伝統的な展覧会の役割を覆し、認識を刷新するような実践を続けているロンドン在住のフランス/イギリス人キュレーター、マチュウ・コプラン。そのコプランがキュレーションした日本では初となる展覧会「エキシビジョン・カッティングス」が、銀座メゾンエルメス フォーラムで開幕した。
コプランは、2003年から展覧会というプラットフォームを用いながら、その伝統的な役割や枠組みを揺るがすことに挑戦しながら、新たな展覧会の体験や知覚を提案するようなかたちで実践を続けてきた。09年にパリのポンピドゥー・センターで開催され、コプランが共同キュレーションした「Voids. A Retrospective(空虚。回顧展)」では、ギャラリー空間を空にすることを試みた歴代の展覧会を回顧し、完全なる空虚としての展示体験は大きな話題を呼んだ。
また、16年にスイスのクンストハレ・フリブールで行われた単独キュレーションの「A Retrospective of Closed Exhibitions(閉鎖された展覧会の回顧展)」では、アーティストがひとつの表現としてギャラリーなどの展示スペースを閉鎖した歴代の展覧会を特集。本展では、スイスでの展覧会のドキュメンタリー映像作品を上映している。
本展は、「カッティング」というキーワードをもとに、この言葉が持つふたつの意味から構想されている。まず、フィリップ・デクローザの絵画で始まる空間を紹介したい。
この空間では、「カッティング」を新聞などの切り抜きや映画などの編集作業の意味としてとらえ、過去に行われた展覧会のアーカイブから切りとって実践を続けるコプランの身振りを紹介する。
上述のドキュメンタリー映像作品《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》では、前衛芸術グループのハイレッド・センターが1964年に内科画廊を展覧会初日に閉鎖し、「展覧会」の概念に挑んだことをはじめ、松澤宥やグラシエラ・カルネヴァーレ、ダニエル・ビュレン、マウリツィオ・カテランなどのアーティストが芸術行為、あるいは自らの決断において展示を閉鎖した歴史を紹介し、展覧会の本質や展示空間における制度の限界を問いかける。
本展の開幕に先立ち行われたギャラリートークでは、コプランはこの部分についてZoomでこう話した。「この映像作品は、2016年の展覧会でリサーチしたことなどをベースにつくっていったのですが、映像にまとめ直している作業のなかでコロナ禍が始まり、『閉鎖する』ということは、非常に奇妙なかたちでこの1年間の状況と重なってきてしまいました。また、展覧会で紹介したアーティストたちのアーティスティックな取り組みとしての閉鎖は、コロナ禍だけでなく、私たちのいまの生活状況や社会のあり方なども示唆しています」。
もうひとつの空間は、「カッティング」を植物の「挿し木・接ぎ木」として参照し、有機体を展示空間に移植することなどで、人工的に生命を育む生態系を暗喩するものだ。
「育まれる展覧会」と題されたこの空間では、アーティスト・西原尚らによる木製の什器や椅子の展示とともに、ミニマルな音楽が流されている。展示スペースの中央に置かれた什器では、福岡正信自然農園から届けられた土と甘夏の苗を育成しており、展示期間中にひとつの「環境」が生まれている。
また音楽は、急進的なミニマル・ミュージックの巨匠のひとりであるフィル・ニブロックが本展のために書き下ろしたもの。全六曲の楽曲は、アンサンブルIRE、ディヴィッド・マランハ、スティーヴン・オマリー、デボラ・ウォーカー、エリザベート・スマルトによって演奏。うち一曲『Exploratory, Rhine version - “Looking for Daniel” 探索(ライン川編〜ダニエルを探して)』は、日本のヴォーカル・グループVox humanaがコロナ禍に東京で演奏、録音したものだ。
コプランは、福岡正信が絶滅危惧種や気候変動に抗した様々な取り組みに影響を受けたとしつつ、「植物が展覧会の真ん中にあることによって、展覧会期間中には生命が実際に営まれます。『環境』というのは、現在のことだけではなく、過去と未来もつながっているようなイメージを持っています」と続けた。
過去の展覧会のアーカイブや実際の植物を「カッティング」することで、展覧会という場の持つ可能性を問いかけたコプラン。示唆に富む展覧会が開幕した。