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2021.8.13

音楽が流れ、植物が育つ、新たな展覧会プラットフォーム。黒沢聖覇評「エキシビジョン・カッティングス」展

銀座メゾンエルメス フォーラム(東京)にて、ロンドンを拠点とするキュレーター、マチュウ・コプランによる展覧会「エキシビジョン・カッティングス」が開催された。展覧会の枠組みを問い直してきたキュレーターが、「カッティング」というキーワードから構想した2つのパートから成る本展を、若手キュレーターとして活動する黒沢がレビューする。

黒沢聖覇=文

「育まれる展覧会」の展示風景より
© Nacása & Partners Inc.  Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès
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アンチというプリズム: エキシビション・カッティングス

いろいろある。
芸術は
芸術は無
芸術はすべて
芸術はどこにもない
芸術に境界はない
これが芸術で
あれも芸術で…
芸術という言葉を使うとき、
芸術という言葉を取り除いてしまったら何が残る?
わからない。境界かな…
(ベン・ヴォーチェとマチュウ・コプランの対話 、2015年、映像作品『アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー』のスクリプトより)

 さて、何から始めるべきか。そもそも入ることも出ることもできないならば、始めることができるだろうか。この展覧会は「閉鎖」されている。にもかかわらず「育まれている」。私はフィリップ・デ・クローサの絵画が示すような「閉鎖された迷路」を外側から見て入ることができずに立ち尽くしているのか、それとも迷路の内側にいてどのように脱出するかということに苦悩しているのか。閉鎖された展覧会をレビューすることができるだろうか。そもそも見ること(view)ができないならば、どのようにそれを振り返ること(review)ができるだろうか。

フィリップ・デクローザ 無題(アンチ・ミュージアム) 2021 キャンバスに油彩 151cm×162cm 作家蔵
© Nacása & Partners Inc.  Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 本展はオープンの直後、東京都における3度目の緊急事態宣言によって、一時的に「閉鎖」されたが、誤解を与えないために言えば、私は本展の再開後、実際に鑑賞している。しかも複数回にわたって。けれども、いっぽうで私はこの展覧会をどうレビューするかということについて書きあぐねている。

 「エキシビション・カッティングス」。「挿し木・接ぎ木」と「切断・編集」の両方を意味するこの展覧会は、2つの(反)展覧会によって構成されている。ひとつめは、「アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー」。ふたつめは「育まれる展覧会」。

アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー(スペースB)

 本展のためのコミッションとして、キュレーターのマチュウ・コプランが手掛けた(反)ドキュメンタリー的映像作品である。コプランがキュレーションに携わった「閉鎖された展覧会の回顧展」(フライブルグ・クンストハレ、2016)や「空虚、回顧展」(ポンピドゥー・センター、2009)という2つの回顧展から派生しており、1)「閉鎖」、2)「反展覧会(アンチエキシビション)」、3) 「反芸術(アンチアート)」、4)「反美術館(アンチミュージアム)」、5)「反文化(アンチカルチャー)」、6)「すべては芸術である」という6つのパートからなる。オープニング初日に展覧会を閉鎖したハイレッド・センターによる「大パノラマ展」(1964)やイブ・クラインによる有名な「空虚」展(1958)など、美術館や展覧会にまつわる制度に反旗を翻した様々なアーティストたちによる「閉鎖」の系譜を、戦後美術史を「切断・編集(カッティング)」するようにしながら、実験的に、しかし資料をもとに具体的に描き出している。

反美術館(アンチミュージアム)が展示するのは、政治的、かつ芸術的な問いかけによるラディカルな対決であり、美術館自体が自らの破壊の媒体となるような実験的な行為である。
(マニフェスト、映像作品『アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー』のスクリプトより)

 本映像は、コプランによってキュレーションされた実験的な(反)展覧会である。視覚デザイン、サウンド、展覧会資料、コプランとアーティストとの対話の記録などの一次資料によって多角的に示される、主に1960年代を中心とした複数形の「アンチ(反)」の諸文脈が、一貫したキュラトリアル言語によってまとめ上げられている (*1)。また、会場スペースを袋小路型の暗幕によって仕切ることで迷路型の空間がデザインされており、その行き止まりで本作は上映されている。本映像は、「反美術館」の境界を問うと同時に、これからの美術館が志向するべきミュゼオグラフィをも鮮烈に示す。

《アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー》の展示風景 
© Nacása & Partners Inc.  Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 コプランにとってアンチミュージアムは「破壊の媒体」であって、「破壊」そのものではない。彼のキュレーションが問うのはアンチというプリズムの示す「急進性(radicality)」のスペクトルであり、イズムとしての「急進主義(radicalism)」と混同するべきではない。理想的な美術館とは何か? 人々が集まり対話や言説を生み出せないソーシャルディスタンスの時代に、美術館や展覧会は何を生み出すことができるのか? 芸術と非芸術の様々な境界を問うため、あらゆるアンチを標榜した過去のアーティストたちによる実践をもう一度回顧し、それを映像による(反)展覧会として構成しなおすことで、本映像はこれからの展覧会が展覧会たりうる臨界点を今日の状況下で再び問う。芸術におけるこうした「閉鎖」への問いは、2020年以降のクリシェともなりかねないが、コプランは重厚なリサーチにもとづいた「回顧」のなかから、今日と未来へのアナクロニスティックな問いかけを生み出している点で、ポスト・コロナのアートをめぐる即興的な反応とは異なっている。

育まれる展覧会 (スペースA)

 コプランのコミッションによって、フィル・ニブロックが制作した6つの楽曲がループされている。ニブロックによるミニマルかつロングトーンやドローンを活用した楽曲は、展覧会の時間や空間を引き伸ばすような感覚を与える。なかでも日本のヴォーカル・グループVox humana(ヴォクスマーナ)による(マスク越しの)声のみのポリフォニー「探索(ライン川編〜ダニエルを探して)」は、ヒューマニティの境界を撹拌し、展示環境と共鳴しながら会場を包む。また、会場中央に「展示」されているのは、自然農法家として著名な福岡正信の自然農園から「借用」した甘夏の苗木と土である。この苗木は、会期の終了後、自然農園へと「返却」される予定であったが、メゾン・エルメスの屋上庭園へと「移植(巡回?)」されることになった。スピーカーやこの苗木を支える展示什器もまた、西原尚によって様々な地域の間伐材を用いることで制作されている。コプランによれば、「育まれる展覧会」は、苗木がニブロックの楽曲のなかで育つことで、展覧会そのものが「環境」となる(である) 可能性を示している (*2)。

 「育まれる展覧会」は、緊急事態宣言下、ギャラリーが閉鎖されているなかでも、展示室内でニブロックの楽曲を流していたという。そして、鑑賞者が不在のなか、「閉鎖」のなかで甘夏の花が咲いた。

「育まれる展覧会」の展示風景より
 Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès

 いささか感動的でさえあるこの出来事は、「閉鎖」の生み出すひとつのロマンティシズムとでもいうべきものを喚起する。入れない展覧会への憧憬や欲望、そこにある純粋な自然農法で育まれる苗木。これは日頃私たちが、奥深い森林の「手つかずの自然」を夢想するときの感覚にも似ている。しかし、福岡正信農園の自然農法は放任(ほったからし)では決してなく、また「手つかずの自然」などもはや今日ではほとんど存在しないように、当たり前だが「手つかずの展覧会」もまた存在しない。例えば、「育まれる展覧会」の展覧会キャプションには、ニブロックの楽曲や福岡正信農園の苗や土、西原尚による什器などに加えて、太陽光(自然光)が作品の「素材」として表記されている。それが素材として記述されることで、私たちが自然環境として切り離して考えている要素を、アートの展覧会の文脈のなかへと取り込んでいく。そして、あくまでもギャラリーという制度のなかで、苗木に水を与え、その成長を皆で見守ると同時に、木々もまた私たちを見つめながら、私たちの心をどこかケアしている。

 ギャラリーという制度のなかにあって、それでもなおコプランの言うように本展が「環境」となりうるのであれば、逆説的に「すべての環境は展覧会である」可能性も含んでおり、本展は「反環境(アンチエンバイロメント)」の展覧会であるということさえできる。こうした議論は、アース・アートや環境芸術の文脈において、とりわけ新しいものではなくむしろ古典的にさえ聞こえるかもしれない。しかし、(とりわけコロナ禍というものに注目しなくても)私たちが環境と考えているもの(あるいはティモシー・モートンにならえば「とりまくもの=アンビエンス」)の前景・中景・後景のグラデーションや境界がますます問われている今日、環境とは何かということを再び見つめ直し、「回顧」することもまた、重要であるだろう。

「育まれる展覧会」の展示風景より
© Nacása & Partners Inc.  Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès
「すべてが芸術」であるなら、すべて、どんなものでも、芸術として受け入れられるべきだ。もし、そもそも実在しない分野のための空間など不要だとされたら、美術館はどうあるべきか?美術館が遺産保存のための恒久的な機関ならば、この作品は、部分的な外観にはすぎないものの、そういった既存の規範を非難するものである。そして、急進的で明白な反美術館を反対派が提示するのを奨励する。
(映像作品『アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー』のスクリプトより)

 加えて、コプランにしたがえば、本展は展覧会が「一時的」なものであるという側面を強調する。そして私たちが経験するあらゆる環境もまた一時的/刹那的なものである。ミュージアムが、例えば常設展(パーマネント・エキシビション)か企画展(テンポラリー・エキシビション)かなどという語法によって、永続性(パーマネント)と一時性(テンポラリー)の境界、近代啓蒙のミッションと現象のはざまを揺れ動くように、今日、私たちと(自然)環境の関係もパーマネントとテンポラリーのはざまをつねに揺れ動いている。ここでは、環境と芸術をめぐる以下のような矛盾した問をぐるぐると循環することになるのだ。

「私たちにとっての(自然)環境は永続するはずだ、そして永続しなくてはならない。いや、しかしそれはつねに一時的なものであることも知っている」。

「芸術とは永続するものである。いや、しかしその鑑賞体験はつねに一時的なものであることも知っている」。

福岡正信の「無の哲学」

 福岡は、若年のころ急性肺炎にかかり死の淵をさまよったことで、「この世には、何にもない」と悟ったという。それ以降、究極的には「何もしない」ための自然農法を目指し、その方法論の確立のために40年以上の歳月を費やしたうえで、独自の「無の哲学」を提唱している。自然農法はパーマカルチャーとも呼ばれるが、これは永続的な農と同時にそれにもとづく永続的な文化の双方を示す用語でもある。何もしない農、何もしない文化。何もしないことによって生まれる永続性。カルチャーは土地を耕すこと(ラテン語のcolere)が語源なのだから、「不耕起」から生まれる文化とはほとんどアンチノミーである(*3)。そして、彼の「無の哲学」のなかでは、芸術家もまた無心であることが求められる。彼は近代芸術や前衛芸術を否定し、「無心」から生まれる芸術こそ、永遠の生命を持つのだと述べる(*4)。あくまでテンポラリーな農の実践の積み重ねが、この永続性への直観を生み出したのだろうか。そうした意味では、福岡もまた「反芸術家(アンチアーティスト)」ならぬ、無芸術家主義的な「いち芸術家(アナーティスト ANartist)」であるのかもしれない(*5) 。しかし彼のこうした思想は、「無」であるがゆえに私の入ることのできない閉鎖された領域で展開されているという可能性も考えなくてはならない。

 無や空虚、閉鎖されていること、あるいは「何もしないこと」を、外部から観察することは難儀である。これに近づこうとすれば「何かをしている」ことになる。このような閉じた領域で得られる直観は、おそらくつねにその内部にいてそれを経験しなければならない。無や空虚、「何もしないこと」はいっぽうで排他的でありながら、他方ではエコロジーの肯定や保全となりうるアンビバレントな可能性の領域なのである。

マチュウ・コプランによる福岡正信の「四季の食物マンダラ図」スケッチ 参照=『自然農法 わら一本の革命』(春秋社、2004)

台風の目

 展示室を複数回訪れると、福岡正信農園の「粘土団子」(*6) から生まれた、どこからきたともわからない植物たち(無知の私にはこのような語彙しかない)が、甘夏とともに成長していることに気づく。そしてニブロックの楽曲が生み出すドローンが、展覧会という環境の一時性と、その持続の双方を再び強調する。

 本展では芸術や環境のあらゆる文脈における複数形のアンチが、螺旋状に回転することで、中心にあるべき無や空虚、「自ら然るべくあるもの(自然)」の境界が変動していく。

 わかってはいたが、こうしてレビューを執筆していても、本展に潜在している求心力と遠心力の双方のエネルギーによって、私は本展の内側にいるのか、外側にいるのか、まるでわからなくなってくる。しかしこのあいだにも、甘夏の苗木は育っているだろうし、会期終了後にも育ち続けるだろう。台風の目のように、見えないところで何かが静寂のなかで、持続している。晴天と暴風雨の双方を同時に経験できないことと同じように、本展を構成する2つの展覧会を横断して書こうとすればするほど、本展レビューもカッティング(切断・編集)されてしまう。むしろ「何も書かないこと」こそ本展レビューが目指すべきかたちなのかもしれない。だがこれも何かの「接ぎ木」となることを願いつつ、本展鑑賞の体験と重なっているように思える、福岡正信氏の詩を拝借して、終わりにしたい。

無門の大道 人気無く
天静かなれども 地はさわぐ
誰が立てるか 浪風は
右じゃ左じゃ 攻め守れ
何がよいやら 悪いやら
どちらも同じ ハッチャメチャ
人無き園に 仮の庵
今日一日が 百年で
大根 菜の花 花盛り
西暦二〇〇〇年 月おぼろ
無我夢中 この世あの世を 素通りし
定め無き身の空の旅
あとは野となれ 山となれ
(福岡正信『自然農法 わら一本の革命』、春秋社、1983年[新版2004年]、267-268頁)

*1──本映像にて、コプランは「映像キュレーション」としてクレジットされている。他、ナレーション=ヘンリー・ロリンズ、作曲=FM アインハイト、パン・ソニック、脚本・制作・監督=セリーヌ・フィッツモリス。
*2──コプランによる本展の解説は、エルメス財団が制作した公式映像にて見ることができる。(https://www.youtube.com/watch?v=3d2e97D1yIg&t=1285s)
*3──福岡正信は、究極的には「なにもしない」農法を追求したが、あくまで付け足すのではなく、「人智の範疇で足して補おうとはせずに、極力意味をなさない・必要でないものを減らしていく=引く事」を目指すミニマルな農法を確立した。放任とは違うことを福岡正信自然農園は強調している。(https://f-masanobu.jp/about-masanobu-fukuoka/ [2021年7月23日最終アクセス])
*4──以下を参照せよ。「真の芸術は、ただ無心の心に感じ、映るものを詠み歌えばよかった。虚偽の自己を排除していった所に露出する自己を発掘すればよかった。絵は無心に描けば良かったのである。歌は無心に歌えばよかった。芸術家を自称する人々は、懸命になって自己を虐げ、熱中し、夢中で芸術の創作にふける。しかし無心と夢中は、似ていて、まったく異なった世界である。夢中は有心の世界であり自我の捏造にすぎない。そこには芸術に似た虚偽の幻想の芸術があるのみである。それは真でもなく、善でもなく、美でもない。無心の芸術は無我ゆえに万人の共感を呼び、永遠の生命をもつ。夢中に達成された芸術は我執ゆえに、時と場所により転々としてその価値は移り変わり、ひとにとって無用のものとなる」(福岡正信『無Ⅱ 無の哲学』、春秋社、1985年(新版2004年)、428-429頁)
*5──映像作品「アンチミュージアム:アンチドキュメンタリー」のスクリプトより、リチャード・ハミルトンとマルセルデュシャンの会話(1959年)から。ここではデュシャンが、無政府主義者のアナーキストにかけて、無芸術家主義としてのアナーティスト(ANartist)を提唱している。
*6──福岡正信の生んだ自然農法で使われる手法で、次の季節の作物のための百種類以上の種を粘土、たい肥、肥料と混ぜて団子をつくり、自然環境に撒いて放置すると、より適応しやすい時期に種が自然に発芽する。