「島嶼性」を手掛かりに歴史を掘り起こす
私たちは普段、日本が1万以上の島からなる「島嶼」であることをさほど意識せずに暮らしている。ましてや本土から遠く離れ、四方を海に囲まれた「孤島」の数々に思いを馳せる機会は滅多にないと言ってよい。
とはいえ、島の数だけそこには固有の歴史があり、「中央」から隔絶した地域ならではの特性が、地形や植生、当地の産業のなかに息づいているのである。長く評論業に携わってきた著者は、そうした地域を撮影地に選んだ写真家たちの仕事に関心を寄せ、必要に応じては現地取材に赴き、「島嶼性」をひとつの主題とする書物を完成させた。
「島嶼性」は、実際の島々に限らず、孤絶と内閉の徴しを帯びた場所、日本の近現代史で見過ごされてきた負の歴史をもつ地域にも見出される。この拡張された定義を踏まえ、本書には、明治初期に和人によって入植された北海道、日清戦争時の伝染病患者や原爆投下後の被爆者の移送先を担った似島、八丈島からの移民によって開拓された南大東島・北大東島など、北から南まで津々浦々の地名が登場する。
孤島に眠る過去の記憶を掘り起こす際、著者にとって重要な参照項となるのが「写真」というメディアなのだが(それは現代作家による仕事の成果であったり、「北海道開拓写真」のような明治期の記録写真であったりする)、そこに加えて、歌舞伎の演目「俊寛」、宮沢賢治の詩といった作品群が、異なる事象をつなぐレファレンスとして重要な役割を果たしている。例えば著者は、入植の歴史という観点から北海道と沖縄を比較するが、離れた「孤島」同士を連絡させるのは、地誌学的読解と文学的想像力を交配させた評論スタイルのなせる技なのだ。
いくつかの章は現代の写真作家論として高い完成度を誇る。もはや人間が介在しない、打ち棄てられた土地に眼差しを注ぐ露口啓二、都市をはじめ国内外の風景写真で時代を記録した北島敬三、広島の爆心地や東日本大震災の被災地を撮影して災厄以後の風景と対峙し続ける笹岡啓子。いっときのリサーチで作品に政治的意味を付与したと安易に満足せず、粘り強く撮影対象と向き合い、写真を撮るという行為を厳しい倫理性で吟味してきた者たちの仕事が、長年の伴走と観察によって紐解かれていく。
一定の抑制を利かせつつ情感を醸し出す文体も印象的だ。評論の枠に収まらない、エッセイ調とも言える文体の魅力は、読者を孤島をめぐる想念の旅に誘う。その媒介作用を目のあたりにし、著者が詩人としての顔をもつことを思い出したりもした。
(『美術手帖』2025年10月号、「BOOK」より)





















