セクシャリティを起点に考える
━━2017年より大坂さんが主宰するキュラトリアル・スペース「ASAKUSA」は、国内外での展示、イベントを通して現代社会に批評的なメッセージを発信し続けています。テーマは政治、経済、思想まで様々ですが、これまでポーリン・ボードリ/レナーテ・ロレンツの展覧会、ヴィンセント・ファン・ヘルヴェン・ウイを招いたトーク、「イロモノボンデージ」など、「ジェンダー」にまつわる企画もたびたび行っていますね。大坂さんはなぜ、ジェンダーに着目してきたのでしょうか?
私自身がヘテロセクシュアルではないためです。それははっきりしているのですが、他者に対してはっきりといつも宣言してきたわけではありません。誰もが自分のことを洗いざらいを公開して生きているわけではないように、私も状況に応じて言わなかったことが多くありました。片田舎の鉄鋼労働者の街に育った10代の頃から、それが癖になっていたんです。
でも一言にマッチョ文化を嫌ったというわけではありません。そんなことではなかった。いずれにしても、関心のひとつにジェンダーがあったというのは少年期からそうだと思います。ですから、そもそもこの問題について、無関心であったことがありません。
━━大坂さんは以前、インタビューのなかで自身のイギリス留学時を振り返り、「美術館やギャラリーを廻るうちに現代美術は自分が関心を寄せるトピックを包括してると気づき、本格的を学ぼうと思った」と話していました。そのなかにはジェンダーも含まれていたのでしょうか。だとすれば、美術とジェンダーのどのような関わりに可能性を見出しましたか?
当時は、美術とジェンダー、そして実生活の関係について、俯瞰的な視点は持てていなかったように思います。マーサ・ロスラー(*1)を初めて見たときから尊敬していたし、もっと同世代的な「同性」の作家でいえばエルムグリーン&ドラッグセット(*2)、ヤン・ヴォー(*3)らも、もう活躍していたはずです。
そうした作品には当事者の心の機微に触れるサインがあって、それを感じ取って生きた心地がしたというのはあります。けれども、現代の差し迫った問題はやはり眼前に行き過ぎる人の表情だとか会話だとか、そういうところにあるという感覚を強く持っていたので、「ジェンダー」の理解に関しても、当時の実生活から受けた影響のほうがはるかに大きいです。
━━実生活とは具体的にどういったことですか?
自分の性的役割や、対外的にどのような人格になるべきかとかそういうことです。「Gaydar」や「Grindr」などの同性愛者用のアプリを見るとをすぐわかりますが、メンバーのプロフィールに自分のポジションや性癖、瞳の色からシューサイズまでが記され、身体的特徴がだいたいわかるようになってます。私は、観念的なところでは、同性愛は歴史的な性的役割の分担を逸脱させるものと考えていたし、そのように支持していたんですが、実際は異性愛以上に明確な欲望の専門化が行われていることをつまらなく思っていました。
いっぽうで、性や身体についてのあからさまな開示は、恋愛のプロセスがつくり上げる虚構の神秘性を気持ちよく取り払ってくれた。同性愛者のなかでは、特定の誰かと長く交際しながら、娯楽や社交として第三者と性交渉を容認するスウィンギングやオープン・リレーションシップが珍しくなかったし、私はそれを相手の性欲を自然な生理現象として受け入れるプラトニックな恋愛の最上の形態だと感じました。しかし、それらが道徳的な制約を超えて自分たちの挑戦的な倫理をつくり出そうとする行為だと頭ではわかっていても、実行する過程で感情のほうがついていかず、いろんなところで悲鳴が聞こえてくる。その状況から本当に多くを学んだと思います。
いま、海外で起こっているいくつかの状況
━━大坂さんはニューヨーク、香港といった海外での展示や企画を通して、現地の美術業界と関わる機会も多かったかと思います。海外と日本を対比した際、日本の美術業界のジェンダーバランスや、男女平等の状況をどのように見ますか?
社会として見ても圧倒的に男性中心なのは間違いないので、そんなファルスはまず折ってしまうのがいいとは思います。ですが、美術館などの組織については団体がどういったコミュニティの意見を表象するのか、どんな公約を掲げているのかによって、「男・女」より重要な比率があるかもしれません。きょうび、移民問題にフォーカスした展覧会メンバーがみんな60代の白人男性だったら違和感があるように、同様の違和感を自分たち自身に正確に投影することは意外に難しいことです。
━━では、作品はいかがでしょうか。ジェンダーをめぐる現代美術の取り組みは、ここ数年でどのように変わってきたように見えますか?
宗教観や法的な違いなど要因は様々ですが、地域によって相当に大きな違いがあると思います。ですが、多くの国でクィア理論が大学科目として認知され、LGBTQ+が政治アジェンダの一環として目につくようになったいま、性的アイデンティティの承認要求を全面に訴えていた時代に比べて大分違う風景になったと思います。国籍にかかわらず、それぞれがみな異なる体験と考えの総体として生きているので、人種、ジェンダー、経済階級、歴史認識や未来への投影、そういった様々な条件の交差や重複が作品のコンテクストになるのは自然な流れです。
近年になって見られる変化をいくつか上げるなら、「曖昧さ」に対する擁護をあげたい。情報の「透明性」が求められる世界的な潮流のいっぽうで、宗教的な、政治的な、それぞれに固有の事情によって、太陽の下に出てこない人々の状況もあります。これは地域によっては同性愛が激しく糾弾されていた歴史から、法的、道徳的な犯罪性に深く関わる領域です。ポーリン・ボードリ/レナーテ・ロレンツ、 ウー・ツァンといった多くのアーティストが、詩人のエドゥアール・グリッサンによる不透明性(*4)の理論を参照するような作品をつくっています。
もうひとつ指摘したい潮流は、LGBTQ+コミュニティのなかで形成される多数規範に同化することへの反発、ホモノーマティビティ(同性愛規範)への抵抗・反発です。これは仲間内のいざこざとか、ということではないんです。例えば集団の中で孤立していたあなたがある日、受け入れられる。この多数派による「受け入れ」承認を拒絶する、ということなのです。この統合・同一化に対する拒絶は、クィアの問題提起に直接的に呼応するように思います。つまり、アイデンティティそのものに対する疑い、抑圧的な言説に抵抗するというだけでは十分でなく、耳障りの良い解放的な言説をも問い直す自らの足場を保つということです。
━━大坂さんの活動にとくに影響を与えた、もしくはいま関心を持っているクィア・スタディーズの理論、思想家について教えてください。
哲学者のミシェル・フーコーでしょうか。多くの人にとってヒーローだと思います。やっぱり彼がものの見方、考え方を開発したと思うんです。
理論で言えば、最近になっていまさらながら読んだのは、2004年のリー・エーデルマンの論考「No Future: Queer Theory And The Death Drive(ノー・フューチャー:クィア理論と死の欲望)」です。同性愛では生殖しない・できないということが、ひとつの刻印となってきた。この未来の否定が、絶望的なほどに決定的な刹那主義に結びついている、といえばそうかもしれません。だからクィアは未来ある子供というイメージの正反対にあり、社会秩序への全面的な否定をすることがその戦略が持つ有効性だというのは、納得のいく内容です。
いっぽう、いまの私は「異性愛」の関係にあるので、この否定の行為をもう体現していないような気もしています。
大切なのは「公平性」ではない
━━シリーズ「ジェンダーフリーは可能か?」では、ジェンダーフリーを「固定的な性別による役割分担にとらわれず、男女が平等に、自らの能力を生かして自由に行動・生活できること」と定義しています。大坂さんが考える、あるべき「ジェンダーフリー」とはどのような状況だと考えますか?
「ジェンダーフリー」というのは、不用意でスキの多い言葉です。ジェンダーは「ある」のだし、決して「フリー(ない・自由になる)」ではない。ジェンダー、この場合性差や性的嗜好による差別をなくすために、それが「ないかのように」振る舞うのは、面接とか何かの選考会とか機会均等を重視する場においてであって、バリアフリー(障碍を取り除く)と同じ言い方で、ジェンダーという概念をあたかも「なくする」というような言葉が成り立つのは、どこかで考えが捻れていると思います。または考えが言葉に適切に反映されていない。
ジェンダー意識は肉体、性体験、生活のあり方に直結しているし、現実に対するフィジカルな変更要求でもあります。性器の移植手術を国民健康保険の対象として無償化するとか、せめて生殖機能を前提としない社会制度に変えていこうとかいうことであれば、「ジェンダーフリー」という言い方にも少しは納得できるのですが!
━━「男・女」の機会均等という観点からはいかがでしょうか?
現行の制度とか社会生活の基礎となる一番大きく(そして雑な)分類なので、そういう意味では、公平性を考えるうえで、地域格差や経済格差よりも重要かもしれません。けれども統計的に男女均等であっても、例えばその団体の構成員が同じ美術大学の出身者だったり、みんな関東圏出身だったり、同一世代だったり、同じ経済階層だったりしたら、なんらかの条件で圧倒的多数がつくられ、同調圧力が生まれる要因になります。ただ逆に、どの条件から見てもフェアであるような、無菌室みたいな公平性の達成には、個人的にはなんの興味もありません。
━━表向きの「公平性」は大切ではない。では、大坂さんはジェンダーを取り巻く社会の状況はどうあるべきだと思いますか?
白々しい平等よりも、様々なジェンダー間にある違いに価値を見出すことのほうが、よほど重要と思います。ジェンダーの偏った分布に対する怒りは、それによって同調を求める圧力や慣習化した規範が生まれているからですよね。相手に公平性を求めるときに思うこと──「私が将来同じ立場に立ったとしても、あなたのようにだけはなりたくない」。私は例えばこうした状況に起こる強い否定に、アイデンティティ政治の中心的な動機を感じるし、社会に提示されるべき重要な視点の違いがすでに表明されているように思います。
━━個々人が互いに「違い」に価値を見出すため、私たちが実践すべきことはなんでしょうか。
カナダの映像作家リチャード・ファンの言葉を借りれば、飼い慣らされた境界線を断固として超えていくということでしょうか。「固定的なアイデンティティを超えて。有色人種バージョンの〜を超えて。第三世界バージョンの〜を超えて。前衛を超えて。ノスタルジーを超えて。ドグマを超えて。アクセシブルであれ、だがポピュリズムには陥るな」(*5)。
━━最後に。大坂さんの活動のインディペンデント性について、ジェンダー・セクシュアリティへの問題意識から語っていただけることはありますか?
ロンドンに住んでいた頃に3年ほど一緒だったリトアニア人の「元カレ」とはレストランのアルバイトで出会ったんですが、彼はその後、日本語を真面目に勉強して1年間日本の大学に留学したんです。その人と東京での生活について話すうちに、友達(女性)が受けたパワハラや、慣習的な問題、いかに女性は聡明でものが見えているか、いっぽうで男性は国際的な視野も見識も狭いくせにとにかく無神経で、あれでは女性がかわいそうだと延々と語り始めました。あんまり勢いづいているので、私のほうが見知らぬ男性を弁護してしまうほどでした。そして、夜通し続いたひどい激昂の後、最後に日本語で吐き捨てるように言ったんです。
「だから、日本の男はみんなホ・モ!!」
気色悪い思い込みや内輪の執拗なかばい合いと根回し──変態的思考に侵されているのはいったいどっちの側なのか? そして、自分たちが浴びせられた「ホモ」という侮辱の言葉で、彼らを一方的に糾弾するのは正しいように思われました。
私たちは絶対にマイノリティではない──そうも言えたでしょう。私が力をもらったのはそういう発言であって、「多様性」や「社会的包摂」などではありません。とにかく散々飲み散らかした後、怒りをぶちまけたその一言が変に腑に落ちて、それ以上の言葉もなく、2人でよく眠ったことを思い出します。
*1──1943年アメリカ・ニューヨーク生まれのアーティスト。70年代より、映像、パフォーマンス、インスタレーション、テキストなどを通して、フェミニズムや社会問題をユーモラスな視点で表現してきた。
*2──1995年よりベルリンを拠点に活動するアーティスト・デュオ。制度批判や政治問題をテーマに作品を発表し、2008年にはベルリンのポツダム広場に、ナチスに虐殺された同性愛者のための追悼碑を完成させた。展覧会企画も多数行い、17年には第15回イスタンブール・ビエンナーレのキュレーターを務めた。
*3──1975年サイゴン生まれのアーティスト。難民経験を持つ自身の経験や実体験をベースに、個人の記録資料とその個人の肉体や行為との関係に内在する社会的メタファーを問う。
*4──多様な立場の人々が理解されないままでいることができる権利の主張。西洋社会が推し進めた思考の透明性が、言明しがたい文化領域を排除する知の暴力を生んだ反省に基づく。この「不透明性」は、透明な情報の開示をもとめるメディア文化や、奇異のまなざしを前に自らの言葉を失う人々が、自らの多様な特異性のうちに結びつくことができるための心遣いとして要求されている。
*5──リチャード・ファン「Beyond Domestication」(https://muse.jhu.edu/article/521121)