シリーズを通して作家の探究にふれる
戦後日本美術史において研究が進められるべき前衛芸術家は数多くいるが、なかでも高松次郎は没後の展覧会の機会に恵まれ、再評価の作業がもっとも進んでいる作家のひとりではないだろうか。1998年の逝去以降、美術館で開催された個展はじつに5回。高松の作品はとかく観念的に受け取られがちだが、これらの回顧展が実作に照応した堅実な作家論を促したことは想像にかたくない。
本書もまた、回顧展に関わった美術館人をはじめ、研究者や批評家が歴史的につなげてきた高松研究の流れを汲むものである。先行研究、とりわけ2000年代以降の言説の読み込みもさることながら、その独創性はリアリティ/アクチュアリティなる対概念を作品読解の鍵として設定したことにある。ただし、この対概念は高松自身によってもあまり説明されておらず、解釈の幅がいかようにも広がる取り扱い注意の用語である。そこで著者はリアリティを「偽」の対立概念としての「真実」、アクチュアリティを現実や現実性を志向する「事実」であると整理し、高松作品の変遷を両概念の行き来という観点から読む。
具体的に分析の対象となるのは、高松が1960~70年代に手がけた「単体」および「複合体」のシリーズ、複製メディアや言語をモチーフとした作品、そして作家のなかでは異色であるが故に位置づけがたい「写真の写真」シリーズである。「単体」「複合体」といった造形性・物質性を少なからず残すシリーズが、よりコンセプチュアルなゼロックスコピーの作品、さらに「写真の写真」へと架橋されていく構成には意表を突かれるが、リアリティ/アクチュアリティという対概念の導入がこの章立てに説得力を与え、シリーズ間に通底する作家の問題意識を見事に抽出している。なかでも、「単体」「複合体」シリーズをタイプ別に分類し、造形的特徴と意味のズレを読み込んでいく本書前半の分析には、思弁と実証、理知と直感を織り交ぜて高松作品を掘り下げていくような深度が感じられた。
高松は人間にとって本質的なものとして「意識」を重視した。それを踏まえ、最終章では高松の意識をめぐる思考とサルトルの理論が接続される。「意識についての意識」というふうに、永久運動を誘発する問題系はにわかに把握できるものではなく、読者に熟考を要する。それでも、高松作品の分析を経ると、哲学的な問題系を読むための道筋がかすかに見えてくる。難解なテーマへのチャレンジも含め、意欲的な作家論である。
(『美術手帖』2023年7月号、「BOOK」より)