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パンデミック下の「カッティングされた現実」とは。椹木野衣評 「エキシビション・カッティングス」展

ロンドンを拠点にするキュレーター、マチュウ・コプランによる日本初の展覧会 「エキシビション・カッティングス」が、銀座メゾンエルメス フォーラムで開催された。挿し木・接ぎ木、そして文字通り切り抜きや映画の編集を意味する「カッティング」というテーマで構成された本展は、現在のコロナ禍とどのように響き合うのか。椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

会期中に育てられた多数の植栽 Photo by Nacása & Partners Inc.

成長する現実

 コロナ・パンデミックとなって2度目の夏が訪れた。東京五輪開催中、テレビはどのチャンネルも朝から晩まで、ほぼ切れ目なく連日、その熱狂を伝えていた。他方、デルタ株と呼ばれる変異ウイルスが、そんな浮かれた気分に乗るかのように猛威を奮い、東京を中心に首都圏の感染者数は爆発的な様相を呈している。
 この恐怖と熱狂と、いったいどちらが現実の東京で起きていることなのだろう。これではグレゴリー・ベイトソンがかつて唱えた、意識が分裂する要因とされるダブル・バインドの解きがたい二重メッセージに日夜、誰もが晒され続けているようなものだ。
 分裂したメッセージの並行した発信といえば、これはほかでも少しふれたが、国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は、開催中の東京五輪について「パラレルワールド(並行世界)みたいなもの」と発言した。感染の急拡大と五輪との因果関係を否定するための比喩なのだろうが、選手をひと目でも見ようと沿道に集まる人たちの様子ひとつとっても、両者のあいだにまったく関係がない(並行世界)とは思えない。だから「みたいなもの」とお茶を濁したのだろう。だが、正しくは、五輪の熱狂とコロナの恐怖とのあいだの関係は「パラレル」なのではなく、むしろ「カッティング(切断)」された現実なのではないだろうか。パラレルに対してカッティングで抵抗する──そのようにでもとらえないかぎり、私たちの精神は容易に分裂の淵に立たされてしまう。

展示会場より。什器には、甘夏の木が植えられていた

 そのまさしくカッティングをテーマとする展覧会がコロナ禍のもと、東京・銀座で開かれた。ロンドンを拠点とするキュレーター、マチュウ・コプランによるその名も「エキシビジョン・カッティングス」がそれだ。この展覧会には、様々な意味での「カッティング(切断)」が幾重にも畳み込まれ、そのことで新しい現実=環境が終始、生成されていた。

 展覧会場は大きく2つに分けられている。内容は非常に対照的で、同じキュレーターの手によるものとはにわかには思えない。第一の空間は「育まれる展覧会」と題され、会場の最大の特性であるガラス・ブロックからなる全面の壁から燦々と差し込む外光を受けて、瞑想的と言ってよいドローンを特徴とするクリアな音響(作曲=フィル・ニブロック)が鳴り響くなか、少し見上げるような位置で栄養分豊かな土壌(福岡正信自然農園の土)を用いて植物(甘夏の苗木)が育てられている。来場者はそれを、様々な向きに置かれた天然の木材によるベンチ──6つのすべてに名前がつけられ、それぞれに異なる人格があるという──に座って、思い思いに味わうことができる。その光り輝くような空間には、コロナ・パンデミックによる鬱屈しがちなステイホームの内閉的な重圧を忘れさせる効果がある。

「アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー」の展示室前には、フィリップ・デクローザの絵画が掲げられた
Photo by Nacása & Partners Inc. Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès
「アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー」の上映風景
Photo by Nacása & Partners Inc. Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 他方、箱型に螺旋を描くフィリップ・デクローサの絵画で始まる第二の空間「アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー」では、その絵の形状が前もって示唆するように、私たちは暗い回廊を通じて突き当たりの(出口のない)闇へと導かれる。流されているのは、豊かな外光ではなく電気的な光源に基づく映像の投影で、私たちはこの映像を通じて、コプランによるコロナ・パンデミック以前になされた過去の仕事を、劇場のように既製の椅子に座り、隣人と視線を同じくして目で追い、回顧的にたどり直すことになる。
 いま回顧的と書いたけれども、それは通常の意味での過去を扱うものではない。ゆえにアンチ・ドキュメンタリーとされている通り、これはコプランが2016年にキュレーションした「閉鎖された展覧会の回顧展」(Fri Art クンストハレ・フリブール)を、コロナ・パンデミックのもと時空を「カッティング(編集)」するかたちで接続した「新しい現実」でもあるからだ。そして、そのような接続が可能なのは、この「回顧展」が、歴史上、アーティストらによって展示空間が閉鎖されるかたちで開かれた展覧会──その最初の事例となるのが、ハイレッド・センターによって、1度目の東京五輪の年に開かれた/閉められた画廊空間を「展示」した「大パノラマ展」(1964)であるのを、私たちは2度目の東京五輪の年にいま一度「カッティング(縫合)」することになる──をたどり直すものであったからにほかならない。

緊急事態宣言下による閉廊中、同展のポスター上に貼られた「会期中、ギャラリーは閉鎖されます」の掲示
Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 その意味でも、第一の空間とは対照的に、過ぎ去った展示の記録へと導かれるかのようなこの第二の空間は、じつは過去ではなく、世界中で美術館をはじめとする展示空間が感染拡大防止のため封鎖されている現在そのものと呼ぶことができる。「アンチ・ミュージアム」とは、ほかでもないいま私たちが迎えている新しい現実=環境そのものなのだ。事実、本展はオープンしてわずか数日後に緊急事態宣言の発令によって現実に「閉鎖」された。だからこそコプランは、すぐさまアーティストのロバート・バリーに呼びかけ、バリーは映像のなかに出てくる過去の「閉鎖されるギャラリー」(1969〜)を新たに「会期中、ギャラリーは閉鎖されます」(2021)という掲示へとカッティング(再編集)してみせたのだ。
 そして、そのような時空を編集する橋渡しのことを、コプランは今回の展示をめぐる中核的な概念として、「挿し木・接ぎ木」というふうに植物の比喩でとらえている。カッティング(切断)はしばしば暴力的なニュアンスを伴うが、それだけではない。ほかでもない植物の事例で見られるように、カッティング(挿し木・接ぎ木)は、異なる環境に新たな生命を呼び込むための契機=土壌となりうる。

 そして、このもうひとつのカッティングを通じて、第二の空間は、実際に植物が育つ最初の空間「育まれる展覧会」へと比喩的に「挿し木・接ぎ木」されている。第一の空間で示される光と緑と土からなる生命の息吹は、まさしくコロナ・パンデミック下で育まれる未来への希望を体感させるが、しかし第二の空間が備える編集された過去と接続されることで──つまり出口がないかに見えた第二の空間の突き当たりの部屋は、じつは第一の空間への入り口でもあったのだ──、そこにも別の過去をめぐる影が差していることを気づかせる。

会期中に育てられた多数の植栽 Photo by Nacása & Partners Inc.

 明るい光に満ちて緑が育まれる第一の空間が、なぜ暗い過去の影に浸されているのか。私たちがそこで未来への希望を感じることができるのは、そのような「育み」が、コロナ・パンデミックの渦中でこそ光り輝くものであることを知っているからだ。つまり、私たちは第一の空間で、第二の空間での追体験がそうであるように、なぜ世界中の展示施設が、いまのようにコンセプチュアルでもないかたちで封鎖されるようになってしまったのかについての内省も、明るい光を浴びながら同時に試みる必要がある。だからこその希望なのであって、第一の空間は決してたんなるリラクゼーションのための装置ではないのだ。
 本展は、このような様々なカッティング(切断、縫合、編集、挿し木、接ぎ木)を通じて、会期中に複数の封鎖と再開を繰り返しながら、まさしく植物とともに「育まれて」いった。時に無人の空間で、ガラス・ブロックから降り注ぐ陽光とドローンが空間に響くなか、苗木が観客の誰にも目撃されることなく開花するという出来事までをも「カッティング」(挿入)しながら。そして最終的には会期そのものも延長され、展覧会自体が挿し木のように時をたぐって未来へと芽を伸ばしていった。
 そうして創造的に紡がれた「カッティングされた現実」にこそ、私たちはたどり着かなければならない。決して「新しい日常」や「パラレルワールド」などではなく。

『美術手帖』2021年10月号「REVIEWS」より)

編集部

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