力と勇気を持っていた。そして同時に、ファニーでもありました。これは大事なことで、シリアスに物事を考えるのも良いのですが、アーティストは毎日シリアスに生きているわけじゃない。アートについて思考する人は、もう少し欲望について考えるべきだと思います。

 理屈で考えて、「そうしなければいけないから表現する/(展示を)見に行く」のではなく、表現したいかどうか、見たいかどうか。欲望をシンプルにとらえることは、すべてが表面化した現代においては、なおのこと大切なことだと思います。

「Japanorama. A new vision on art since 1970」展(ポンピドゥ・センター・メッス別館、フランス、2017-18)の展示風景

知性に働きかける個人的な物語

━━欲望の探求で言えば、長谷川さんもご自身の一貫したテーマを扱ってきました。気になっていたのは、長谷川さんがマルグリット・デュラスの「破壊しに、と彼女は言う」という小説の題名を、書籍やカタログの論文においてたびたび引用していることです。この言葉は長谷川さんにとって、どんな意味を持つものなのでしょう?

 ふたつのことがあって、ひとつは単純にデュラスへの憧れです。彼女はもともと植民地のマルチカルチャーのなかで育ち、圧倒的な他者性のなかで生きた人です。私は、学生時代は映画監督になりたかったのですが、デュラスとその晩年の恋人でゲイのヤンのように、ひとりのゲイの男性と最期まで一緒に暮らしたい、という妄想を抱いていました。

 もうひとつは、彼女の作品でもいちばん好きなのがあの小説だということです。上演を意識したシナリオ形式で書かれたこの小説には、あるホテルに滞在する精神を病んだ4人の登場人物による、それぞれの視点の言葉が並んでいます。分裂的で、まとまったナラティブがあるわけではありませんが、そのひとりの魅力的な若い女性がある日、その場所に来た理由を聞かれて「破壊しにね」と言う。この言葉により、それまでの暗黙の秩序が壊される。最後は、それこそ中園くんの絵を思わせるような、不可視の存在のいる森に向かってみんなで歩いていくという単純な話です。

 この台詞の「破壊」とは、たんなる「壊す」という意味ではなく、絶えず新しい内的な差異の状況を意識させて、自分の意識を次の場所に移行させていく力という意味でとらえています。私は、このシーンがとても好きなんですね。また、この「破壊しにね」という台詞が、「墓石」を連想させる言葉であるところも気に入っているところです。

━一種の言葉遊びですね。

 そうです。私には、「うさぎスマッシュ」や「エゴフーガル」のようないくつかの自分のキーワードがあります。前者は、自分のSNS上のアバターであるうさぎが不意打ちをするという訳のわからない隠語で、後者は、「エゴ」に「そこから遠ざかる」という意味のラテン語を足した造語です。「破壊しに」はそのなかでもいちばん女性性を感じさせる言葉だと思います。最近はStrictly Confidentialの先をいくHyper Confidential(極秘の)という言葉にハマっていて、このタイトルで展覧会をしたら絶対に人が来るだろう、という欲望を持っています。

 つまり、言いたいのは、アートはイデオロギーではないということです。こうした個人的な欲望から知性や想像力が生まれ、共有されるのがアートの面白いところでしょう。たしかに近年のアートには政治的なメッセージが求められますが、そこでもやはり、知に働きかける情報性とともに、感情や共感を引き起こす視覚的な強さのふたつが大切です。

 例えば、フェリックス・ゴンザレス=トレスによる、積まれたポスターを観客に持ち帰らせる作品も、そのシンプルで視覚的なインセンシティによって知に働きかける。とくに1990年以降のアートにはそうした戦略が必要です。より最近では、ピエール・ユイグやヒト・シュタイエルのような作家は、こうした個人の紡ぐストーリーの重要性を理解していると思います。

長谷川祐子 『破壊しに、と彼女たちは言う―柔らかに境界を横断する女性アーティストたち』(東京藝術大学出版会、2017)

Evidence Analysisの重要性

━━ところで、今回の特集のテーマは「ジェンダーフリー」ですが、アートを超えた社会的な次元において、長谷川さんが理想とする男女平等のイメージはありますか? 

 その質問は、いささかナイーヴではないかと思います。というのも、その問題設定の仕方は、本来は具体的であるべき議論を空中戦のようなものに導いてしまうからです。

 例えば昨年、医学部の不正入試の問題がありました。もちろん、女性が不当に扱われていたことは許しがたいのですが、医学部の内部の方に話を聞くと、女性の学生には眼科や内科を選択する方が多く、外科や産婦人科のようなリスクの高い現場を選ぶ人が少ないという傾向があるそうです。また、この件に関して、離島に赴任する医師の男女比を調べてみたことはありますか? 仮に数合わせ的に男女を半数にして、そのことで離島に行く医者がいなくなったらどうするのか。これは生死に関わる問題ですよ。

 つまり、いろんなことを一方的に言う前に、まずは現実を見ようと思うのです。現場に対するきちんとした観察や聞き取り、データがないままに、その状況についてどう答えるのか。いまは情報社会ですし、いろんなことは複雑な関係性のなかで動いています。そこでは圧倒的に現場の分析が大切だし、私はそれを小まめにしていくタイプです。

━━ジェンダーの話題では、たしかに理念が先行しがちです。しかし、長谷川さんは理論を述べるだけではなく、キュレーターとして現場の様々な摩擦のなかで仕事をし、目標を現実化されてきた。そうしたことも頭をよぎりました。

 問われている状況に対して脊髄反射的に答えるのではなく、自分自身の一貫した思想やビジョンがなければ、キュレーターは信用されません。キュレーターは、thinker(思想家)であると同時にpractice(実践)もできる人だと思っていて、自分の持っている軸を大事にしながら、現場で起きたことを理論や考え方に結びつけていく作業を絶えずやっています。そして、価値観が多様化して、情報が錯綜する現代では、批評家の影が薄くなり、オクウェイ・エンヴェゾーやハンス・ウルリッヒ・オブリストのような、キュレーターであり理論も語れる人物が出てくるのは当然のことだと思います。

 言い換えると、美術に限らず、自分のわかる範囲できちんと物事を見て、分析できる人をもっと増やしていく必要があるのかなと思います。空中戦の議論に持っていくのが好きな方が多いように感じるのですが、私自身はそうした人はあまり信用できません。

 判断の基準となる情報の収集とその透明な共有は、アーティストにも大事なことです。ヒト・シュタイエルがなぜ支持されるかといえば、美学的な批評もありますが、そのバロメーターを明確に打ち出しているからです。多様な指標を含みつつ、それをユーモアと可愛らしさで凌いでいく。情報の集め方の半端なさでいえば、ピエール・ユイグやオラファー・エリアソンもすごい。ちょっとした企業並みの情報ネットワークがあります。

━━彼らはスタジオもとても大きいですね。

 そうですね。そこに情報収集のためのすごいチームを持っています。現代は、イデオロギーでは何も変わらない時代です。「ジェンダーフリーにしましょう!」と叫んでも何も起こらない。そうではなく、Evidence Analysis(証拠分析)こそ重要で、その言説や表現にどんな効果があるかという証明の積み重ねと、そこから導かれる仮説、そして提案とフィードバックの連続ですよ。だから、メディアとしては、そうした大きな表現を成し遂げている人たちが、果たしてどんな方法論を取っているのか、ということを見せると面白いんじゃないか、と。そうしたクールな視点があると良いなと思います。

SANAA Bubble 2013 シャルジャ・ビエンナーレ 11(2013)での展示風景 Courtesy of Sharjah Art Foundation

「ここにはないもの」から考える

━━長谷川さんは、さきほどのイスタンブールや、アラブ首長国連邦の都市シャルジャで行われた「シャルジャ・ビエンナーレ 11」など、欧米以外でも多くの展覧会に関わってきました。そうした国には、日本や欧米とは異なるセクシャリティ/ジェンダーについての規範があると思いますが、その土地の人々と協働するうえで意識されていることはなんですか?

 まず、道に座ってみんなが何を欲望しているかを見ます。イスタンブールでは、何日もストリートを見ていましたね。流れる音楽とか、男の子同士、女の子同士が寄り添って歩いている姿とか、手のつなぎ方とか。わりと、そういうところから始まります。というのも、私はゲストとして呼ばれているわけで、世界に向けて何かを物申したいという思いもありますけど、まずはその土地の人の欲望にどう応えるのかを考えます。

 シャルジャでも、男の子同士や女の子同士で寄り集まっている世界があります。それに対して、宗教や人種の問題に関係なく、この人たちが一緒に生きられる場所をどのようにつくれるのかを考えました。そこで思いついたのが、「中庭」というテーマです。

タレク・アトウイ Within 2013 シャルジャ・ビエンナーレ 11(2013)での展示風景 Courtesy of Sharjah Art Foundation

​ 一般的にイスラム社会では、女性は男性に比べて公共空間での行動が厳しく制限されています。女性は多くの時間、2階のバルコニーの格子状の壁の向こう側にいるんですね。でも、上からすべてを見ている。そして、彼女たちも自由に出てこられる半プライベートな空間が中庭です。イスラムには、外から来たお客さんをもてなすホスピタリティの文化がある。ならば、中庭においてなら、それまで出会わなかった人たちが出会えるのではないか、と考えたわけです。

━━すべての人に開かれた空間であるべきという、欧米における「パブリック」の意識とは違うものがそうした国にはあるわけですね。

 それは欧米の勝手な正義であって、まったく違う文化があるわけです。例えば、イラクを長らく独裁的に支配していたサダム・フセインが捕らえられたあと、イラク社会には混乱が訪れましたよね。もちろんフセインはひどい独裁者でしたが、ある部分それで治安が守られていたところはあった。そこで考えるべきは、果たして欧米が押し付けた議会民主制のシステムが彼らにとって本当に良いことなのか、首長と評議員で構成されるしくみへの敬意も含めて、もっときちんとした移行期を経るべきだったのではないか、ということです。

 あるいは、欧米のエクストリームなアクティビストはイスラム女性の被るヒジャブを批判しますが、あの下の格好を見たことがありますか? ものすごく華やかで、煌びやかですよ。でも、外を歩くときは、あの格好がいちばん涼しくて、女性の肌を日光から守るんです。私がイスラムで学んだのは、そういうことですね。欧米批判がしたいわけではないですが、やはりそれぞれの土地、現場にはそれぞれのエコロジーがある。その複雑な関係性を見ず、断片的な情報だけで判断するのは良くない。そういうアナリシスの時代ではないです。

オトボン・ンカンガのパフォーマンス シャルジャ・ビエンナーレ 11(2013)での展示風景 Courtesy of Sharjah Art Foundation

​━━ジェンダーの問題を取り上げようとすると、理論上の正義と、批判対象となる現状が分断されてしまい、議論が深まらないまま終わってしまうということがたびたび起こります。もちろん、これまで掬い上げられてこなかった女性やマイノリティの声にフォーカスする仕事もいまなお重要です。と同時に、今日うかがったポスト・ヒューマンについてや、異なる文化圏で仕事を達成するための具体的なプロセスの話は、私たちがジェンダーの問題をよりアクチュアルに考えるうえで重要だったと思います。

 やはり、想像力は大事だと思うんです。人生を豊かに生きる糧として、これまで自分が知らなかったものや場所を見ることは大切だと思う。そこでなぜアートかと言えば、視覚というものがもっとも複雑な情報を持っていて、想像力の内容を豊かにしてくれる器官だからです。「ここにはないもの」を共有して、それについて議論することがホモ・サピエンスとほかの生物を区別してきた。その特性は、活かしたほうがいいです。

長谷川祐子

編集部

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