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2022.6.2

「惑星ザムザ」展キュレーター、布施琳太郎からの応答。「最高速度で移動し、喘ぐ『キメラ』──今日の芸術の置かれた状況について」

布施琳太郎によるキュレーションで17名の作家が参加した、製本印刷工場跡地でのグループ展「惑星ザムザ」。批評家・キュレーターの石田裕己によるレビューをはじめ、本展に対して提示された様々な論点について、布施が応答する。

文=布施琳太郎

MES Stellar's End/恒星の終り 2022 撮影=木奥恵三
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(本稿公開後に福尾匠からの指摘を受けて、2022年6月25日にテキストの一部が修正されています。)

最高速度で移動し、喘ぐ「キメラ」(※1)──今日の芸術の置かれた状況について

0. ひとつの抵抗の開始

 芸術作品と、その制作における人々の期待を裏切るかのように、展覧会は現在以外に対してもっとも無力な表現形式である。あくまで作品が、未来を含む多様な時制のなかで再展示されることを欲望するのに対し……展覧会はつねにその欲望の受け皿に過ぎず、どのような作品よりも現在という牢獄に閉じ込められている。つまりそれは、時を同じくして居合わせることの同時代性に、もっとも注力した表現なのだ。

 そのうえで、孤独について考えるのではなく、孤独を生産すること。そのために人を集めること。その矛盾の埋め合わせこそが、僕の活動のすべてである。

 このテキストは、石田裕己によってなされた本展の批判的な受容(ウェブ版「美術手帖」掲載「鑑賞者と芸術がともに思考する作品を求めて。石田裕己評『惑星ザムザ』展」)──そしてSNSなどにおけるいくつかの批判──への応答として執筆されたものである。信じられないような速度で書かれた石田のテキストは、そうであるにもかかわらず、複数の問題を提起した。そのなかでもっとも僕の注意を引いたのは、彼が、その論の全体で「思弁的実在論」という哲学的なコンテキストを前提としたことだ。そこでは、本展が提示した「観測/変身」を、「認識/モノ」という哲学的な語彙と行き来させることで、以下のような構図が提示されたと整理することができるだろう。

観測 → 鑑賞者が芸術を通して思考する作品
変身 → 鑑賞者と芸術がともに思考する作品

 そして「観測」と「変身」のあいだで引き裂かれたものとして、石田は「惑星ザムザ」展を論じる。いくつかの展示作品は、この引き裂かれを引き受けるものだった、と──彼のテキストは論理的に正当なものではあるのだが、僕が感じた仄かな違和感の言語化を通じて、現在の社会で展覧会が果たすべき機能を記すことが本稿の目的だ。

米澤柊 絶滅のアニマ 2022 撮影=木奥恵三

1. 自由貿易港における哲学と芸術

 個別の展示作品については、今後出版予定の本展カタログで仔細に論じる予定なので、ここではまず石田の議論にしたがって、思弁的実在論に基づいた空間と美術作品について考えてみたい。

 そのとき、美術作品の置かれた空間として、はじめに参照されるべきは展覧会ではなく自由貿易港となるだろう。自由貿易港とは、自国の関税法を適用しないで外国貨物の自由な出入を認めた港のことだ。それを主題として、ステファン・ヘイデンレイシュによって2016年に批評誌『e-flux』に寄稿された「スタイルとイデオロギーとしての自由貿易港主義──ポスト・インターネットと思弁的実在論」で描かれたのは、展示されることのない美術作品が、たんなる投機の対象として、木箱に納められたままで所有権を売買され続ける荒野である。彼曰く、「展示されること、あちこちに運ばれること、人に見られること。これらすべてがリスクとみなされる」(*1)。つまり経済的に考えたとき、損傷リスクがあるので、美術作品の置かれた空間に人間は不要なのだ。

 ここで彼は、ポスト・インターネットアートと呼ばれる芸術的流行と、思弁的実在論という哲学的流行が、経済的な共犯関係を結んでいる可能性を指摘した。自由貿易港の木箱のなかに保管された美術作品は、安全な暗闇のなかにありながら、vvork.comContemporary Art Dailyなどのウェブサイトで多くの人の目に触れることができる。結果として、経済に最適化しながら鑑賞機会の最大化を自覚的に果たした芸術としてのポスト・インターネットアートが──もちろん素朴な試みからはじまった流行ではあるのだが──成立することとなる。

 彼が問題とするのは、「思弁的実在論」(Speculative Realism)と自由貿易港におけるアートの親和性は、アートマーケットにおいて、文字通りの「投機」(speculative)の正当化に用いられていることである。「speculative」は、将来の価格、支払い、リスクについて思考するための根拠となっているのだ、と。そして哲学のコンテキストにおける「realism」もまた、芸術のコンテキストにおける「realism」とは異なるものだ(また、本稿の執筆にあたって、機械翻訳サービスのDeepLを用いた際、「Speculative Realism」は「投機的リアリズム」と訳されてしまったことも記しておきたい)。

 こうした語彙の濫用が起こる理由として、ヘイデンレイシュは、同時代性に注力することで観光地化した美術館の代わりに、哲学者たちによる作品の歴史化──思弁的実在論とポスト・インターネットアートの蜜月──について語った(*2)。そうした蜜月の目的こそが、経済的な投機の根拠をつくることである。だから、もはや今日のアートにとっては、賛成や反対は問題ではなく、カントやハイデガーという哲学史的な固有名が登場する言説こそが重要になってしまったのだ。そうした状況は、私たちの思考を哲学的な抽象性のなかへと宙吊りにするようにも思える(布施琳太郎のツイートより)。

 しかし、そもそも僕の活動は、芸術作品が身体的な体験を根拠とすることを前提としてきた。例えば、筆者と詩人の水沢なおによるオンライン展覧会「隔離式濃厚接触室」におけるネットワークを通じた身体の再発見、そして単数形の主語が振動する執筆、近年の映像作品が、そうした体験を目論むものである。だからこそ僕がポスト・インターネットアートに期待していたのは、「メディア環境を内面化したキメラ的なリアリズム」(福尾匠のツイートより)(※2)の実践であって、作品の哲学的消費でも、経済への最適化でもない。

 僕の芸術実践は、無数の匿名の「キメラ」たちが、経済から疎外されたままで、既存の枠組みとは異なる共同性について思考し、体験する可能性に奉仕する。芸術の体験を通じて、私たちの個別の身体は、メディアを介して解体、拡張、改造された「キメラ」となるのだ──しかしそうしたリアリズムが、後期資本主義的な経済の運動のなかに再配置されることになってしまったというヘイデンレイシュの指摘は、今後生み出されるであろう多様な芸術実践の末路として記憶しておく必要がある。

 思弁的実在論とアートが侵食しあう場としての自由貿易港を踏まえることで、私たちが知ることができるのは、そうした方法によってでは到達できない身体があることだ。そして僕の活動は、哲学的な経済化/経済的な哲学化によって隠避された「キメラ」の身体へと賭けられている。

 だからこそ、その「キメラ」的な身体を、石田が「モノ性」へと哲学的に縮減したことが、僕のなかに仄かな違和感を生んだのだ。彼が、論考の前段階のツイートで記した「虫性」(石田裕己のツイートより)を前提としたとき、「惑星ザムザ」を人間批判以上の具体性で──つまり「哺乳類批判の展覧会」という新鮮な論点で──キュレーションの不備を指摘することすら可能だったように思われる。

 芸術実践を目の当たりにした批評家や哲学者に僕が期待するのは、歴史的な固有名の引用による歴史化ではなく、目の前に作品や展覧会が存在することの衝撃を通じて歴史自体をつくり替えるような言説の創造である。そして、そうした衝撃を与える可能性がないのなら、アーティストは歴史的に不要となるだろう。

青柳菜摘 孵化日記 旅行 2015 撮影=木奥恵三

2. 「惑星B:気候変動と新たなる崇高」

 2022年のヴェネチア・ビエンナーレと時を同じくして、ニコラ・ブリオーによるキュレーション展「惑星B:気候変動と新たなる崇高」(*3)が開始された。本展についても、(「惑星ザムザ」の準備段階では本展を知らなかったし、まだ実見できていないのだが)類似したタイトルであるとともに、石田の指摘する「鑑賞者と芸術がともに思考する」ことを指向していると思われるので触れたい。

  ブリオーは「すべての展覧会は森である」「チャールズ・ダーウィンと珊瑚礁」「ナウル島の悲劇的な死」の3点からアーティストを集めたという。ブリオーは、人間と自然のつながりに根ざしたターナーやフリードニヒらロマン派の「崇高」の概念が、今日、新たな展開を迎えているとする。そして、18世紀にエドモンド・バークによって「恐怖を帯びた喜び」の感覚として定義された、個人と(地球、そして自然の)巨大さを対比する「崇高」を、人新世を決定する美的概念なのだとして展覧会を通じて提示した。

 ここで彼は、ジャン=フランソワ・リオタールが、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコなどの絵画にたいして、提示不可能なものを提示するとき──あるいは形を与えることができないものを扱うとき──その作品が「崇高」に該当すると述べたことを引用する。そして、地球温暖化による海面上昇やウイルスといった危機に曝されることで訪れる芸術の変化を、バークからリオタールまでの「崇高」を通じて、検証することを目論んだ。そこでは芸術作品が、人間の理解を超えた自然と私たちを媒介し、私たちとともに思考を開始するのだろう。しかるに、「アーティストという主体に与えられるのは、非人間を含む多様な主体との関係を構築する外交官=翻訳者としての立場であり、その立場においての人類学的な視座の獲得の必要性である」(*4)。

 「惑星B」や、その成立過程において、ブリオーが美術館以外の公共性を指向している点は心より尊敬する。しかしそのうえで、地球環境へのアクチュアルな介入ではなく、そこにある「関係」の検証に彼の活動が終始しているように思えることには疑問を覚えた。つまり「崇高」が現実から遊離した、美術史的なコンセプトであり続けるという喜劇のなかで、関係を媒介する装置へと芸術作品を縮減しているのだとしたら、そこに不満を感じる。

  私たちは、芸術を通じて、理解不可能な個体──時として、人間以外の形をした人間──と直面することができるはずである。その直面において露出するものは、美術史的な一貫性ではなく、それ自体で世界から隔絶された、自律した生命であってほしい。だからこそ、鑑賞者と芸術がともに思考することを僕は望まない。

  人間であること、あるいは人間を中心に置くことの否定という点で、僕の活動はこうした先行者たちと比較できるのかもしれない。しかし、そこにあるのはまったく異なる否定性である。それはあの薄暗い部屋における、グレゴール・ザムザの苦しみにこそ類似している。自分自身であることを決してやめていないのに、自分自身として認められることがなくなってしまったザムザの苦しみに……僕がそこに見出したのは、「変身」と「観測」の両立による苦しみである。展覧会づくりの出発点としたかったのは、そうした身体だ。

藤田紗衣 DDD(warp) 2021 撮影=木奥恵三

3. 人間であることの否定

 だが人間であることへの否定性について、展覧会以外の方法を考えることもできる。それが物語という方法だ。例えば、諫山創によって紡がれたマンガ『進撃の巨人』(講談社、2009-21)は、人類が敵の実態を調査し、検証し、駆逐しようとすることで露わになる地獄を正確に表現した物語である。その敵は最初、「巨人」であったわけだが、いつしか巨人と人類を穿つ「壁」それ自体が巨人であること、そして巨人こそが「私たち」であった事実を目の当たりにさせた。そこにあるのは、死体と体液の悪臭を通じたダーク・ファンタジーである。さらに「巨人=壁=私たち」という図式を経て、登場人物のひとりが提示した計画は、あまりに歪んだ未来だった。それは「安楽死計画」と呼ばれるもので、私たち人類が生存するかぎり繰り返される終わりなき苦しみからの解放として、人類の身体を改造し去勢することで、子孫をつくることをできなくさせる反出生主義的な提案だ。

 ここまでの物語と提案を、展覧会に実装することは可能なのだろうか? そうした諦念が、僕のなかにはある。そして、ブリオーにおいて欠如しているのは、この諦念だ。

 そもそも現在、「芸術」と呼ばれる事物や状況は、西洋における宗教的な物語と組み合わせて鑑賞されるものであった。その物語を否定すると同時に、歴史資料として蒐集され、展示され、本来の物語を忘却することを鑑賞者に強いるのが美術館である。美術館での鑑賞を通じて、ある宗教的な共同体への参加を「新たに」決意する鑑賞者がいないことから明らかなように、美術館における展覧会は、私たち人類を物語へと誘うことなく、あくまで事実としてのみ思考可能な歴史へと幽閉する。あるいは、事物や状況の宗教的で社会的な機能を剥奪し、純粋なまなざしの対象へと還元する。しかるに、バーネット・ニューマンの絵画を通じて宗教「的」体験をしたとして、そこで私たちが新たな信仰に到達することができないことが、僕にとっての絶望なのだ。

 この絶望は、私たちの感動に出口がないことを意味する。私たちの感動は、実際的な諸関係へと還元され、流した涙は乾かすしかない。だが僕は、僕の関わる展覧会が、なにかしらの出口を持つものであってほしい。その出口に到達したとき、昨日までと同じように生きていくことができなくなりたいのである。

 まだ、諦めてはいない。だからこそ、この先は、この身をすり減らすことで掴みかけている未来のための個人的なビジョンについて記したい。

宍倉志信 P.S. Installer 2022 撮影=木奥恵三

4. 閑話休題

  「惑星ザムザ」の開催までの現実的なプロセスを記しておくなら、まず本展は、(展示作家でありインストーラーであり共同企画者でもあって、淀みない運営を行った)田中勘太郎が、僕に声をかけることで準備が始動した。それが今年の1月末のことである。そこから2ヶ月程度かけて、このたびの主催であるユニーク工務店リレーションシップや、会場の持ち主などへの挨拶や予算についての話し合いを経て、4月に入ってからアーティストとのやりとりを開始し、プレスリリースなどを制作することで急速に準備されたのが本展だ(つまり本展の成立における、物理的な功労者は最初から最後まで田中勘太郎である)。

 2年ぶりの東京でのキュレーション展となった「惑星ザムザ」は、大きな注目を集め、近年の若手による自主企画展としては異例の動員に成功したことは誰にも否定できない事実だろう。しかしその成功は、未だささやかなものであり、動員以上に重要な芸術的達成についてはよく考える必要がある。

  この展覧会における「動員」は二重の意味を持つ。それは第一に4800人以上の来場者という動員であり、第二に17名のアーティストが参加したという動員だ。そして、それぞれの動員に対応するものとして、ふたつの批判がなされた。それはまず「本展が廃墟のスペクタルを利用したものに過ぎないのではないか」であり、次に「複数の作家が水平的に扱われているにもかかわらず、キュレーションにおける新たな権力性が発露しているのではないか」という批判だ。

 以下の記述は、これらの指摘へと、錯綜的に応えるものである。

BIEN 15(for Planet Samsa) 2021(2022に再制作) 撮影=木奥恵三

5. 集まることの孤独

 現在ほど「集まること」に人々が誘惑される時代はない。そして展覧会から批評、デザイン、音楽、マンガにいたるまでのすべての文化的実践は、そもそも人を誘惑することで成立するというのが僕の考えだ。

 なかでも展覧会とは「集め、集まる」ことを核心とする表現形式である。そこにはアーティストから鑑賞者、作品、批評、感想までが集め、集まるのだ。つまり本展が、廃墟のスペクタルを利用して動員に成功したことは、展覧会という表現形式の持つ特異性を最大化したに過ぎず、もしもそのスペクタルが批判されるのだとしたら、その批判の矛先は本展ではなく「文化的実践」それ自体に向けられたものだと僕は思う。

 今日の社会において「集まること」が批判の対象である理由は、それがもっとも不衛生で不潔な行為として理解されているからだろう。数年前に世間を騒がせた共謀罪とは異なり、法律ではなく公衆衛生として、集まることを悪とする倫理が浸透している。

 しかし都合が良いことに、動員に対する批判的思考の出口として、水槽のなかの人間中心主義批判を利用することができる。その批判意識は、近年の新海誠監督作品における経済的成功の等価物である。彼は、キャラクター以上に雲や雨をスクリーンに登場させる演出で知られるが、そうした人間以外のアクターこそが、ボクとキミの、セカイ系的な想像力を可能にした。そこにあるのは、『進撃の巨人』のような首尾一貫した物語ではなく、場当たり的な出会いと喪失の連続だ。それはとても美しく、そして救いにあふれている。だから何度も見た。ここにあるのは、物語のもうひとつの力である。

 例えば、映画『天気の子』(2019)に人類史的な提案はないが、その作品における新海誠の立場は「非人間を含む多様な主体との関係を構築する外交官=翻訳者としての立場」である。今日の新海誠とは、多様なクリエイターとキャラクター、そして降り止まない雨によって水没する東京のあいだに立つ外交官なのだ。彼が動員したクリエイター、鑑賞者、キャラクター、雲、雨、地球、東京は、脱中心化された流体状のセカイを形づくる。「おい。まぁ気にすんなよ青年。世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから」(『天気の子』)という台詞は、責任者も権力者もいないユートピアへと現実をメタファライズするのだ。不完全な物語を前にして、私たちは(権力者ではない)外交官のおかげで世界との関係を回復する。

 水槽のなかの人間中心主義批判。それは、処方箋化された哲学のことであり、地球環境へのアクチュアルな介入を行うつもりもなく口にされる「環境危機」や「人新世」という言葉だ。処方箋とは、苦しみの忘却のためにある。もはや、誰もハンドルを握ることができないまま最高速度で移動し続ける航空機のように、私たちの生はどこかに向かって加速し続けている。こうして未来の操作不可能性の忘却こそが、今日における動員の理由になったのだ。

 だから人間ではないものがハンドルを握ってくれるのかもしれないという可能性において、人間中心主義批判はひとつの鎮痛剤となる。人々は、それを求めて殺到する。しかし、その透明な痛みはある瞬間に閾値を超えて、私たちを大地に叩きつけるだろう──そこに、まだ大地があってくれるのなら。

  かつて「原罪」と呼ばれていたもの。それは現在の地球において、人間であること自体の、返済不可能な負債となった。脱物語化された罪が、私たちの生を苛んでいく。そうであるにもかかわらず、ハンドルを握り直し、そして溜め込まれた負債を少しずつ返済しながら生きていくために、僕は、人間でありながら人間でないような「キメラ」になりたい。人間をはじめとした哺乳類だけでないものたちを組み合わせてつくられた「キメラ」になりたい。その変身に、展覧会は役立つかもしれないと思っている。

 ニコラ・ブリオーや新海誠にはまだ見えなかったものが僕は見たいのだ。

小松千倫 Painful (wall) 2022 撮影=木奥恵三

6. 廃墟としてのイヴ・クライン

 誘惑された人間たちが、気がつけば、人間でなくなってしまう。もう一度、話し方からつくり直さなければならない。そこではすべての歴史がゼロからはじまり直す。そんな時間を、僕は便宜的に展覧会と呼んできた。どこに向かっているのかは分からないけれど、この手にはハンドルが握られている。

 未来について考えるのに、現在の東京で廃墟以上に適した場所はない(ようにいまは思う)。それが未来と無関係だから。廃墟は人々を誘惑する。それが空虚な、なにものかの不在によって特徴づけられた空間だから。そして、そうした空間に集まることは、私たちが私たちの身体を見つけ直す契機となる。

 だから、まずはこの身体が不要であることからはじめよう。

 イヴ・クラインの《身体計測》シリーズは、まさに廃墟における身体性を絵画的に実現したものに感じられる。

[参考作品]イヴ・クライン 人体測定(ANT66) 1960 キャンバス、紙に水性メディウム 157×311cm いわき市立美術館蔵 提供=金沢21世紀美術館(「時を超えるイヴ・クラインの想像力 不確かさと非物質的なるもの」、10月1日〜2023年3月5日)

  キャンバスの上(あるいは前)に存在したモデルは、その身体の上からスプレー状の塗料が吹き付けられ、そして最後に立ち去る。そうして《身体計測》はつくられた。その塗料は、モデルの身体が存在していなかった余白を青く染める。これによって美術館に置かれたキャンバスは、現在におけるモデルの不在を提示し続ける。しかし青い塗料が提示する不在は、モデルの不在だけではない。むしろモデルの身体とキャンバスは平等に、同時に、青い塗料に包まれる。そのキャンバスがモデルの不在を提示するのと同時に、モデルの身体はキャンバスの不在を背負うこととなる。しかしキャンバスの上の青が美術館で保存されるのに対して、モデルの皮膚を覆う青は、その日の晩には暖かいシャワーで洗い落とされるだろう。その非対称性において、キャンバスは芸術へと昇華され、そしてモデルの身体は日常へと降下していく──その裂け目を、彼は「空虚」と呼んだのではないだろうか。

 そして人々が廃墟における展覧会を通じて体験するのは、こうした空虚である。つまり鑑賞者は、たんに展覧会を訪れ、写真を撮り、家に帰ることで、イヴ・クラインにおけるモデルの位置を体験することができるのだ。

 そして、今日の社会における「集まること」への欲望とは、こうした「身体が不在へと至ること」への欲望なのだと僕は思う。どこにいても自分が自分であることを特定され、何かを埋め合わせることを強いられる今日の社会において、人々は自分が不在となることを欲望しているのではないだろうか? 僕が、僕の芸術実践を通じて考えたいのは、そうした不在の肯定なのだ。そして最終的に、集まることが孤独の理由となってほしい。つまり人間の動員と不在の両立のために、僕は廃墟を利用したかったのである。

7. 「キメラ」へと至る喘ぎ

 会場の前で「個別の作品の鑑賞体験にとってキュレーションがノイズに感じました」と言われた。それを、キュレーションにおいて生じる権力への批判と相似の指摘だと僕は理解する。思い出す。黒沢清によるホラー映画『CURE』(1997)。その映画では、役者が役を演じているという事実と、映画がひとつの物語を展開することの二重性を恐怖の感情へと結びつけた。私たち鑑賞者を見つめるようにカメラを凝視して喋る登場人物の姿が、物語における発狂の表現であることによって、映画のなかに文字通りの発狂を見出す私たちは、演技と物語の二重性の出口として、恐怖に到達する。つまり黒沢清は、多様な主体を媒介する外交官ではなく、人間以外の異形として画面外に存在する恐怖の対象(=監督)ですらあるのだ。そこでは多様な主体が、互いの成立を阻害し合うことで、ひとつの物語が立ち上がる。

 しかし、たしかに「惑星ザムザ」において、作品と展覧会、あるいは制作とキュレーションのあいだに、『CURE』におけるような二重性の感情的な出口(=恐怖)が十分に用意されていなかった可能性はある。つまり調停不可能な二重性を前にした鑑賞者のために、恐怖や笑い、性的興奮といった感情の出口を用意する必要があるのかもしれない。

 だが僕は、それをしなかった。その点において、キュレーションの権力は、ひとつの表現ではなく、たんなる権力として発動してしまったのかもしれない。しかしそれでも、ここからはじめることが必要だと僕は考えている。なぜなら、あらかじめ約束された感情に価値を感じないからだ。ある対象が、ひとりの人間を恐怖に震わせ、別の人間を止まらぬ笑いに閉じ込め、また別の誰かを性的興奮に誘うような、そんな偶然性にこの身を曝したい。明確な感情の出口はなく、だからこそそれぞれがその出口を探す。そんな時間を出発点としたいと思った。

 いまだ出口はない。だが、人間であることの否定は、すべてのモノたち、アクターたちのダイバーシティへと向かうべきではなく、私たちが人間であることを辞めることができないことの苦しみにおける喘ぎであるべきだと感じている。この喘ぎに耐えることこそが、私たち人類が溜め込んだ負債と向き合うことなのだ。そしてそれこそが、矛盾した人間存在の、その矛盾の解消という生のよろこびになるのかもしれない。そのための矛盾した空間こそが「展覧会」である。しかしこれは便宜的な呼び名に過ぎない。こうした喘ぎのためなら、僕は、どんな方法でも使いたいと思う。

 だから僕は、外交官ではなく、ひとりのアーティストとして、この身体と、この世界に存在するモノたちが継ぎ接ぎされた「キメラ」でありたい。そのためなら、僕は、自分が担うことになる権力を否定しない。権力がないフリをしない。もしも僕が、矛盾や二重性への葛藤を失ったのなら、そのときはたんなる老害として駆逐されるべきだろう。それまでは、まだ変えることができると思える未来のために努力を続けたい。

 以上、僕自身が見聞きした「惑星ザムザ」への言及に対して、断片的で荒削りではあるが応答を試みたつもりである。そのうえで注意書きをするのなら、これはあくまで布施琳太郎という、様々な矛盾のなかで思考するアーティスト(キュレーター)による言葉である。田中をはじめとした展覧会関係者には、それぞれの思惑や思想がある。そして「惑星ザムザ」に置かれた作品は、アートワールドにおける良し悪しを超えて、漫画や映画ですらない新しい表現形式に到達し、もはや展覧会に依存しなくなる、そんな可能性にあふれたものたちだ。

 私たちは、徹底的に孤独な存在である。なにものとも意見を共有することはない。だからこそ、ここに違和感のある人間が、それぞれの仕方で、次なる思考と実践へと歩みを進めるための刺激として本稿が役立てば幸いである。

横手太紀 When the cat_s away, the mice will play 2022 撮影=木奥恵三

*1──Stefan Heidenreich “Freeportism as Style and Ideology: Post-Internet and Speculative Realism, Part I” e-flux Journal Issue #71, 2016(https://www.e-flux.com/journal/71/60521/freeportism-as-style-and-ideology-post-internet-and-speculative-realism-part-i/ 2022年5月18日最終アクセス)。日本語訳は筆者による。
*2──同上。
*3──Nicolas Bourriaud “Planet B: Climate Change and the New Sublime”(https://radicants.com/ 2022年5月18日最終アクセス)
*4──沢山遼「『人新世におけるアート』は可能か?:ニコラ・ブリオー、あるいはグレアム・ハーマンの『無関係性の美学』」(http://ga.geidai.ac.jp/indepth/special-lecture-report-ryo-sawayama-on-bourriaud/ 2022年5月18日最終アクセス)

※1──本稿における「キメラ」という語は、布施琳太郎の作品制作に対する批判を意図して福尾匠がソーシャルメディアに投稿した「メディア環境を内面化したキメラ的リアリズム」という発言に触発され、本来の意図を超えて、布施によって再利用されたものです。しかし発表時点では、本来の意図と文脈から逸脱した引用であることを明示できておりませんでした。そこで本稿公開後に「キメラ」という語をすべて括弧にくくり、引用であることを明示する修正を加えました。(2022年6月25日追記)
※2──註※1にあるように、ここでは福尾の発言の本来の意図から逸脱した用語の利用が行われています。この点について公開時点で注意喚起がなかったこと、申し訳ありませんでした。(2022年6月25日追記)