滝口悠生『愛と人生』──読むこと、思い出すこと ミヤギフトシ
12月30日、年の瀬の晴れた暖かい日。金町線という聞き覚えのない路線に乗り換え、柴又駅で降りる。改札内に踏切があって少し驚いた。駅を出ると観光客数人が寅さん像の前で記念写真を撮っていた。
にぎわいをみせる短い表参道を通るとすぐ目の前に現れた帝釈天は、正月準備で少し浮ついているものの、人は思ったほど多くない。帝釈天の裏側は普通の住宅地で、寅さん記念館に向かう人々がまばらに歩いていた。
しばらくすると現れる、思っていた以上に広い江戸川の河川敷。サッカーの練習をする少年たち、凧を落としてばかりの女の子、正月には駐車場代わりになるのか、芝生の上で石灰のライン引きを押す老人たち。
滝口悠生の小説『愛と人生』(講談社)によれば、寅さんが柴又に帰ってくるときはたいてい駅ではなく、この河川敷を金町方面からやってくる。目の前の風景が、読んだ小説の記憶と重なり、離れ、不思議な気分になる。もしかしたら、ずっと前にも現実に同じ風景を見なかったか......。
『愛と人生』は映画『男はつらいよ 寅次郎物語』(山田洋次監督、1987年)に登場した少年、秀吉が成長し、共演した美保純と一緒に旅をする様子を描く。映画において、秀吉の父親は死の間際、自分が死んだら寅さんのところへ行け、と息子に言い残す。電車を乗り継いで秀吉は福島から柴又の「とらや」にたどり着き、そこで美保純演じる印刷屋の娘に出会う。
美保純(小説内では、役名の「あけみ」ではなく常に美保純と呼ばれている)は秀吉をからかいながらその身を案じ、秀吉も少しずつ懐いていく。ほどなく、秀吉は帰ってきた寅さんと蒸発した母親探しの旅に出る。そして道中、高熱を出して寝込んでしまう。旅館の隣の部屋に泊まっていた秋吉久美子演じる隆子が騒ぎを聞きつけ、熱にうなされる秀吉を看病する。医者に夫婦だと勘違いされた寅さんと隆子は、互いをとうさん、かあさんと呼びはじめる。
でも、三人が一緒にいられたのは、ほんのわずかな間。そんななか秀吉は、美保純のことを考えていたのだろうか。それは、誰も知りえない。
それから27年後、『愛と人生』において、秀吉は美保純と再会する。寅さんを演じた渥美清は死んでしまい、秀吉も美保純も年を重ね、ふたりは伊豆の温泉宿に泊まり、ときに『男はつらいよ』の登場人物として、ときに役者として、ときにふたりの人間として、いろんなことを思い出したり、思い出せなかったりしている。
思い出したくない人であれ、思い出したい人であれ、手をあわせれば勝手に思われてくる。死んだ父親の顔をもはや私ははっきり思い出せないが、死者を思うのは顔を思い浮かべることではなくて、思い出している今この瞬間にいろんな感情が訪れては去り、訪れては去るその落ち着かない状態にだけあって、手を離せばまた記憶だとか思い出だとか指し示そうな存在になってしまう。滝口悠生『愛と人生』(講談社、2015)
先日発表された新作『死んでいない者』(文藝春秋)は、大往生した男の孫やひ孫たちを含んだ家族や親戚、友人たちが集まった通夜にまつわる群像劇。引きこもりの青年が弾き語る懐かしい歌。銭湯で湯あたりを起こして倒れてしまう外国人の娘婿。誰もいない台所でひとり酒を飲み続け倒れてしまう子供。夜通し寝ずの番をしながら酒を飲み交わし、うとうとする大人たち。ここでも、たくさんの登場人物たちが、たくさんのことを忘れたり思い出したりしている。
それを読んで、自らの祖母の通夜を思い出した。すっかり疎遠になってしまった実家に帰り、兄やいとこたちと缶ビールを飲み交わしながら、寝ずの番をした夜。「彼女は?」というお決まりの質問に、どう返事したのかも思い出せない。ケース1箱分のビールを4人で消費したところで気分がよくなって、深夜、近所をひとり歩く。
角を曲がるとコンクリート工場があって、裏手には砂山がふたつ、こんもりと盛り上がっている。子供の頃から変わらないように見える風景。背中からばたりと砂山の斜面に倒れ、大の字になる。ずずず、と砂と一緒に少し体が下がる。真冬だったから、沖縄でもジャケット1枚では寒い。星が綺麗で遠くから波の音すら聞こえてくるような気がした。いつも見えていたオリオン座が、その夜も綺麗に見えていたはず。
いくつもの嫌な思い出の集積でできているような島の記憶が、悲しくも穏やかな気分のなか、酔いとともに思い出される。明日は二日酔いだろう。そういえば、初めて酒を飲んで酔いつぶれた次の日にやんわりと注意したのも、祖母だった。祖母独自の判断で訪ねてきた僕の友人を追い払ったり招き入れたりするので、同級生からは怖がられていた。よく作ってくれたターンム田楽が好きだった。
島の生活も良かったかもしれない、とふと思ったところで自分の記憶の都合良さにひとり笑った。これからも、忘れそうな、忘れた、もしくは忘れたという事実も忘れたことについて思いを巡らせながら、過去と折り合いをつけていくのだろうか。
滝口悠生作品を読み、触れたと思ったら手元から離れてゆく記憶の流れに触れるたびに、自らの記憶、もしくは意識が物語と一緒に漂い始めるような感覚を覚える。物語世界に入り込むのではなく、自分の意識と物語が、ぼんやりと重なったり離れたりしている。そのうつろい、あたらしい物語が生まれるかもしれない可能性に身を委ねることは、とても豊かで心地よい。
『愛と人生』の最後あたり、美保純が羽織っていた黄色いカーディガンがささやかな奇跡を起こす。その黄色は、映画『寅次郎物語』で、高熱で死にそうになっていた秀吉が目にしたかりそめの「かあちゃん」のカーディガンの色でもあり、秀吉と美保純が体験するはずのない別の映画のたなびく「黄色」でもあったりする。それらが、思い出すという行為のなかで交わり、物語を生む。
祖母の葬式の帰り、空港でポケットの底に砂がたまっていることに気づく。海? こんな冬に?と考えてすぐに思い当たる。でも、指先にじゃりじゃりとした感覚はたしかに島の夏、海辺で起きたさまざまなことを思い起こさせた。いろんな風景が、頭の中に広がって、薄れていった。
PROFILE
みやぎ・ふとし 1981年沖縄県生まれ。XYZ collectiveディレクター。生まれ故郷である沖縄の政治的・社会的問題と、自身のセクシャリティーを交錯させながら、映像、写真などを組み合わせたインスタレーションによって詩的な物語を立ち上げるアートプロジェクト「American Boyfriend」を展開。「日産アートアワード2015」ではファイナリストに選出。現在、丸亀市現代美術館での「愛すべき世界」に参加している(2016年3月27日まで)。
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