個人の集合を超えた、 70年代「コミューン」の熱気
「そこ」では、じつに多くの集団と個人が行き交っていたらしい。
「アルファ芸術陣」の設立メンバーで「白い時の会」を結成した金子昭二、「星辰交感協会」を率いた芦沢タイイ、「古式汎儀礼派」を名乗っていた水上旬、「魔胎工房」を主宰した田中孝道、「最終世界センター」の春原敏之、「夜行館」の古沢宅、「念る三味窟院」の河津紘、「バーリニバーナ・バーリヤーヤ体」の鈴木裕子・赤土類・辻村和子を筆頭に、大勢の組織=個人が、アーティスト・松澤宥によって開かれたコミューン「泉水入瞑想台」(長野県諏訪市)に集う様子が、『美術手帖』1972年11月号の「コミューンへ」で特集されている。
この特集では「わが家」「石神井コミューン」「クリシュナ教日本テンプル」など、同時代のコミューンも数多く紹介されており、それによって図らずも「泉水入瞑想台」の特徴が際立つ結果になった。その特徴は、この瞑想台に集う一人ひとりがその名の後ろに背負っている集団の比率が、その個人の数に対して明らかに多いということである。そこでは、複数の個人の集いが複数の集団の集いと化し、泉水入瞑想台が「メタ・コミューン」としてのエントロピーを増幅させていく熱気が伝えられている。
「心に真白い正方形をえがき、その正方形から水をくんで飲む」──この言葉が掲載されたのは、「美術という幻想の終焉」展(1969)で配布された松澤の印刷物である。この思わせぶりなインストラクションが遠因になって生まれた泉水入瞑想台は、不在の実在感をドライブさせてゆき、そこに集う人々に新しい「名」を降ろしていったように思われる。このことを言い換えれば、そこでは実際に集っていた以上の数の人々の気配こそが集合していたのだ。こうした状況は、一昔前の日本のネットシーンや震災以後のアートシーンにおけるコレクティブの動向においても発生しているように思われる。
いやあるいは、こうした「メタ・コミューン的状況」をこそ「コレクティブ的状況」と名付け直すこともできるのではないだろうか。しかも、この気配はどこか「不在の作者」、すなわち「心霊」の存在を思わせるものでもある。日本における初期のコンセプチュアリズムが、どこかオカルトめいたいかがわしいものに感じられることも決してこのことと無縁ではない。そこには、美術も宗教もハイもロウも過去も未来も良しも悪しも鈍く混濁した「いかがわしさ」としてのラディカリズムがあったのだ。
(『美術手帖』2018年6月号より)